第38話 七日以内
補償院の廊下は、どこまでも静かだった。
石畳に四人分の足音が低く反響する。ハルトの肩の上でメモがじっと前を見つめている。翼のふちが、ほんのわずか震えていた。
「ファルクさん、機構長室の場所を教えていただけますか」
「二階の北廊下、一番奥です」
ファルクが静かに答えた。今日も感情を表に出さなかった。
「受け付けてもらえますか」
「昨日まで私が担当でした。今日からは機構長直轄です」
言葉の端に、わずかな重さが滲んだ。ハルトは申請書を胸の前でしっかり持ち直した。
(受理されるかどうかも分からない。でも、条文は確かにある。補償院業務規則第三十一条の二・第三項。申立人が評価基準の開示を求めた場合、機構長は七日以内に書面で回答しなければならない。何度も読んだ。)
「行きましょう」
リーシャが静かに歩き出した。エイラがその隣に並んだ。足首には、もう痛みがない。浄呪の儀で呪痕は消えた。でもその治療費百万グラルは、まだ宙に浮いている。本審査が通らなければ、エイラに返還を求められる。
(今日動かなければ、エイラは一生かけても返せない借金を抱えることになる。)
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機構長室の前に職員が二人立っていた。
ハルトが申請書を差し出すと、向かって左の職員が眉をひそめた。
「機構長へのご用件でしょうか。本日は面会予約のない方は」
「面会ではありません。書類の提出です。補償院業務規則第三十一条の二・第三項に基づく評価基準の開示申請書です。申立人エイラ本人の署名が入っています」
職員が書類を受け取り、文面に目を通した。右の職員が小声で何かを言い、左の職員が頷いた。
「一旦、内部確認の上でご連絡します。お名前とご連絡先を」
「申請書に書いてあります。受理番号は、いつ頃いただけますか」
「……本日中に、ご連絡できる予定です」
その日の夕方、受理番号が届いた。
メモが羽をばたつかせた。
「受理されましたのです。これで機構長は七日以内に回答する義務が生じました。拒否は規則違反ですのです」
「七日以内、か」
ハルトはその紙を見つめた。
(長いようで、短い。)
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翌日の昼過ぎ、補償院から呼び出しがあった。
ハルト・リーシャ・エイラの三人が案内されたのは、二階の小さな応接室だった。扉が開いた。
入ってきたのは短躯のドワーフ族の男だった。白い顎鬚は短く整えられ、顔には深い皺が刻まれている。目が鋭い。質素な作業着のような上着を着ていた。
機構長ドルカ・アイゼングリムだ。
「座れ」
椅子を勧めるでもなく、自分でも座らなかった。立ったまま、ハルトに書類を差し出した。
「本審査の評価基準だ。費用対効果の計算式を乗せてある。異論があれば、崩してみろ」
ハルトは書類を受け取った。数字が並んでいた。治療費が百万グラル。エイラの残存業務年数が六年(見習い聖騎士の平均勤続八年から逆算)。見習い一名の年間業務寄与試算が約九万グラル。六年分の五十四万グラルを百万グラルで割った費用対効果が、〇・五四。基準値の一・〇を下回っている。
「費用対効果が一を下回る案件には、王国から補償を出す根拠が成立しない。それが本機構の基準だ」
(……おかしい)
ハルトは数字を読み直した。
(この計算式は、エイラ個人の将来の業務寄与だけを計算している。今回の認定が組織全体の安全環境に与える影響を一切無視している。)
「機構長、一つ確認させてください。この計算式は、エイラさん個人の業務寄与のみを算出していますか」
「そうだ」
「では、今回の認定が聖騎士団の業務上負傷の申請体制の整備につながり、今後の労災案件を抑制する効果については、含まれていませんね」
「含む必要がない。個別案件の審査だ」
「いいえ、含む必要があります」
ハルトは声を上げた。
「補償院業務規則の目的条項第一条には、『業務上の傷病に対し公正な補償を行うことで、健全な勤務環境の維持に資することを目的とする』とあります。認定の効果は個人の業務年数だけで測れない。エイラさんが声を上げたことで、聖騎士団の業務上負傷の申請体制が整備されつつある。それも補償制度の目的の範囲内の成果です」
ドルカは眉を動かさなかった。
「証明できるか」
「ファルクさん」
リーシャが扉を振り返った。扉が開き、ファルクが入ってきた。手に書類を持っていた。
「機構長。過去五十年分のデータです。個別認定件数が増えた年の翌年以降、当該組織の業務上負傷発生率は平均で三割低下しています。機構の内部記録です。開示を拒否されれば、申請します」
ドルカが、初めてファルクの方を見た。
長い沈黙があった。
(機構長が動いた。計算が崩れた)
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:ドルカ・アイゼングリム
状態:評価基準の再算定、開始
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
メモがハルトの肩の上でそっと言った。
「機構長の目が、数字の方を向きましたのです」
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三日後、本審査の結果が届いた。
補償院業務規則第十一条に基づく正式な労災認定書。エイラの名前が印刷されていた。暫定認定が本認定へと切り替わった。魔法契約が正式発動し、治療費百万グラルの返還義務が完全に消えた。
エイラは書類を両手で受け取って、じっと見つめた。
「……これで、終わりですか」
「エイラさんの件は、これで終わりです」
ハルトは静かに言った。
「あなたが声を上げてくれたから、ここまで来られました。本当にありがとうございます」
エイラは小さく俯いた。しばらく動かなかった。それから、ゆっくり顔を上げた。
「……私、次は申立人にならずに済む職場を、作る方を手伝いたいです」
その言葉がどこから出てきたのか、エイラ自身も分かっていないように見えた。でも声は震えていなかった。
リーシャが一度、目を細めた。
「やっと、言えましたね」
「……はい」
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記録整備室に一人残ったファルクに、ハルトは礼を言いに立ち寄った。
「機構長に内部データを出してくださったのは、あなたにとっても、リスクがあったはずです」
「昔の話です」
ファルクは書棚の整理をしながら答えた。
「十六年前、私はこの制度の壁にぶつかって、何もできなかった。今回、誰かがその壁を越えるのを見ていた。それだけのことです」
「また、壁が出てきたら」
「その時は。また考えます」
ファルクの横顔に、柔らかい翳が差した気がした。
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聖騎士団への帰り道、リーシャが少し歩みを遅らせた。
「ハルト様。ゲイルさんのことなのですが」
「ゲイル?」
「正騎士の、歴八年の方です。今朝、訓練の途中に立ちくらみで倒れかけたと聞きました。もともと貧血が出やすい体質らしく、ここ数ヶ月で症状が悪化しているようで。経済的な理由から、長いこと治療師に診てもらえていないと」
ハルトは足を止めた。
(正騎士が倒れかけた。業務外の持病だ。だが、制度を知らなければどこにも繋がれない。)
「ゲイルさんは、子供さんがいましたか」
「はい。幼いお子さんが二人と、奥様が」
(家族がいる。治療師にかかれない理由がある。でも、体が先に壊れかけている。)
メモが肩の上で静かに言った。
「こちらの問題は、また別の制度が関係しているかもしれませんのです。傷病給付、というものが」
ハルトはゆっくり頷いた。
(次が来た。)
「リーシャさん、ゲイルさんと話せますか」
「明日の朝なら、訓練前に」
「お願いできますか」
リーシャが一度だけ、はっきりと頷いた。
夕暮れの石畳に、三人の影が長く伸びていた。
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あとがき
プチ解説コーナー
今話に登場した「費用対効果評価」と「本認定」は、現実の労働災害補償保険法における業務上外認定に近い仕組みです。実際の労災申請では、労働基準監督署が業務との因果関係を審査し、認定が下りると療養補償給付・休業補償給付などが支給されます。費用対効果だけで認定を判断する規定は実在しませんが、「申請しても通らない」という現場の閉塞感は一定程度存在します。情報開示については、行政手続法上、審査結果の理由を申請者が知る権利が認められています。制度は「知っている人が使える」側面が強いので、申請前の相談が重要です。




