第44話 踏み出す夜
申請から三日が過ぎた。
七日後に届くはずの回答まで、まだ四日ある。
夜警明けのゲイルは、廊下の突き当たりにある小窓から外の光を確かめてから靴音を落とした。いつものやり方だった。子供が寝ている間は音を立てない習慣が、宿舎の廊下でも体に出るらしい。
狼の耳がわずかに内側に傾いている。昨夜もろくに眠れていないのかもしれない。
「今日はどうでしたか」
俺が声をかけると、ゲイルは一拍間を置いてから振り向いた。
「さほど変わらないです。ただ、夜中に一件、気になることがあって」
「何ですか」
「外周の記録簿の書き方が、先月から変わっているんです。以前の様式と並べると、残業時間の記録欄の種類が増えています。細かく分かれるようになっていて」
(また、何かが密かに変わっている)
記録方法が変わるとき、そこには必ず意図がある。何かを可視化したいか、逆に見えにくくしたいか。どちらかだ。
「今は保留しておきます。でも、気になったら記録に残しておいてください。様式番号と変更前の記録欄の数がわかると、後で比較できます」
「わかりました」
ゲイルの声は平らだったが、うなずくときの角度が少し深かった。三日間、夜警をこなしながらどんな気持ちで過ごしていたか、俺にはわからない。家に帰っても申請のことが頭から離れないだろう。妻がいる。子供が二人いる。それでも毎朝ここに来て、同じように夜番の報告をしている。
「ハインズさんとは、もう話しましたか」
リーシャが横から静かに尋ねた。
「今日、話す予定です」
目の底に、昨日より少し重たいものがあった。
■■■
第四小隊の詰め所は、北棟の端にある。
廊下を歩きながら、ゲイルは一度も口を開かなかった。前を向いたまま、靴音だけが石畳に低く響いていた。今何を考えているか聞く気にはなれなかった。ゲイルが自分で決めることだ。
ゲイルに案内されて中に入ると、ハインズは防具の手入れをしていた。分厚い肩の鎧を膝の上に乗せ、磨き布で表面を丁寧に拭いている。
右膝に布の端を押し当てたまま、上半身だけ動かしていた。体重を膝にかけないようにしているのだと、見ていてわかった。
「もう一度、聞いてもいいですか」
ゲイルが言った。
ハインズは磨き布を止めないまま、目だけこちらに向けた。
「聞かなくてもわかるよ、ゲイル。来た理由は」
低い声だった。
眉間のあたりに、長い時間をかけて刻まれた皺がある。怒りではなく、疲労と何かを知りすぎた人間の顔だ。
「怖いんだ、俺も」
布が膝の上で静かに止まった。
「申立に加わって、また同じことになったら。配置換えどころか、今度は隊を追い出されるかもしれない。三年前よりもっとひどいことに」
「……わかってる。そういう話だから来た」
「それでも来たのか」
ゲイルはすぐには答えなかった。
部屋の奥に小さな窓がある。曇り空の光が斜めに差し込んでいる。ゲイルはそこを一度見てから、ハインズに向き直った。
「先輩の覚え書きを受け取ったとき、俺はずっと一人で持ってたんだなって知って。あれを誰かに見せようと思ったことはなかったのかって」
「なかった」
「それでも、捨てなかった」
「……そうだな」
ハインズがそこで初めて磨き布を置いた。
「捨てられなかった。その夜に起きたことが、なかったことにはできなかった。だから書いた。書いて引き出しに入れた。三年間、待ってた。何かが変わるかもしれないと思って」
低い声が部屋の壁に少し沁みた。
「変わったかっていうと、膝だけ悪くなった」
ゲイルがゆっくり息を吸った。
「俺は先輩の覚え書きがなければ、ここまで来られなかった。それだけ言いたかった」
しばらく静かになった。
廊下の外で、誰かの靴音が遠ざかっていった。曇り空の光が窓を通り、鎧の表面に鈍く反射する。
「決めた」
ハインズが短く言った。
「申立に加わる。何を出せばいいか教えてくれ」
「ありがとうございます」
ゲイルの声がわずかに震えていた。
ハインズが立ち上がりながら、右膝にそっと手を当てた。ほんの一瞬だったが、それだけで三年間の長さが見えた気がした。
「膝がこれ以上悪くなるよりはいい」
それだけだった。
出口に向かうとき、磨き布が床に落ちているのに気づいた。ハインズは拾おうとして一瞬屈んだが、やめた。俺は何も言わなかった。ゲイルも何も言わなかった。
■■■
廊下に出てから、俺はしばらく何も言えなかった。
メモが耳元でぽつりと言った。
「ハインズさんは怖いと言いながら、決めましたね」
「うん」
「怖いのに動けるというのは、どういう状態ですか」
「覚悟、かな」
「覚悟は恐怖を消しますか」
「消さない。あっても動く、ということだと思う」
メモが少し考えるように羽を畳んだ。
そのとき、胸の奥で何かが変わった感覚がした。
スキルが、動いた。
◆◆◆ステータス◆◆◆
クラス:レイバーコンサルタント(Lv.1)
スキル:ブラックスキャン(精度:低)
スキル:シフトメイク(未開放)
スキル:ネゴシエイト(開放)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
(開放された)
心拍が一つ、大きく打った。
ネゴシエイト。
相手の本音と不満を可視化する対人スキル。
ブラックスキャンは過重労働や不正の記録を「見る」スキルだ。ネゴシエイトは違う。人の言葉の内側に入っていく。記録じゃなく、その人の心情に向かうスキルだ。
試す気にはなれなかった。今は。
使い道はある。ゲイルに対してでも、ハインズに対してでも、機構長に対してでも。いつかその場面は来る。ただ、それは俺が選んで使うものであって、使わされるものじゃない。
「スキルが開放されましたね」とメモが言った。
「わかってる」
「おめでとうございます」
「ありがとう。でも、すぐ使うことはしない」
「なぜですか」
「ハインズさんが今決めたことは、ハインズさん自身が決めたことだ。スキルで覗くものじゃない」
メモが一拍間を置いた。
「正しいと思います」
■■■
夕方になって、三人で今後の段取りを確認した。
詰め所の近くの小部屋に集まって、テーブルを挟んで座る。ゲイルが向かい、リーシャが横に来た。外はもう薄暗くなり始めていて、燭台の灯りがテーブルの上の書類を照らしていた。
「ハインズさんの覚え書きと辞令原本の照合結果は、申し立ての根拠になりますか」
ゲイルが整理するように言った。
「記録上の辞令理由と、口頭で告げられた理由が食い違っているという事実は証明できます。ただ、そこから申し立てにつなげるには、もう一つ必要なものがある」
補償院業務規則の中に、申請後の不利益取扱を禁ずる規定があるかどうか。エイラのケースで機構長ドルカと対峙したとき、目的条項第一条を使った。でも今回の構造は違う。費用対効果の問題じゃなく、申立人への報復的な人事そのものが問題の核心だ。
「業務規則の中に、申立を理由とする不利益取扱を禁じた条文があるはずです。そこを確認します。フィアなら案内してもらえるかもしれない」
リーシャが小さくうなずいた。
「もう一つ、確認したいことがあります」
ゲイルが静かに言った。
「ハインズ先輩の他にも、同じ時期に同じ理由で配置換えになった人がいるかもしれない」
俺は顔を上げた。
「同じパターンが複数のケースで確認できれば、単独の判断じゃなくて、組織的な動きとして問えます。でも一件ずつ当たっていくのは時間がかかる。記録管理局に辞令の一覧を請求することはできますか」
(組織的なパターンが見えたとき、個別の案件がまとめて意味を持つ)
「申請者の氏名で絞り込んで開示するのが基本なので、一覧という形での取得は難しいかもしれない。ただ、似た条件の辞令記録を探す方法が別にあるかもしれません。もう少し調べます」
俺が次の言葉を組み立てかけたところで、廊下の外から声がした。
リーシャが立ち上がって扉を開けた。
「結城ハルト様あてに、書状が届いております」
使いの兵が、補償院の紋章が入った封筒を両手で差し出した。
七日は、まだ来ていない。
封を切った。
折りたたまれた書状の一行目だけ読んだ。
「一度、直接お話ししたい。アイゼングリム補償院機構長 ドルカ・アイゼングリム」
(機構長が、動いた)
メモが俺の肩の上でそっとつぶやいた。
「七日後を待たずして、相手が先に来ましたですのです」
ゲイルとリーシャが同時に書状を覗き込んだ。
機構長が直接乗り出してきた。こちらの動きが機構の上まで届いているということだ。何を話したいのか、どこまで知っているのか、今は読めない。一つ確かなのは、審査結果が届く前に顔を合わせることになる、ということだけだ。
ゲイルが短く息を吐いた。
「どうします」
「会いに行きます。それだけです」
「……そうですか」
部屋の中が、一段重くなった気がした。
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あとがき
■プチ解説コーナー
ハインズが懸念した「申請後の配置換え」という問題、現実の労働法でも核心的なテーマです。日本の健康保険法第七十五条の二は、被保険者が保険給付を受けたことまたは申請したことを理由として不利益な取扱いをすることを禁じています。また労働基準法第百四条は、労働者が行政機関に申告したことを理由とする解雇・不利益取扱いを禁止しています。口頭で告げられた理由と書面上の辞令理由が食い違う場合、その乖離を記録で押さえておくことが、あとの立証に大きく効いてきます。ハインズがあの夜、誰にも見せないままでも覚え書きを書き残したことは、労働者として最も正しい一手でした。




