第45話 天秤の向こう側
翌朝、聖騎士団の戦略室でハルトは昨夜届いた書状を広げ直した。
筆跡は端正で、感情の色がない。
「一度、直接お話ししたい。時間は受信後二日以内にご都合を知らせいただけますか」
ドルカ・アイゼングリム、機構長。
署名の下に補償院の公印が捺してある。
「これって……普通の流れじゃないですよね」とメモがハルトの肩の上で首を傾けた。「七日の審査中に相手側から直接会談要請って、通常の行政手続き上ではかなり珍しいと思いますのです」
「だよな」
ハルトは書状を折り直して机に置いた。
機構長が何を話したいのかは書いていない。ただ「一度直接お話ししたい」だけ。そのシンプルさが、かえって読みにくい。
申立を取り下げさせたいのか。それとも審査に影響するような条件を提示してくるつもりなのか。
「リーシャさん、どう思いますか?」
リーシャはわずかに眉根を寄せた。
「機構長が直接動かれるのは、こちらの申立がそれなりの脅威になっていると判断されているからだと思います。単なる懐柔であれば、書状ではなく窓口への通知で済むはずです」
「つまり、直接交渉する価値があると思われてる?」
「はい。あるいは、審査結果の前に何かを確定させたい理由があるか」
メモがぱたりと翼を動かした。「機構側の動機か……チェックリスト改定との関係もあるかもしれないですのです。先月十一日に改定して、三日後にゲイルさんの申請が出て、今月の却下件数が倍増していて、それで開示請求もされているわけで、機構側から見たら焦りたくなる材料は揃ってますよね」
ハルトはうなずいた。
開示請求への回答は七日以内。審査回答も七日以内。それが重なるタイミングで機構長が動いた。
偶然とは考えにくい。
「行ってみないとわからない。ただ、リーシャさんを連れていきます。同席者がいれば、記録が残る」
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補償院に向かう前に、ハルトはもう一つ確認したいことがあった。
ハインズが申立への参加を決断したのは昨夜だが、正式な手続きに移すには本人直筆の参加同意書が必要になる。様式の取得先もあわせて確認しておきたい。
補償院の受付窓口には、見慣れた双子の姿があった。
フィアが書類を整理する手を止め、正直に言えばわずかに表情が固まった。「……機構長から書状が届いたんですか」
「はい。今日、直接お会いしてきます」
フィナが横から割り込んだ。「申立中に機構長が直接会いに来ようとするの、うちではあんまりないです。ゼロじゃないけど」
「その前に確認させてください。申立後に不利益な取扱いをされないようにする規定は、業務規則にありますか?」
フィアが棚を振り返った。「第二十二条です。補償院業務規則第二十二条——申立人が適法に申立を行ったことを理由として、申立後に認定外の不利益を与えてはならない、と。ただし」と、少し言葉を止めた。「機構長との直接会談の内容そのものは、この条項の適用範囲外です。条文上は」
フィナが肩をすくめた。「要するに、会って話すだけなら不利益じゃないということです。でも、会って『取り下げたら審査は通る』とか言われたら……」
「それは圧力になりますよね」
「なりますけど、言った言わないの世界ですし」
「もう一つ。申立参加の同意書の様式はありますか? 今日、追加で参加したいという方が出まして」
フィナは「あ、それなら」とすぐに棚を振り向いた。「様式第二十九号です。無料配布してます」
フィアが「フィナ、手続きの説明も」と小声で言った。
フィナはため息をついてから正面を向いた。「参加同意書は申立の主担当者が補償院宛に提出します。本人直筆と署名が必要で、提出後は翌営業日に受付確認が出ます」
「わかりました。ありがとうございます」
様式第二十九号を受け取りながら、ハルトは昨夜のハインズの言葉を思い出した。
「怖いよ。三年間、これを引き出しの中に入れたまま待ってた。待って、何かが変わったかっていうと、膝だけ悪くなった」
一枚の書類が、三年かかった決断の正式な形になる。
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機構長室は補償院の三階の突き当たりにある。
廊下を歩きながら、ハルトはスキルの感覚を確かめた。昨日の夕方から、ネゴシエイトが使えるようになっている。相手の本音と不満を可視化するスキル。今日がその初使用のタイミングとして向いているかどうかは、まだ判断できなかった。
使うかどうかは、話の展開次第で決める。
「構えすぎなくていいです」とリーシャが静かに言った。「相手は数字と規則で動く人物です。感情で押してくることはないと思います」
「そうだといいな」
ドアをノックして中に入ると、ドルカ・アイゼングリムは窓際に立っていた。
あの白みかけた鬚と、鋭い目。机の上には数枚の書類と、閉じた台帳が一冊。背表紙に細かい文字で「補償院審査記録(今月分)」とある。
視線がハルトを捉えた。感情を読ませる色がない。
「来たか」
「はい。こちらは同席のリーシャ、正騎士三年目です」
ドルカはそれについて何も言わなかった。椅子を示した。
「座れ。長くならない」
ハルトは椅子に着きながら、机の上の台帳を見た。
(今月の審査記録を机の上に出しているのは、偶然か。それとも見せるためか)
「ゲイル・クロイスの傷病給付申立は受け付けている。開示請求への回答も七日以内に出す」ドルカは机の前に立ったまま、椅子には座らなかった。「今日呼んだのは、それとは別の話だ」
「聞かせてください」
「先月、審査チェックリストを改定した。これまでの基準が曖昧で、担当者によって判断がブレていたからだ。より明確な基準を設けることで公平性を担保する、それだけの理由だ」
ハルトはその言葉を聞きながら、予測とのずれを感じた。
防御的な説明ではない。説明、している。
「ただ」とドルカは続けた。「改定後の審査で却下件数が増えていることは、把握している。基準の適正化の結果なのか、現場の解釈に問題があるのかは、内部で確認中だ」
「……現場の解釈に問題がある可能性があると?」
「否定しない」
沈黙が落ちた。
(これは……どういうことだ?)
機構長は自ら、内部の問題の可能性を認めた。それはこちらが開示請求で明らかにしようとしていた内容に近い。なぜ先に言う?
「機構長は、今日の会談で何を確認したかったんですか?」
ドルカはわずかに視線を移し、また戻した。
「お前がどこまで動くつもりか、だ」
「どこまで、というのは?」
「ゲイルの案件だけで止まるのか。チェックリスト改定そのものを問題にするつもりか」
ハルトは内心で、ああ、これか、と思った。
機構長は審査の方向を測りに来た。こちらが何を狙っているか、どこで止まるかを確認するために、この会談を設定した。
メモがハルトの肩の上でじっとしている。
「どちらになるかは、開示請求への回答の内容次第です」ハルトはできるだけ平坦な声で言った。「チェックリストの改定内容が適正なものであれば、私もそれ以上を問う理由はありません。ただ、今月の却下件数の急増が制度の恣意的な運用によるものであれば、それは申立の対象になりえます。判断するための情報を、まず開示してください」
ドルカは無表情のまま聞いていた。
「適切だ」
「……え?」
「感情で動いていないことは確認できた」ドルカは机の台帳に手を置いたまま言った。「懸念していたのは、申立そのものではなく、根拠なく制度全体を攻撃されることだ。根拠に基づいて問うというなら、制度の手続きに則っている」
「つまり今日の会談は、こちらが感情論で動かないか確認するためのものだった?」
「そうだ」
あっさりした答えだった。
「チェックリスト改定の経緯は、開示回答書に記載する。改定後の担当者別却下件数も、記録を整理して添付する。問題があると判断したなら、正式に申し立てればいい」
ドルカは窓の方に視線を向けた。
「一つだけ言っておく。機構は費用対効果だけで動いているわけじゃない。ただ、感情で例外を認めることで制度が歪む事例を、俺は見てきた。それが俺の判断基準の根拠だ。お前が根拠で動くというなら、俺も根拠で応じる」
リーシャが隣で静かに呼吸しているのが分かった。
ハルトは「わかりました」と答えた。
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機構長室を出て廊下に出た瞬間、メモが翼を広げた。
「あれ、潰しに来たわけじゃなかったですね」
「うん」
「むしろ、こちらが感情で動かないか確認してから、正規の手続きに乗せてくれる姿勢を示したという……」
「だと思う」
リーシャが言った。「開示回答書に、担当者別の却下件数まで整理して記載すると言いました。それは」
「手がかりを自分から渡してくれた、ということかもしれない」
ハルトは廊下を歩きながら、ネゴシエイトを結局使わなかったことを考えた。
使う必要がなかった。
相手は最初から、隠し立てせず事実を提示しに来ていた。
「ただ」とハルトは言った。「開示回答書の内容によっては、話が変わる。担当者別のデータが出てきて、特定の担当者だけ却下率が突出して高かったら、それは制度の問題じゃなくて運用の問題になる。機構長がそこまで開示してくれるかどうかは、回答書が届くまでわからない」
「七日、待ちますか」
「待つしかない。その間に、ハインズさんの参加同意書を出しておこう。それだけは今日中に動かせる」
ハルトはポケットの中でさっき受け取った様式第二十九号を確かめた。
七日後に届く回答書が次の局面を決める。そのとき、また動けばいい。
廊下の窓の外、昼前の空が明るかった。
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プチ解説コーナー
今回の「申立後の不利益取扱禁止」は、現実の法律では複数の規定に対応します。労働基準法第104条では、労働者が監督機関に申告したことを理由とする解雇・不利益取扱を禁じています。公益通報者保護法にも同様の趣旨が置かれており、行政不服申立法は申立権そのものを保障します。ただし実際には「言った言わない」の問題になりやすく、同席者を置いて記録を残すことが実務上の重要な対策です。機構が申立前に「直接交渉」してくる場面は現実にも珍しくなく、条文の保護が実際に機能するかは状況次第です。




