第46話 開示された数字
朝の廊下は、当直交代の騎士たちが行き交う時間帯だった。
ハルトは書類を小脇に挟んだまま、第四小隊の詰め所の前で一度立ち止まった。
昨夜フィナから受け取ったばかりの様式第二十九号は、まだ一字も書かれていない。
(ハインズさんに渡して、署名をもらって、今日中に補償院に出す)
申立参加同意書。本人直筆と署名があれば、フィアに渡すだけでいい。それだけのことだった。
ハルトは扉を叩いた。
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「これが、その書類ですか」
ハインズは詰め所の端の椅子に腰を下ろしたまま、差し出された紙を見た。膝をかばうように少し斜めに座っているが、背筋は伸びていた。
「本人直筆の署名だけお願いします。提出はこちらでやります」
「……簡単に言いますね」
棘はなかった。確かめるように、静かに言った。
「これに名前を書いたら、後戻りはできないんでしょう」
「規則上は、提出した同意書の撤回は認められていません。ただ、申立そのものは条件次第で取り下げる余地があります」
曖昧にしても意味がない。正確に言った。
「俺が踏み出したせいで、余計なことが起きたら……」
ハインズが言葉を切った瞬間、視界の端にウィンドウが現れた。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:ハインズ(聖騎士団 正騎士)
スキル:ネゴシエイト(Lv.1)
状態:踏み出す意志(確定)、不安(継続への影響を懸念)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
(使おうとしていないのに、起動した?)
スキルが勝手に反応した。
(「踏み出す意志(確定)」……もう決まってるんだ)
ハインズは迷っているんじゃない。踏み出す前に声に出して確かめたいだけだ。
「ハインズさん」
「なんですか」
「守れる範囲を正確に言います。申立後の不利益取扱禁止条項、補償院業務規則第二十二条の範囲内で、制度上の盾を立てることはできます。申立を行ったことを理由とした不利益は、認定外の行為として補償院が対処する義務を負います。三年前みたいな配置換えの理由には、制度上なりにくくなる」
「できる限り、ってことですか」
「できる限り、です。完全には守れません」
ハインズはしばらく黙った。窓の外、外周の塀が朝日を受けていた。
「俺が書いても、膝が治るわけじゃないですよ」
「そうですね」
「じゃあ何のために書くんです」
「次にゲイルさんみたいな人が同じ壁にぶつかったとき、記録として残ります。その記録は誰かの根拠になります」
ハインズはしばらく手元の紙を見ていた。
それから、黙って手を伸ばした。
書き終えた紙を押し返してきたとき、インクがまだ乾いていなかった。ハルトは丁寧に折り畳んだ。
「ゲイルさんには、俺から話しておきます」
「それはこちらから……」
「いや」ハインズは立ち上がりながら言った。膝をかばって、少し時間がかかった。「俺から話したい」
ハインズが廊下の角を曲がって見えなくなってから、リーシャが言った。
「……ネゴシエイトスキルが、起動しましたか」
「気づいてたんですか」
「あなたが少し、表情を変えたので」
ハルトは廊下の先を見たまま答えた。
「起動したというより、勝手に見えた感じです。踏み出す意志は確定している、そう出ました」
「……だから、ハインズさんが迷っていないとわかった」
「はい。ただ、スキルがなくてもたぶん同じことを言いました」
リーシャは少し考えた。
「……そうですね」
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補償院の窓口には、今日もフィアが立っていた。書類の持ち方が丁寧すぎる。姉の方だ。
「様式第二十九号、ハインズ・カーレン様の署名を確認します」
照合しながら、フィアは声を落とした。
「あの、ハルト様」
「何ですか」
「開示回答書が、昨日届いています」
リーシャが小さく息を吸った。ハルトも思わず前のめりになりかけて、踏みとどまった。
(七日待ちのはずが……まだ三日しか経っていない)
「受け取れますか」
「申立人宛なので、窓口での受け渡しになります」
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廊下の端のベンチに腰を下ろし、ハルトとリーシャは回答書を並んで開いた。
様式第三十号への書面回答本体に加えて、別紙が一枚綴じられていた。「審査担当者別却下件数一覧(直近六ヶ月)」。
担当者はA審査員からK審査員まで、十一名。月ごとの却下件数が並んでいる。他の担当者は月に二件から五件の間に収まっていた。
K審査員だけが、十四件、十七件、十一件。
チェックリストが改定された先月を境に、九件から十七件に跳ね上がっていた。
ハルトは六ヶ月分の数字を足した。K審査員が担当した件数は全体で七十三件。そのうち却下が五十九件。却下率は約八割だ。
他の審査員の平均却下率は一割強。
「……八割」
リーシャが低い声で言った。
「八割、です」
「リーシャさん、ゲイルさんの受付番号は」
「四三〇一番です」
「ハインズさんのは」
「今日受け付けてもらった番号が……四三二七番です」
別紙の末尾に受付番号と担当割り当ての一覧があった。
四三〇一番……K審査員。
四三二七番……K審査員。
「同じだ」
リーシャが息を詰めた。
「偶然ですか」
「わからない。ただ、K審査員は直近六ヶ月で全申請の約三割を担当して、却下率は他の平均の三倍以上ある。チェックリストが変わった後に件数が一気に増えた」
肩の上でメモが羽ばたいた。
「K審査員が一人で却下しまくってるってことですのです?」
「可能性は三つある。K審査員が独自の解釈でチェックリストを厳格に運用している。チェックリストの改定そのものが却下を増やす目的だった。K審査員に特定の案件を集中させる割り当てがあった、の三つだ」
「どれが一番まずいですのです」
「三つ目は、機構長が知っているということになる」
沈黙が落ちた。
リーシャがゆっくり言った。
「……ドルカ様が、担当者別まで整理して出してきた」
「そう」
「わかっていて、出した」
「可能性が高い」
ハルトは回答書を折り畳んだ。
(「あなたが根拠で動くというなら、私は根拠で応じます」。ドルカが言った言葉が頭を回る)
これは情報提供だ。意図して出してきた数字だ。
(ドルカはK審査員の問題を「現場の逸脱」として切り捨てたいのか。それとも、こちらが動いてくれれば自分は手を汚さずに済むと計算しているのか)
どちらにせよ、次の手は決まっている。
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ゲイルは当直上がりで、団内の休憩室にいた。
妻への土産だろうか、干した木の実の小袋を手の中で転がしていた。石畳の庭が見える窓の前に座って、誰かを待っているわけでもなくただそこにいた。
概要を伝えると、ゲイルはしばらく黙っていた。
「……俺の担当者が、K審査員だったんですか」
「そうです。まだ確認が必要ですが、次のステップとしてK審査員への割り当て根拠の開示申請を出す予定です。担当者別の却下率が基準を大きく外れている場合、それ自体が申立の新たな根拠になります」
「……もう一枚、書類ですか」
「もう一枚です」
ゲイルはため息をついた。それから小袋をポケットに戻して、立ち上がった。膝の具合はよくなさそうだったが、歩き出す前に一度だけ振り返った。
「ハインズさんが参加するって、本当ですか」
「今日、署名してもらいました」
ゲイルは少しの間何も言わなかった。
「……三年間ずっとそれを引き出しの中に入れたままだったって言ってたんですよ」
「聞きました」
「怖かったんだと思います。俺も怖かった。でも申し立てた」
「そうですね」
「……わかりました。必要なら言ってください」
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補償院の外に出ると、夕方の石畳が橙色に染まっていた。
リーシャが歩きながら言った。
「ドルカ様は、なぜあの数字を出してきたんでしょう」
「わからない。でも、あの人は数字と規則で動く。あの開示内容にも意図がある」
「機構長自身が、K審査員に問題があると気づいている……?」
「あるいは、こちらが動いてくれれば自分は動かずに済むと計算しているか」
どちらにせよ、次は割り当て根拠の開示請求だ。
リーシャが少し歩調を緩めた。
「ハルト様」
「何ですか」
「今朝、ハインズさんに、守れる範囲でしか守れないと、正直に言いましたよね」
「言いました」
「ハインズさんは、それでも署名した」
「そうですね」
「……根拠だけじゃないと思います。正直だったから、だと思います」
ハルトは答えなかった。
メモが頭の上から言った。
「でもK審査員、名前しかわかってないんですのです。顔も席もまだ見てないんですのです。次、どうするですのです」
「補償院に入る。顔を見るためじゃなくて、記録を見るために」
「記録が隠されてたら?」
「隠せない。開示請求が入った記録自体が残るから。申請を積み重ねれば、証拠は消えない」
「なるほどですのです」メモは羽根を畳んだ。「では次の書類を準備するですのです」
夕風が石畳を渡っていった。
数字は出た。次は、その数字が何を意味するのか問い直す。
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**プチ解説コーナー**
今回登場した「審査担当者別の却下件数開示」は、現実の行政手続法第5条の「審査基準の公表義務」に対応しています。行政機関は申請に対する審査基準を原則公にする義務がある一方、担当者レベルの実際の運用がその基準通りかどうかは別問題です。特定の担当者に却下が集中している場合、「制度の問題」より「運用の問題」として行政不服申立の対象になりやすくなります。実務では、恣意的な審査を防ぐダブルチェック体制や審査基準の細則化が有効とされています。




