第36話 暫定の発動
ファルクの執務室を出て、廊下の突き当たりの待合室に腰を下ろした。
窓の外はまだ夜明け前の灰色で、補償院の石壁に薄い朝もやが貼り付いていた。
「読み上げます」
メモがふわりと浮き上がり、小さな羽を広げた。
「補償院業務規則附則 第三補則第四項。暫定認定条項。本条は、申立対象者が業務上の傷害を現に有すること、通常審査の完了まで待機することが申立対象者の身体的損害の拡大をもたらすと認められること、および記録整備室が当該傷害に係る診断書類を受理していることを三条件として、本審査の完了前に暫定的な補償契約を発動することを認めます」
三つの条件を、頭の中で一つずつ当てはめた。
業務上の傷害。エイラの呪痕は、魔石解体作業中に浴びた魔力汚染が原因だ。これは疑いようがない。
通常審査を待てない緊急性。七十二時間以内に右踝以下の運動機能が完全停止する。メモが昨日検出した数値がそれだ。
記録整備室が診断書類を受理済み。エイラの呪痕の診断書は昨夜、ファルクの部署に届いている。
「三つとも、当てはまります」
リーシャが静かに言った。
その声に、かすかな震えが混じっていた。
「でも一点、確認しないといけない」
俺は立ち上がった。
「この条項の申立権限が誰にあるか。本人だけか、代理人でも可能か。それで動き方が変わる」
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ファルクは席に戻っていたが、入ってきた俺たちを見ても驚かなかった。
「まだいたんですか」
「一点だけです。暫定認定条項の申立は、対象者本人が直接できますか。代理人申立の規定はありますか」
ファルクはしばらく黙って台帳をめくった。
「第三補則は、本人申請を原則とします。ただし附則第六項に但し書きがあり、申立対象者本人が意思を文書で示している場合に限り、委任状を添付することで代理人が手続補助をできます」
「エイラ本人が署名すれば、申立書の作成は代理でできるということですね」
「……そうです」
「ありがとうございます」
踵を返したとき、後ろからファルクの声が来た。
「付帯様式の別冊が、記録整備室にあります」
振り返ると、ファルクは視線を台帳に落としたまま続けた。
「取り出すのに十分かかります。待てますか」
(協力する気になった)
理由は聞かなかった。理由より今は時間の方が大事だった。
「待ちます。ありがとうございます」
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付帯様式は、くすんだ色の羊皮紙二枚綴りだった。
「二百年以上ぶりに動く書式ですのです」とメモが言った。
俺は机を借りてペンを取り、欄を埋めていった。
業務上傷害の種別——呪痕(魔力汚染による進行性機能障害)。
発生状況——業務中の魔石解体作業に起因。
現在の症状——七十二時間以内に右踝以下の機能停止見込み。
診断書類の受理番号——ファルクから確認した番号を書き込む。
委任状欄には「申立対象者の意思に基づき、手続補助者として結城ハルトが書類を作成する」と記した。
「エイラ、ここと、署名欄だけ書いてほしい。難しいことは全部書いた」
エイラは羽ペンを受け取った。
少し手が震えていたが、ゆっくりと丁寧な字で名前を書いた。
「これが通れば、呪痕が止まるんですか」
「暫定的な魔法契約が発動すれば、進行は止まる。本審査が通るまでの応急措置だが、まずはそれで時間を稼ぐ」
「でも、また落ちたら」
「本審査で正式に取る。その準備は並行して続ける」
エイラは申立書を返してきた。
目が、少し赤かった。
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廊下に出たとき、ザイドがいた。
部下を二名連れて、記録整備室の前で立っていた。
「昨日より早い来訪ですね」
俺は言った。
ザイドは封筒を差し出してきた。
「約束通り、書面を持参した。昨夜の補償院施設への不正侵入——補償院業務規則第八十七条——を根拠として、貴殿らの本院施設への立ち入りを、本日付で全面禁止とする」
受け取って開いた。
施設立ち入り禁止通知。根拠:補償院業務規則第八十七条第二項。対象:結城ハルト、リーシャ。期間:即日より内部調査完了まで。
「確認しました」
俺は書面を折りたたみながら言った。
「この禁止通知の対象はハルトとリーシャの二名ですね。エイラは含まれていません」
ザイドが眉を動かした。
「……そうだ」
「エイラ本人が窓口へ申立書を提出する行為は、この通知の制限に当たりますか」
「……施設内立ち入りの禁止通知だ。窓口での書面手交が含まれるかどうかは」
「本通知には『施設内立ち入り全面禁止』と明記されています。窓口は廊下の端に設置されています。エイラが廊下に立って書類を担当者に渡す行為が、施設内立ち入りに該当するかどうかをお聞きしています」
ザイドは答えなかった。
「暫定認定の申立書です。補償院業務規則附則 第三補則第四項に基づく申立。申立者はエイラ本人です」
俺はエイラに申立書を渡した。
「エイラ、窓口に提出してください」
エイラは右足をかばいながら、一歩踏み出した。
ゆっくりと、でも確かな足取りで廊下を歩いた。
窓口は突き当たりにあった。担当者は若い女性で、差し出された書類を受け取り、台帳と照合した。
「……附則の付帯様式ですね。有効な様式です。受理します」
スタンプが押された音が廊下に響いた。
その瞬間、エイラが手にしていた申立書の写しに、淡い青白い光の紋様が浮かび上がった。契約成立を示す魔法の刻印だった。
「これは……」
「暫定的な補償契約が発動した証です」とメモが言った。「これで、聖堂級の治療院での浄呪の儀を、費用の心配なく受けられるようになったんですのです」
エイラの表情がゆっくりと変わった。安堵というよりも、まだ半信半疑という顔だった。
「痛みは、まだあります」
「呪痕自体は、まだ消えていません」と俺は言った。「暫定認定が保証するのは、治療を受ける権利です。実際に呪痕を消すには、浄呪の儀を受ける必要があります」
「でも」とリーシャが続けた。「もう、お金の心配はしなくていいんです。それだけでも、大きな違いです」
エイラは右足首にそっと触れた。
「……ありがとうございます」
声が震えていた。涙ではなく、安堵に近い震えだった。
「時間はまだ残っていますか」
「七十二時間の猶予のうち、まだ半分近く残ってます」とメモが答えた。「聖堂へ急げば、間に合いますのです」
「行きましょう」
俺はエイラを促した。
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ザイドは廊下の端で、一部始終を見ていた。
「今回は、手続きが揃っていた。それは認める」
「ありがとうございます」
「だが、、、」
ザイドの目が俺を見た。感情の見えない、静かな目だった。
「これで終わったと思うな。この件の上には、まだ段がある。暫定認定が本審査を通過するかどうかは、別の話だ」
「わかっています」
ザイドはそれだけ言って、部下を連れて廊下を去っていった。
その背中が角を曲がるのを見ながら、俺は頭の中でその言葉を繰り返した。
(上には、まだ段がある)
(機構長ドルカ・アイゼングリム。まだ先がある)
(でも今日は、ここまでだ)
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その日のうちに、四人は聖堂級の治療院へ向かった。
受付で契約の刻印を見せると、案内は早かった。浄呪の儀は半刻ほどで終わった。
儀式が終わった直後、エイラの右足の周囲に光が生まれた。
淡い青白い光が、足首をほんの一秒包んで——そして消えた。
「……っ」
エイラが息を飲んだ。
「痛みが、消えています」
声が震えていた。
リーシャが駆け寄った。
「足は動く?」
エイラは右足をそっと踏み出した。一歩、また一歩。踵をゆっくり上げてみせた。
「動きます。かかとが……久しぶりに上がりました」
リーシャが、何も言わなかった。ただ目を細めて、エイラの足元を見ていた。
俺も何も言わなかった。
(よかった。でも、これで終わりじゃない)
暫定認定が本審査を通らなければ、この治療費は正式には認められない。エイラが百万グラルを背負うことになる可能性は、まだ消えていない。
それだけは、口に出さなかった。
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治療院を出ると、夕暮れの光が石畳を深い橘色に染めていた。
メモが小さな羽をはたかせながら言った。
「暫定認定は応急措置です。本審査が通らなければ、いずれ魔法契約は失効します。治療費の返還を求められる可能性も残ります。次の準備を」
「わかってる」
俺は答えた。
「でも今日は、一個だけ勝った」
エイラが俺を見た。
「ハルトさん」
「なに」
「右足、久しぶりに痛くないです」
静かな声だった。
俺は一秒だけ目を細めた。
(本審査が残ってる。治療費を背負うリスクも。ザイドの後ろにも何かある。ロードマップはまだ半分以上残ってる)
(でも今日は、エイラの足が止まらなかった)
夕日の光の中、エイラが自分の足で石畳を歩いた。
それだけで、今日は十分だった。
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【あとがき】
プチ解説コーナー
今回ハルトが活用した「暫定認定条項」はフィクション上の設定ですが、現実の日本の労働者災害補償保険法(労災保険法)にも近い考え方があります。
療養補償給付(労災保険法第13条)では、業務上の傷病に対する治療費が全額補償されます。指定医療機関であれば、申請手続きが完了する前から治療を受けることが可能で、これが実質的な「先行給付」として機能します。ただし最終的に業務外と判定された場合は費用の返還が求められることもあります。「暫定の恩恵には本認定という条件がついてくる」——この構図は、現実でも変わらない原則です。




