第42話 記録の重さ
補償院が開くまでにまだ一時間あった。
その前に、ハインズさんに会いに行く、昨夜そう決めた。ゲイルと並んで廊下を歩くと、朝の団舎は静かで、夜番の残り香みたいな空気がまだそこかしこに漂っていた。窓の外の石畳がうっすら白んでいる。夜明けを過ぎたばかりの時間だった。
第四小隊の詰め所の手前に、ハインズさんが立っていた。壁に背を預けながら俺たちが来るのを待っていた。人間の、四十代後半ほどだろうか。短く刈られた髪が白混じりで、目の端に深い翳が刻まれている。右膝に痛みが残ると、昨夜ゲイルから聞いていた。三年前の配置換えの後から、痛み止めで夜番に立ち続けているらしかった。
「遅くまで待たせてしまってすみません」
俺が言うと、ハインズさんは首を横に振った。「夜番明けはどうせ眠れないんで。それより、来てもらってよかった」
懐から折りたたんだ紙を取り出し、俺に差し出した。
「三年前の夜に書いたんです。その夜のうちに。どうしても、記録として残さないとと思って」
広げると、やや歪んだ文字が並んでいた。
─某年某月某日、夜。上長より口頭にて告知を受けた。要旨、隊の方針として健康状態の良好な者を前線配置とする。辞令は明日付。告知した者の名と日時を残す。─
ブラックスキャンが静かに動いた。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:個人保管の手記(日付・内容・筆跡あり)
状態:辞令原本との照合に使用できる可能性あり
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「これを記録管理局の辞令原本と照合できれば、辞令の発令日と手記の日付が一致して——申請後に人事上の不利益があったことの間接証拠になりえます」
「……なりえる、か」
「確かなことは言えないです。でも、ないよりはずっとましです」
しばらく沈黙があった。
廊下の端で、どこかから訓練の金属音が遠く聞こえた。ゲイルが、隣でひとつ深く息を吸った。
「先輩。提出するの、怖くないですか」
「怖いよ」
ハインズさんは即答した。それから目を窓の外に向けた。朝の石畳が白く光っている。「三年間、俺はこれを引き出しの中に入れたまま待ってた。待って、何かが変わったかっていうと、膝だけ悪くなった」
苦笑が一瞬だけ口元に出て、消えた。
「ゲイルが動いたのを聞いて、もう十分待った気がしてる。写しを持っていっていいよ。俺が申し立てをするかどうかはもう少し考えるけど、ゲイルの申請の材料になるなら使ってくれ」
ゲイルが受け取る手が、わずかに震えた。
(記録管理局の辞令原本と照合すれば、辞令前日の口頭告知が証明できる。ゲイルの申請とは別の話になるが、団内に「申請すると不利益を受ける」という事実があったことの裏づけになる。いつか使える。)
「先輩、ありがとうございます」
ゲイルの声が、少しだけかすれた。
「礼はいいよ」
ハインズさんは短く言った。「俺が決めたことです。ゲイルが動いてなかったら、俺も動かなかった。そういうことだと思ってる」
リーシャが隣で静かに頭を下げた。ハインズさんはどちらにも何も言わず、ただ軽くうなずいた。廊下の端で、金属の音がまた遠く聞こえた。
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補償院の扉が開いた直後に、俺たちは中に入った。
カウンターの向こうには今日もエルフの双子がいる。フィア(姉)は書類を胸に抱えて背筋を伸ばし、フィナ(妹)は椅子でだらしなく頬杖をついていた。昨日とまったく同じ配置だった。双子だから当然といえば当然だが、こう毎回同じだと少し可笑しくなってくる。
「様式第二十七号を一部、お願いします」
フィアが引き出しから書類を取り出してカウンターに置いた。「本日分はございます。担当治療師の署名入り診断証明書と合わせて窓口へご提出ください」
「ありがとうございます。ひとつ聞いてもいいですか」
フィナが頬杖のまま目を向けた。「何」
「昨日教えていただいた話なんですが。先月から審査チェックリストが内部更新されたということでしたよね。申請者側に正式に開示を求める手続きは、ありますか」
フィアがびくりとした。
フィナは目を細めた。「……開示請求。それをやった人、私が知ってる限りいないけど」
「存在するかどうかは別として、手続きとしては考えられますか」
「更新があったなら内部通達が出てるはず。通達の存在は記録管理局の索引にも残る。正面から情報公開請求をかけたとして、機構が素直に出してくれるかどうかは別の話だけど、請求自体は可能だと思う」
「フィナ」
フィアが低く言ったが、フィナは首を振った。「フィアセンパイ、おかしいでしょ。申請者が基準を知らないまま審査されて、却下が増えてるんだよ。それで黙ってろっていう話のほうがおかしい」
メモが肩の上で翼を広げた。「ほーーそれって透明性ゼロってことじゃないですか、のです。行政手続き的に、審査基準の明示って大事なやつでは」
フィアが固まった。フィナが小さく笑った。
「私が保証できることは何もないけどね。でも、動いてみることはできると思う」
俺は頭を下げた。「ありがとうございます。まず再申請を出して、その次に考えます」
「うん。頑張って」
フィナが、今日は素直にそう言った。フィアはそれを聞いて、そっと息を吐いた。
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医療室に戻ると、エスタ治療師はすぐに察した顔をした。椅子を引いて腰を下ろし、カルテを手の中で持ち直す。
「却下されましたか」
「はい。診断書の記述が問題でした」
俺は経緯を説明した。傷病給付は業務外の疾患が対象だ。ところが前回の診断書には「業務上の過負荷による体力低下が疑われる」と書かれていた。それを読んだ審査側が、療養要件として不明確と判断した可能性が高い。
「ゲイルさんには体質性の貧血傾向と慢性胃炎の両方があります。業務負荷は増悪因子ですが、主因は体質にあるという観点で、記述を変えることはできますか」
エスタ治療師は少しの間、沈黙した。
カルテのページを繰る音がした。
「できます」
静かな声だった。「体質性貧血傾向および慢性胃炎、近期の業務負荷増加により症状が増悪している所見あり、療養を要すると判断する。この表現なら、主因を体質に置きながら、療養の必要性を示せます」
(主因を体質にする。増悪因子としての業務負荷は付記する。これで傷病給付の要件は満たせる。あとは、審査側が非公開のチェックリストでどう判断するかだ。それだけは、まだわからない。)
ゲイルが椅子の端をつかんだ。「……先生、お願いできますか」
エスタ治療師はペンを取り、ひと呼吸置いた。
「申し訳ありませんでした、ゲイルさん」
声のトーンが変わった。「前回の記述は、患者さん側にどう影響するかを確認せずに書きました。診断の中身は変わりませんが、表現を改めます」
ゲイルは何も言わなかった。ただ深く、頭を下げた。
隣でリーシャがそっと目を押さえた。俺は黙っていた。言葉より先に、ペンが動き始めていたから。
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医療室を出ると、廊下の向こうから昼前の光が差し込んでいた。
様式第二十七号と新しい診断証明書、ハインズさんの覚え書きの写し、全部まとめてゲイルが持っていた。
「再申請は明日、補償院が開いた直後に出します」
「わかりました」
「ハインズさんの覚え書きも、追って記録管理局の辞令原本と照合できるか確認してみます。先に動くのはゲイルさんの申請ですが」
ゲイルが少し前を向いて歩いた。石畳の廊下を三人で歩く足音が重なって、それからゲイルが口を開いた。
「……先輩に声をかけるのが怖くて、三年間言えなかったって言ってました。でも俺も、申請する前に半年以上迷いました。結城さんが来なければ、どっちもしなかったと思います」
「そうかな」
俺は正直に答えた。「ゲイルさんが最初に動いたから、ハインズさんが動けた。俺はきっかけを出しただけです」
「でも、きっかけがなければ動けないこともあるんです」
ゲイルが言った。ゆっくりと、しかし確かに。「家族に話したとき、妻が心配そうに『大丈夫なの』って聞きました。大丈夫じゃないけど、やってみると答えた。それだけで、少し楽になりました」
「でも、再申請が通らないと意味がないので、まず明日です」
ゲイルが笑った。疲れたような、それでもほんの少し軽くなった笑いだった。
メモが翼を動かした。「でもさ、チェックリストの話が気になるのです。申請者が知らない基準で審査されて、かつ更新された月に却下が倍になってる。これって制度の問題じゃなくて運用の問題ですよね、のです」
「そうだな」
俺は空を見た。「非公開の審査基準を開示させる手続きが、あるはずだ。明日の申請を出してから、そっちを調べる」
(やれることをひとつずつ。まず再申請を通す。それからチェックリスト。順序がある。)
翌朝、補償院が開くと同時にまた動く。廊下の突き当たりで、リーシャが俺の少し前に立って待っていた。
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あとがき
プチ解説コーナー
今回のテーマは傷病手当金です。現実の健康保険法第九十九条に定められており、業務外の事由による病気・けがで療養が必要となった被保険者に対し、休業4日目から標準報酬日額の3分の2を給付する制度です。注意点は「業務外の事由」という要件で、業務上の病気・けがは労災保険の対象になるため対象外です。体質的素因がある慢性疾患の場合、業務負荷が増悪因子であっても主因が体質にあれば、記述の整理次第で業務外の疾患として申請できるケースもあります。とはいえ、診断書の記述が審査結果を左右することも実務上はあります。申請に迷ったら社労士や会社の担当部署に確認するのが賢明です。




