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第37話 代償の請求書

翌朝、ハルトが執務室の戸を開けると、エイラがすでに入り口の前に立っていた。


右足で、しっかりと床を踏んでいた。


「おはようございます」


「エイラさん、右足はどうですか」


「昨夜、一度も痛みが出ませんでした。朝起きて、廊下を歩いてみたら……まだ実感がなくて」


「そうですか」


俺はそれだけ言って、手元の書類に目を戻した。


(喜ぶのはまだ早い。本審査が残ってる)


暫定認定は、本審査完了前の応急措置だ。本審査で正式に認定が下りなければ、魔法契約は失効する。エイラは治療費百万グラルを返還しなければならない。昨日の夕暮れの安堵は本物だった。でもその向こう側で、その事実は変わっていない。


エイラが椅子を引いて机の隣に腰を落ち着けた。そのとき右足を小さく踏み込んで体を支えているのが見えた。痛みのない足でできる、当たり前の動作だった。


「ラースさんに、本審査の手続きを確認しに行きましょう」


リーシャが書類をまとめながら言った。


「附則第三補則が本審査をどこまで定めているか、昨日は聞けませんでした」


「わかりました」


■■■


補償院の文書管理課は、昨日より静かだった。


廊下に人気がなく、カウンターには代理の職員が一人、書類を整理しているだけだ。


ラースの顔が見えない。


「ラースさんでしたら……」


声をかけると、代理職員が手を止めた。


「昨夜、部署を一時出向扱いにする辞令が出まして。本日は別室での対応となっています」


「別室?」


「詳しいことは私には。昨夜、上席から呼ばれていたとは聞いています」


(やっぱり来たか)


「お会いできますか」


しばらくして、廊下の奥からラースが現れた。


足取りは変わらず落ち着いていた。ただ、腰に下げていた担当者の識別章が外れていた。


「来ると思っていました」


低い声で言った。


「話を聞かせてください」


廊下の隅に場所を移すと、ラースは経緯を話した。


書庫への無断立ち入りを根拠に、担当区域の管理職務が調査期間中停止になった。文書の閲覧権限も凍結された。解雇ではないが、今後は書類にアクセスできない。


「本審査の手続き確認に来たのでしょう。今の私には、そのための書類を引き出す手段がありません」


ラースはそれだけ言って、黙った。


「後悔してますか」


俺は聞いた。


「記録帳を出したことについて、ですか」


「はい」


ラースは少し首をかしげた。


「師匠が二百年以上かけて整理して棚に残したものを、私はその棚から出しただけです」


言い切った後の間が、少しだけ長かった。


「本審査の提出先と期限は、附則の第三補則第六項に定めがあります。私は今それを確認できませんが、ファルクさんなら知っているはずです」


「……ありがとうございます」


「感謝は、本審査が通ってからにしてください」


ラースは廊下の奥に戻っていった。


リーシャが俺の隣で静かに立っていた。ラースの背中を、目で追っていた。


■■■


記録整備室に向かうと、ファルクは机の前にいた。


ハルトたちの顔を見て、昨日と同じ疲れた目で視線を上げた。


「本審査の手続きを確認しに来ました」


「わかってます」


ファルクは引き出しから書類を取り出した。


「附則第三補則第六項。申立受理から十五日以内に本審査の開始通知を申立人に送付する。審査はそれから三十日以内。規則上は、合計四十五日以内に結論が出ます」


「ありがとうございます。それともう一点」


俺は続けた。


「ザイドが昨日『上には段がある』と言っていました。機構長ドルカ・アイゼングリムが今回の件にどこまで関与しているか、何か知っていますか」


ファルクはしばらく黙った。


「……今朝、機構長から通達が来ました。今回の案件は機構長直轄として審査を進めるという内容です。ザイドは今後この件の担当から外れる」


「外れる?」


「通達に『現場職員の判断として適切な範囲を超えていた』と書いてありました」


(切り捨てた。ザイドを切って、自分が直接出てくる)


「それから、あなた宛の書面があります」


ファルクがテーブルに封書を置いた。


差出人:アイゼングリム補償院 機構長 ドルカ・アイゼングリム。


「今朝、受付に届いていました。預かっていました」


受け取って開いた。


文体は整然としていた。感情的な一節はひとつもない。


「暫定認定条項の適用については、機構財政審査基準に照らし、費用対効果の評価を実施する。評価結果いかんによっては、暫定認定の効力について見直しを検討する可能性がある。本審査の手続きは、評価の完了を前提として進める」


最後の行を、三度読んだ。


(本審査を、評価完了後にする。評価が終わるまで、本審査を止める気だ)


「メモ」


「はいですのです」


「この書面の意味を確認してもらえる?」


「機構長は暫定認定の存在は認めつつ、本審査の前に独自の費用対効果評価を挟む権限があると主張しています。それが成立すると、規則上の審査期限と関係なく、評価が終わるまで本審査が始まりません。手続きを実質的に引き延ばすことができますのです」


(ザイドが敗けた。だから機構長が直接出てきた)


「ザイドは切られたんですね」


エイラが書面を見ながら言った。


「でも、ハルトさん」


「何ですか」


「今朝も右足は痛くありませんでした。それは変わりません」


エイラが顔を上げた。


「諦めるつもりも、ありません」


俺は一秒だけ黙った。


(機構長ドルカ・アイゼングリム。感情で動かない、人格攻撃もしない。財政健全化という正義を本気で信じている。規則と数字だけで正面から来る。ザイドより、遥かに厄介だ)


(でも正義の論理で来るなら、同じ土俵に乗ってくれるはずだ)


「ファルクさん、機構長がこの評価を行う根拠条文を教えてもらえますか」


ファルクは少し間を置いた。


「補償院業務規則第三十一条の二です」


「その条文に、但し書きか附則はありますか」


「……棚を当たれば出てくるかもしれません」


ファルクは立ち上がり、分厚い規則冊子を棚から引き出した。


数ページをめくって、指を止めた。


「……あります。第三項」


「何と書いてありますか」


「費用対効果評価は、機構内の審査員三名によって実施する。ただし、申立人が評価基準の開示を求めた場合、機構長は七日以内に書面で回答しなければならない」


七日。


(開示を求めれば、少なくとも七日、手が打てる)


「申立人が書面で開示を求めれば、ですね」


「はい。様式は自由様式で構いません。ただし機構長名の通告に対する正式な申立形式が必要です。受理されるかどうかは、保証できません」


「やります。今日中に出します」


俺は立ち上がった。


「書き方を教えてください」


■■■


窓の外で、朝の光が石壁をゆっくりと照らしていた。


エイラが右足で床を踏んでいる。


昨日まで痛みに歪んでいた足が、今日はしっかりと地面を押している。


「リーシャさん」


エイラが声をかけた。


「書類の書き方、一緒に確認していただけますか」


「もちろんです」


リーシャが筆を取った。


ファルクが規則冊子を閉じながら、静かに言った。


「回答は七日以内に来るはずです。もし来なければ、それ自体が規則違反になります」


(七日。ラースの権限は凍結された。ザイドは切られた。それでもまだ、動いている人間がいる)


俺は書類に手を伸ばした。


---


【あとがき】


プチ解説コーナー


今話で出てきた「費用対効果評価」という概念は、現実の労災保険でも根底にある問題と重なります。


日本の労働者災害補償保険法(労災保険法)では、給付の認定は保険財政と直接連動しないとされています。しかし実務上、認定率の動向や「業務起因性」の解釈の厳格化などに、財政的な圧力が間接的に作用するという批判は長年あります。


また、労災保険法第38条以降には「不服申立て制度」が定められており、認定に不服がある場合は労働者災害補償保険審査官への審査請求が可能です。「暫定を出しても、本審査で覆す」という機構長の戦略は、現実の制度構造上あり得る話です。だからこそ今話のハルトのように、制度の規定を先に読み切ることが、自分の権利を守る最初の一手になります。

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