第40話 診断書の余白
朝の訓練が終わった直後、北棟の石廊下は冷たい空気を保っていた。
夏が本格的に始まっていても、石造りの建物の内側は季節に鈍い。窓の外では訓練場にまだ数人が残っていて、剣を打つ音が低く響いてくる。
「昨夜の深夜番、何時まででしたか?」
ハルトがゲイルに聞いた。
「明け方の六時まで。仮眠を一時間取って、七時の点呼に間に合わせました」
「……それはまずいですよ」
「毎月のことなので」
ゲイルは廊下を真っ直ぐ歩きながら、当たり前のように言った。耳が少し伏せている。昨日の訓練でも立ちくらみがあったはずで、体が限界に近いのは分かっているのに、それを「異常なこと」として扱おうとしない。慣れさせられてきたんだな、とハルトは思う。
「妻には昨夜話しました。使えるなら使ってほしい、と」
「それはよかったです」
リーシャが少し後ろから「こちらです」と声をかけた。北棟三階、突き当たり。木製の案内板に「健康保険担当課」と書かれた扉が見えた。
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部屋は思ったより狭かった。
棚に綴りが立ち並び、窓際に机が一つ。担当者は人間の中年男性で、上着に団の紋章がある。事務専任のにおいがする。ハルトが「傷病給付の申請書類を一式いただけますか」と言うと、男は棚を少し探してから「正騎士の方ですね」と確認した。
「はい。この方の分です」
「ゲイルです」
ゲイルが短く名乗った。担当者が帳面に記録して、数枚の書類を出してきた。
「様式第二十一号、傷病給付申請書になります。申請者控えとご提出用の二枚組です。こちらの付記書式に治療師の診断証明を記入していただいて、一緒にご提出ください」
「この『療養が必要な理由』の欄ですが、どの程度具体的に書けばいいですか?」
担当者は少し口ごもった。
「基本的には治療師の診断内容と対応していれば、ですが……補償院の審査基準については私どもからは何とも。補償院の規程を直接ご参照ください」
書式の注記欄に目を落とす。
〈療養が必要な理由の記述にあたっては、治療師の診断所見と整合する具体的な症状を明記すること。記述が不明確な場合、補償院審査部において照会または返戻を行う場合がある〉
(「不明確な場合、返戻」か)
左肩のメモが羽を動かした。
「ひー、補償院の審査基準は担当課も知らないですのです。縦割りの壁ですのです」
(肩の上だけでしゃべってくれ)
「何か?」とゲイルが聞いた。
「内輪の話です」とハルトは書類を手に立ち上がった。
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医療室は南棟の一階にある。
廊下を歩きながら、ゲイルが少し声を低くした。
「子供が先月から薬を変えました。上の子の分が少し高くなって、妻は俺に言わないようにしていたんですが……薬袋を見て分かりました」
「……そうでしたか」
「自分の診療代は後でいいと、ずっとそう思っていました。でも実際は後回しにしてきただけだったんですね」
ハルトは何も言わなかった。制度があれば、療養中の収入が補償される。休める。治療師にもかかれる。本来はそういうものだ。仕組みが機能さえしていれば。
医療室の扉を開けると、白衣のエルフの治療師が振り返った。推定三百歳を超える、落ち着いた目をした女性だ。
「ゲイルさん、今日は診断証明書ですね」
「エスタ先生、お願いします」
「横になってください」
ゲイルが診察台に上がる。エスタが指先に魔力を集め、ゲイルの腕に当てた。わずかな光が走り、消える。
「貧血傾向があります。血液の巡りが落ちていて、これが慢性疲労感の主な原因になっています。胃の痙攣も続いていますね。本来なら最低でも二週間、できれば一ヶ月の休養が必要な状態です」
ゲイルが「一ヶ月」という言葉を聞いて、微かに眉を動かした。
エスタが付記書式にペンを走らせた。ハルトはブラックスキャンを軽く走らせながら、その手元を確認する。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:ゲイル(正騎士歴八年・狼系獣人)
状態:慢性疲労(三ヶ月以上継続)/胃部不快感(慢性)/体質性貧血傾向
過剰就労:深夜番直近一ヶ月十三回、連続休暇直近六ヶ月ゼロ
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
診断証明書の記載がこちらに向いた。
〈診断名:慢性疲労所見、胃部不快感(慢性)、体質性貧血傾向〉
〈所見:業務上の過負荷による体力低下が疑われる。継続的な療養および休養を要する〉
(「疑われる」……か)
「エスタ先生、この所見の表現ですが、『業務上の過負荷が疑われる』を変えることはできますか? 断定的なほうが審査に通りやすいかと思って」
エスタは筆を止めた。
「断定するには精密検査が要ります。血液の詳細な検査をすれば、もう少し踏み込んだことが書けますが……傷病給付の場合、業務起因の証明は不要なはずでは?」
「おっしゃる通りです。ただ、補償院の審査基準が」
「補償院の審査基準は公開されていないですのです。何を不明確と見なすかは担当者の裁量ですのです」
メモが横から補足した。エスタが少し首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。
「今の状態で書けることは書きました。検査まで踏み込むなら、別に日程を組む必要があります」
「分かりました。ありがとうございます」
書類を受け取りながら、ハルトは「疑われる」という一語を頭に置いた。機構がこの言葉をどう扱うか、まだ分からない。ただ、可能性として消せない。
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廊下に出て、窓際の出窓台に申請書を広げた。
ゲイルがペンを取り、記入を始める。ハルトは隣に立って書き方を確認した。
「療養理由の欄は、エスタ先生の診断名をそのまま書いてください。慢性疲労と胃部不快感により療養を要する、という形で」
「こういう書類は久しぶりです」
ゲイルがペンを走らせる。
「ゲイルさん、ハインズ先輩というのは今どちらの部署ですか?」
ペンが少し止まった。
「第四小隊の夜警主任です。外周番の専任にいます」
「三年前は?」
「城内警備班でした。夜番が少ない部署です。申請してから半年後に、外周番専任に移されました。辞令の理由は『人員配置の見直しによる』とだけ書いてあったと言っていたかと」
「配置換えの後、どうなったか聞いていますか?」
ゲイルが少し間を置いた。
「外周番に移されてから深夜番が一気に増えました。一年後に膝を痛めて、今は痛み止めを飲みながら夜番に入っていると聞いています。あれ以来、先輩は一度も傷病申請していないと言っていました」
「……それで、他の人も申請しなくなった、ということですか」
「そういうことですね」
空気が少し重くなった。制度があっても使えないなら、制度がないのと変わらない。いや、ある分だけたちが悪い。見えているのに届かない。
「もしその配置換えが申請を理由にしたものだとしたら、それは不当な不利益取扱いにあたります。記録管理局に辞令の原本が残っているはずです」
「三年前の話ですよ」
「残っています。この種の書類は最低五年間の保存が要ります。異世界の規定がどうかはまだ確かめていませんが」
ゲイルが少し目を細めた。狼の耳が前を向く。
「……ハルト殿は、まだ申請書も出していないのに先のことまで考えているんですか」
「先のことを考えるのが俺の仕事なんで」
(「社労士の」と言いかけてかろうじて飲み込んだ)
ゲイルが短く笑った。ペンを走らせ、記入を終える。
「出しますか」
「出しましょう」
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北棟三階の窓口に書類を提出したのは昼前だった。
担当者が受付番号を押して一枚の紙を渡してくる。
「補償院本局審査部への送付は明日中に行います。審査結果は一週間以内に文書でご連絡いたします」
「ありがとうございます」
廊下に出ると、ゲイルが長く息を吐いた。
「……出してしまった」
「おめでとうございます」
リーシャが静かにそう言った。ゲイルは少し照れた顔をしてから、前を向いた。
「ハインズ先輩に話してみます。機会は作れる。ただ、あの人は口が重いから……」
「話だけ聞かせてもらえれば充分です。三年前の配置換えの前後のことを、可能なら」
「……あなたたちは、どこまでやるつもりですか」
今度は笑わずに、ゲイルが聞いた。
「まず審査結果を見てからです」
「そうですね」
ゲイルは短くそう返して、廊下を歩き始めた。今夜も深夜番に入る。申請書は提出された。一週間後に何が届くか、今のところ誰にも分からない。
左肩でメモが羽を一度たたいた。
「申請は出た。でも補償院がどう動くか、ですのです」
「分かってる」
診断書の「疑われる」という一語。機構が「療養理由が不明確」と言ってくるとしたら、おそらくそこを突いてくる。
結果が来るまでに、ハインズ先輩の話を聞く。その一手だけは、先に打てる。
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あとがき
**プチ解説コーナー**
今話に登場した「傷病給付条項」は、現実世界の**健康保険法第九十九条(傷病手当金)**に相当する制度です。
傷病手当金は、被保険者が業務外の病気・ケガで療養し、働けない状態が連続3日以上続いた場合、4日目以降の休業日について標準報酬日額の3分の2を最長1年6ヶ月間支給する制度です。
申請には医師の証明(療養のために労務に就くことができない旨)が必要で、この記載が曖昧だと保険者から返戻・照会が来るケースは実務でも珍しくありません。なお、業務上の病気・ケガには労災保険が適用されるため、傷病手当金の対象は「業務外の疾患・負傷」に限られます。申請履歴を理由とした不利益な人事異動は、現実の法制度では認められていません。




