第39話 倒れる前に
朝の訓練場は、夜明けの光がまだ薄かった。
石畳に長い影が伸びる。遠くで見習いたちが組手の準備を始めていた。湿った石の匂いと、金属の鎧がこすれる低い音が交互に届く。朝の空気は冷たかった。秋になると石畳の朝露が遅くまで残る。
「こちらです」
リーシャが一人の騎士を連れて角を曲がってきた。
灰色の毛並みをした獣人だった。狼の耳が少し前に向いている。背丈はハルトより頭一つ高く、肩幅も広い。体格のいい正騎士という印象だったが、目の下に薄い影があった。鼻梁が張っていて、顔つきは真面目な方だ。
「はじめまして。ゲイルです。正騎士歴八年です」
一礼してから、続けた。
「昨日のことは、大したことではなかったです。お時間を取らせてしまってすみません」
第一声がそれだった。
(「大したことない」を最初に言う人は、たいてい大したことがある。)
「昨日の、立ちくらみのことですか」
「ええ。水分が足りなかっただけかと。訓練中に少し視界が揺れただけで、すぐに回復しました」
「最近、体の具合はどうですか」
ゲイルが一瞬だけ動きを止めた。
「……治療師には、しばらく診てもらっていないです」
「どのくらいになりますか」
「三、四ヶ月ほど」
少し間があった。
「受診できなかった理由は」
「時間と、金の問題です。自分の分まで、手が回らなくて」
■■■
中庭の端にある腰かけに、三人で並んで座った。メモがハルトの肩に乗ったまま、じっとゲイルを見ていた。翼が少し開いている。
「理由というのは」
「家族がいるんです」
ゲイルが正面の石壁を見ながら言った。
「妻と子供が二人います。下の子がまだ歩き始めたばかりで。子供の薬代、住まいの費用、いろいろ考えると、倒れるわけにはいかない。倒れたら終わりだという気持ちがずっとあって」
「だから、受診できていないんです」
「まあ、そういうことです」
短い沈黙があった。
「胃の具合は、どのくらい前からですか」
ゲイルがわずかに目を細めた。
「どこかで話しましたか」
「いいえ。今です」
しばらく間があった。
ゲイルの耳が、少し後ろに傾いた。
「……三ヶ月ほどです。痛いというより、重い感じがして。訓練中はなんとかなるんですが、夜に横になると胃のあたりが締め付けられる感じがして。先週は一度、食事の後に気分が悪くなって廊下で座り込みました」
「かかりつけの治療師には」
「行っていないです。時間がとれないし」
ゲイルが言葉を切った。
「金も、かかりますから」
(三ヶ月。慢性胃炎と体質性の貧血。治療師にかかれていない。数字を並べると分かる。これは意志の話ではない。)
ハルトは肩の上のメモに小さく声をかけた。
「メモ、いいですか」
「はいですのです」
メモが羽をゆっくりと広げた。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:ゲイル(正騎士・歴8年・狼系獣人)
状態:慢性胃炎(継続:推定三ヶ月以上) 貧血傾向(体質性・軽度〜中程度)
直近の治療師受診:三ヶ月以上なし
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「数字は合っていますのです」
メモが静かに言った。
ゲイルが目を丸くした。
「……なんですか、それは」
「ブラックスキャンというスキルです。見ての通りです」
「俺の体を勝手に読んだんですか」
「表面に出ていたものだけです。中まで入り込んでいるわけではないので、ご安心を」
ゲイルはしばらくその表示を見つめていた。それから、大きく息を吐いた。
「参ったな。こうして数字で出ると」
ハルトは黙って待った。
「逃げられない感じがします」
■■■
「傷病給付という制度があります」
ハルトは続けた。
「業務外の病気やけがで療養が必要な場合に、一定期間、給付金を受け取れる仕組みです。アイゼングリム補償院の健康保険条項に定められています。療養中、収入がゼロになるわけではない」
ゲイルがじっと聞いていた。
「そんな制度が、あるんですね」
「あります。申請には担当治療師の診断証明書が必要ですが、それがあれば手続きを進められます」
「……申請して、審査が通らなかったら」
「通らなかった場合は、理由を確認して次の手を考えます」
ゲイルが膝の上に拳を置いた。
「査定が下がる、という話を聞いたことがあります。三年前に、怪我で二週間休んだ先輩がいて。戻ってきたら次の配置が悪くなっていた。申請のせいかどうかは分からないが、申請の後だったから、という話が団の中で広まって。それ以来、みんな黙って働くようになりました」
ゲイルが少し間を置いた。
「その先輩は、今も団にいますよ。でも、あれ以来一度も申請していない。去年、膝を痛めたときも、自費で診てもらったって」
リーシャが静かに口を開いた。
「……私も、聞いたことがあります。調子が悪くても、申請するのが怖い、という話」
(一人分の恐れが、団全体の沈黙に変わる。制度があっても、空気が制度を消していく。)
「一つだけ聞いていいですか」
「はい」
「今、家族のために頑張っていると言っていました。でも、ゲイルさんが今の状態で倒れたら、家族はどうなりますか」
ゲイルが顔を上げた。
「倒れる前に制度を使うことが、家族を守ることだと思います。査定の話は、それとは別に確認します。もし申請履歴が不当に使われているなら、それ自体が問題です」
長い沈黙があった。
ゲイルの耳が、ゆっくりと前に戻った。
「……分かった」
低い声で言った。
「まず妻に話してみます。申請する方向で、考えます」
「それで十分です」
ハルトは立ち上がった。
「まず申請書類を取りに行きます。補償院の傷病給付条項の様式がどうなっているか、確認してきます」
■■■
同日の昼前、ハルトとリーシャは補償院の窓口に並んだ。
「健康保険の傷病給付条項に基づく申請書類をいただけますか。様式一号から四号です」
若い受付の職員が棚を探した。少し時間がかかった。
「傷病給付……ございます。ただ、申請の前に担当治療師の診断証明書が必要でして。その証明書は指定書式を使っていただく必要があります」
「その指定書式も、こちらでいただけますか」
「それは健康保険担当課の管轄になります。北棟三階です」
「今日、行けますか」
「本日は担当者が外出しておりまして、対応できるのが明日の午後以降とのことで」
(また別の窓口。また別の書式。また別の担当者が不在。)
ハルトはメモに視線を向けた。
メモが静かに言った。
「制度は存在しますのです。でも入口の扉が、別の場所にあるみたいですのです」
「明日、北棟に行きましょう」
リーシャが静かに頷いた。
帰り道、ハルトは石畳を踏みながら考えた。
(制度はある。書類もある。なのに入口がいくつかに分かれていて、知らない人間は辿り着けない。悪意があってのことかどうかは分からない。どちらでも結果は同じだが。)
「健康保険担当課は補償院の中にあるのに、なんで別の棟なんですのかね」
メモがつぶやいた。
「組織が分かれているんでしょう。管轄が違う」
「使いにくいですのです」
「ええ。知っている人間しか辿り着けない」
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夕刻、リーシャのもとにゲイルから伝言が届いた。
「妻に話しました。申請する方向で考えます」
ハルトはその言葉を聞いて、短く息を吐いた。
(次が来た。今度はゲイルと、家族のために。)
窓の外、夕暮れの石畳に影が伸びている。明日、北棟の三階に行けば指定書式が手に入る。ゲイルが治療師のところに行けば診断証明書が取れる。書類が揃えば申請できる。
(揃えば、申請できる。受理されるかどうかは、まだ別の話だが。)
「ハルト様」
メモが肩の上で言った。
「ゲイルさん、今夜も胃の音がするかもしれませんのです」
ハルトはしばらく動かなかった。
(妻に話して、申請する気になってくれた。それでも今夜、体はまだ癒えていない。)
ハルトは窓から離れた。
「早く書類を揃えましょう」
リーシャが静かに頷いた。
夕暮れの廊下に、二人の影が並んだ。
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あとがき
プチ解説コーナー
今話から「傷病手当金」に相当する制度が登場します。現実では健康保険法第九十九条に定められており、業務外の病気・けがで連続四日以上仕事を休んだ場合(最初の三日間は待期期間)、四日目から最長一年六ヶ月、標準報酬日額の三分の二が支給されます。申請には医師の証明と事業主の証明が必要で、書類が揃わないと申請できない点が実務上のハードルです。「申請すると査定に響く」という風土が職場にある場合、制度上あってはならないことですが、使いたいのに使えない現場の声は今も珍しくありません。




