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第43話 開示という扉

翌朝、補償院の開庁時刻が近づく頃、ハルトたちは北棟の廊下を歩いていた。


前夜も夜警に出ていたゲイルは、それでも足取りを緩めなかった。


むしろ少し速いくらいだった。


「今朝、妻に話しました」


北棟の階段を下りかけたところで、ゲイルがぽつりと言った。


「申請のことですか」


リーシャが静かに尋ねると、ゲイルはゆっくりうなずいた。


「ずっと黙ってたんですが。昨夜帰ったら、飯食べ終わる前に全部話してました」


少し照れたように、狼の耳が内側に折れた。


「奥さんはなんと言いましたか」


「ずっと黙ってたのか、って最初は少し怒られました。それから、申請してください、って」


ゲイルの横顔に、昨夜の台所の灯りでも思い出しているような静かな色があった。


(よかった)


俺は胸の中でそう思った。


口には出さなかった。


ゲイルが珍しく言葉を続けた。


「妻は、もっと早く言えばよかったのに、って言ってました。俺が長い間、心配させたくないから言わなかっただけで」


「……そうだったんですか」


「はい。聞かなかった俺が悪かったんですかね」


俺はしばらく考えてから答えた。


「聞きにくかったというのは、ゲイルさんだけじゃないと思います。それに、昨夜話せたことがたぶん一番大事です」


「……そうかもしれないです」


それだけで会話は終わった。


廊下の先に、補償院の北棟入口の案内板が見え始めた。


■■■


補償院の窓口には、今朝も双子が立っていた。


姉のフィアが書類を受け取り、手際よく内容を確認する。


「様式第二十七号、療養要件充足証明書。添付の診断証明書、療養を要すると判断する、ですね」


「はい。前回の返戻を受けて、治療師に再記載していただきました」


フィアがもう一枚めくり、診断証明書の全文を確かめた。


「体質性貧血傾向および慢性胃炎、近期の業務負荷増加により症状が増悪している所見あり、療養を要すると判断する、記載の変更を確認しました。再提出として新しい受付番号を発行します。審査結果は一週間以内に文書で通知の予定です」


ゲイルが一度だけ短くうなずいた。


一週間。


俺はその言葉を頭の中でもう一度なぞった。


前回と同じ期間だ。


今回は診断書の記述が変わっている。


問題は、それが機構の内部基準を満たすかどうかだ。申立人側は、その基準の中身を一切知らされていない。


窓口の向こうで、妹のフィナが別の申請者の対応をしていた。


昨日「先月から審査チェックリストが内部更新されており、申請者側には公開されていない」と小声で教えてくれた子だ。


ちらりとこちらに視線を送ってくる。


何か言いたそうで、でも言えない表情だった。


「少し聞いてもいいですか」


俺はフィアに向けて言った。


「傷病給付申請の審査で使われる判断基準があると思うんですが、申立人はその内容を確認できるようになっていますか」


フィアが手を止めた。


端末から視線を上げ、こちらを見た。


「……開示についてのご質問でしょうか」


「そうです。規則上、申立人が審査基準の開示を求めることができる規定はありますか」


フィアはすぐには答えなかった。


少し間を置いてから、一言ずつ慎重に言った。


「補償院業務規則第十六条に、申立人による情報提供要請の規定があります。ただし、開示された事例は私の知る限りではありません」


「事例がないというだけで、禁止ではないですね」


「……そうです」


「手続きの様式を教えてもらえますか」


フィアが一拍置いて、棚から一枚の用紙を取り出しこちらに差し出した。


「様式第三十号です。この場でご記入いただければ、そのまま提出できます」


■■■


様式第三十号の項目は多くなかった。


申立番号、申立人氏名、開示を求める情報の具体的な内容、理由。


俺は窓口の端に立ったまま書き込んだ。


開示を求める情報:傷病給付申請の審査に使用する判断基準(審査チェックリスト)の全文。


理由:申立番号四三〇一番の審査において、申立人が適切な要件を満たした書類を準備するために、審査の判断基準の内容を知る必要があるため。


書き終えた書類をフィアに渡すと、フィアは内容を一字一字確認してから受け取った。


「……受理します。規則上、七日以内に書面で回答することになっています」


七日以内。


(審査結果と同じタイミングだ)


もし審査が通れば、今回の書類と基準の何が合致したかを確かめられる。


もし再び却下されるなら、何が引っかかったのかを根拠をもって問い返せる。


「ありがとうございます」


窓口を離れかけたとき、フィナが隣の対応を終えてすっとこちらに近づいてきた。


「……十一日です」


声が低かった。


「審査チェックリストの改定日が、先月の十一日。この話、誰にも言ってないんですけど」


「教えてくれてありがとうございます」


「そういうデータ、私たちも見てるんですよ。でも窓口の人間だから、どうにもできなくて」


フィナがそれ以上言わずに戻っていった。


ゲイルが最初に申請書を出したのは十四日。


改定から三日後だった。


(タイミングが合いすぎる)


メモが耳元でぽつりと言った。


「審査チェックリストを改定した直後に申請して、却下された。次に何をすべきかは明確ですね、ハルト」


「うん。七日以内に二つの回答が来る」


「効率的だと思います」


「どっちが先に来るかにもよる」


「それもそうですね」


リーシャが少し前から口を開いた。


「今日のうちに記録管理局に行けますか」


「時間を確認します。間に合えば行きましょう」


■■■


記録管理局に着いたのは午後になってからだった。


今日の窓口担当者に三年前の辞令原本の照合申請を行う。


ハインズの覚え書きとの照合が目的だと伝えると、担当者が書庫の台帳を引き出してページを探し始めた。


廊下の椅子で待つ間、ゲイルは折りたたんだ紙を手の中に持っていた。


ハインズ先輩が三年前の夜に自分で書いたもの。


「上長より、健康な人員を前線に出す旨の説明があった」という一文と、日付。


「原本が見つかりました」


担当者が台帳のページを広げて示した。


発令日:三年前、八月十四日。


内容:「人員配置の見直しにより、ハインズを城内警備班から外周番専任に配置換えする」。


ゲイルが覚え書きの日付を確かめた。


「八月十三日、夜。口頭告知を受けたと書いてある」


辞令より一日早い。


「前日の夜に口頭で告げて、翌日に辞令を発令したわけですね」


リーシャが静かに確認した。


「記録上の辞令理由は人員配置の見直し。口頭では、健康な人員を前線に出すと言われた」


「はい」


ゲイルがそこで少しだけ息を止めた。


「ハインズ先輩は、これを誰にも見せていないと言ってました。三年間、引き出しの中に入れたまま待ってた、って。待って、何かが変わったかっていうと、膝だけ悪くなったって」


台帳をめくる音だけがしばらく廊下に続いた。


「ハインズさん自身が申し立てに加わる可能性は、まだわかりませんか」


俺が聞くと、ゲイルは少し間を置いた。


「……もう少し時間をください。先輩にもう一度話します」


「わかりました。急ぎません」


(急かすのは違う。ハインズが動けるかどうかは、ハインズが決めることだ)


ゲイルが覚え書きをゆっくりと折りたたんだ。


手の中でもう一度だけ握ってから、上着のポケットに収めた。


■■■


帰り道、夕暮れ前の中庭を三人で抜けながら、俺はメモに言った。


「今日、いくつ進んだか数えてみる」


「再申請の受付番号を取った。開示請求を初めて提出した。辞令原本との照合を終えた」


「三つですね」とメモが言った。


◆◆◆スキャン結果◆◆◆


対象:補償院審査チェックリスト改定(先月十一日・推定)


状態:判断基準の変更が申請却下増加の要因となっている可能性、確認中(精度不足)


対象:ハインズ辞令原本


状態:記録上の辞令理由と口頭告知の内容に相違あり、確認済み


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


石畳の上を、三人の影が少しずつ長くなっていく。


ゲイルが少し後ろで足を緩め、夕暮れの方角を向いた。


家族が待つ方向かもしれなかった。


(七日後に二つの回答が来る)


審査結果と、開示の回答。


どちらに転んでも、次の手は見えている。


あとはハインズが動けるかどうかだ。


「査定が下がる」という風評の真相が動き出すのは、その先になる。


---


あとがき


■プチ解説コーナー


第43話でハルトが使った手段が「審査基準の開示請求」です。現実の行政手続法第5条は、行政機関が申請の審査基準を定めたときは公にしておかなければならないと規定しています。「どんな基準で判断されるか」は原則として公開義務がある、ということです。ただし医療保険や労災保険の実務では、審査の詳細な判断基準が内部文書として非公開のケースも少なくありません。申立人が「何が足りないかわからない」まま再申請を繰り返すことになりかねない。その問題を、ハルトは初めて正面から問い返しました。前例がなくても、禁止されていなければ使える。制度は、誰かが使うことではじめて動き出します。

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