第35話 三日間の猶予
記録帳の写しは、団の執務室に持ち帰ってから改めて広げた。
十数件の「A-12-七・回答不能」の記録が並ぶ最後のページ。制定二百五十一年、十六年前。
「アイゼングリム補償院・記録整備室 ファルク。」
「記録整備室というのは、どのくらいの規模の部署なんですか」とリーシャに聞いた。
「補償院内部の記録を管理する部署です。外部からの問い合わせに対応することはほとんどないはずです。ただ……」リーシャが眉を寄せた。「今も在籍しているかは確認しないとわかりません」
「行けばわかります」
メモが肩から俺の膝に移動し、小首を傾げた。
「でも、教えてくれるかは別の話ですのです。十六年前に壁にぶつかって諦めた人間が、同じ壁を突っついてくる他所の人間に心を開くとは限りません」
「それでも、会ってみなければわかりません」
俺はそう答えてから、エイラを見た。
エイラは右足首に手を添えていた。俺と目が合うと、すぐに手を離して姿勢を正した。
「エイラさん、足首、どうですか」
「……大丈夫です」
声の張りが、いつもより薄かった。
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補償院の正面玄関を入ったのは、午前の開庁直後だった。
「記録整備室というのは、何階になりますか」
受付窓口の職員は、少し困った顔をした。
「記録整備室は……外部の方がお訪ねになる部署ではないのですが」
「補償院にお勤めのファルクという方に、お話を伺いたいのです」
(はっきり名前を出した方が早い。)
職員が奥の同僚と小声でやりとりをしてから、三階の突き当たりだと教えてくれた。
廊下を歩きながら、エイラの歩き方が気になった。右足をかばっている。段差のたびに、わずかだが遅れる。足首に添えていた手の痕が、白くなって残っていた。
「エイラさん」
「問題ありません」
即座に答えが返ってきた。
(それが問題なんだよな。)
メモが俺の肩で翼を少し広げた。言わなくても、聞こえているのがわかった。
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三階の突き当たりの扉には、「記録整備室」と彫られた木製のプレートがかかっていた。
ノックして押し込む。
中は狭かった。棚と棚の間に机が二つ。石灰塗りの壁には小窓がひとつ。一方の机に、五十代ほどの男性が座っていた。人間。白髪が混じった黒髪を短く刈りそろえている。こちらを見た目に、すぐに職業的な警戒が浮かんだ。
「外部の方が来られる部署ではないのですが」
「申し訳ありません。どうしてもお伺いしたいことがあって参りました。記録整備室のファルクさん、でしょうか」
男性は少し間を置いた。
「そうですが」
「十六年前、通達A-12-七について、書庫管理部門に問い合わせをされたことが記録に残っています」
ファルクの表情が、一瞬固まった。
「……なぜそれを」
俺は懐から記録帳の写しを取り出して、テーブルに置いた。
「書庫管理部門の問い合わせ記録帳です。あなたの名前と、回答不能という記録が残っていました。私たちは今、同じ壁の前に立っています」
ファルクは写しを見なかった。
「昔の話です」
「聞かせていただけませんか」
「……聞いてどうするつもりですか」
声は低かった。怒りではなく、疲れのある声だった。
「私たちには、この制度上の欠陥を証明しなければならない理由があります」とリーシャが静かに言った。「ファルクさんが当時どこまで調べていたかを知ることが、突破口になるかもしれないと思っています」
ファルクは写しに視線を落とした。長い沈黙だった。
「……十六年前、私はこの機構に入って五年目でした」
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ファルクが語り始めた。
配属されたばかりの頃、記録整備室の仕事は過去の申請記録の整理だった。膨大な冊子を分類していくうちに、パターンに気づいた。認定が出た記録と却下された記録の間に、明確な偏りがある。様式の取得経路が不明なため申請自体を受け付けてもらえなかったケースが、百件以上積み上がっていた。
「当時の記録を分類すると、様式の取得不能を理由とした却下が百二十七件ありました。理由欄に書かれた言葉は全部同じです。『様式の配布元の通達が不明なため、申請自体の受付ができない』」
ファルクの声は事実の羅列のようで、感情が薄く見えた。でも指先が机の縁を一度だけ叩いたのを、ハルトは見ていた。
「機構の内部から様式の配布元を特定しようとしました。でも通達A-12-七の現物は、書庫へ問い合わせをしなければたどり着けなかった。書庫への問い合わせには所定の様式が必要で、その様式の入手先はまた別の通達に委任されていた」
「同じ循環参照です」とメモが小声で言った。「機構の外と中で、同じ壁が存在していたんですのです」
「回答不能、の四文字をもらったのを今でも覚えています。その後、しばらく調べましたが……」
ファルクは窓の外に目を向けた。小窓から見える空は、曇っていた。
「上が動かないと、内部からでは限界があります。二年ほど粘りましたが、最終的には記録を保管して書棚に戻しました。それだけです」
その時だった。
廊下から靴音が聞こえた。複数の足音。規則正しく、迷いなく近づいてくる。
扉が開いた。
「聖騎士団員と、同行者」
ザイドが立っていた。その後ろに、部下が二人。補償院の廊下で見た顔だった。
「書庫への不正侵入の件について、正式な聴取が必要です。今すぐ同行してください」
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俺は息を吸った。
「同行とは、どのような根拠に基づくものですか」
「補償院業務規則第八十七条。施設内の不法侵入に関する調査権限があります」
「昨夜、私たちが補償院の施設に立ち入ったことを証明する記録はありますか」
「今それを確認するために同行をお願いしています」
(言葉の罠だ。「確認のため」という形で連行して、その場で確認させようとしている。)
「確認するだけなら、この場でお答えできます。私たちが昨夜の時点で補償院の施設内にいた、という事実はありません」
ザイドの目が細くなった。
「証明できますか」
「できなければ連行できる、という論理でしょうか。それが第八十七条の正確な解釈ですか」
二人の間に沈黙が落ちた。
そこでエイラが、音を立てた。
片膝がテーブルの角にあたった音だった。エイラが手で口元を押さえながら、右足首を床についていた。
「エイラさん」
「……立てます」
声が震えていた。でも床についた右足を、うまく動かせていなかった。足首の皮膚の下に、青白い光の筋が見える。昼間は気づかなかった。今ははっきりと、皮膚の下を這うように延びているのが見えた。
メモが俺の肩の上でスキャンを走らせた。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:エイラ(右足首)
状態:呪痕進行中。現在の進行速度を換算した場合、七十二時間以内に右踝以下の運動機能が完全停止
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
七十二時間。三日間。
エイラの顔から、わずかに残っていた血の気が引いた。治療師に言われた金額を思い出しているのが、その表情でわかった。
「……三日」
それだけつぶやいて、唇を嚙んだ。
「ハルト様」とメモが静かに言った。「これが今の状況ですのです」
(ただの捻挫じゃなかった。あと三日で、エイラの足が永久に止まる。金でも自力でも解決できない。正式の補償認定が出なければ、呪痕の進行は止まらない。)
「ファルクさん」
俺は話が途切れていた方へ振り返った。
「この人の足に何が起きているかわかりますか。業務中の怪我です。正式な認定が出なければ、三日後には右足の機能を失います。あなたが十六年前に調べようとしていたのは、こういう人間のためだったはずです」
エイラがゆっくりと顔を上げた。足に痛みがあるのはわかった。それでも、目を逸らさなかった。
「私は諦めたくありません」
エイラの声は小さかった。でも、聞こえていた。
ファルクは、エイラを見ていた。長い間、見ていた。
「……記録の中に、暫定認定条項というものがありました」
低い声だった。
「十六年前、調べた中に出てきた条項です。本審査完了前でも、一定の要件を満たせば暫定的な認定が発動できる。当時は使われていなかった。今も使われているかは確認していませんが……存在はしているはずです」
「どこにある条項ですか」
「補償院業務規則の附則です。第三補則、第四項」
ザイドが動いた。
「余計なことを話す必要はありません。当事者には今すぐ同行してもらいます」
「お断りします」と俺は言った。「同行の法的根拠が確認できるまでは、その義務はないと考えます」
ザイドは一歩引いた。
「明日、正式な書面を持参します。受け取る準備をしておいてください」
靴音が遠ざかった。
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三人と一羽で廊下に出た後、エイラがようやく壁に手をついた。
「申し訳ありません」
「謝らなくていいです」
「でも、私のせいで手続きが——」
「エイラさん」
声をやや落として言った。
「あなたは今日、声を上げました。それが次の手を引き出しました。十分です」
エイラはしばらく黙っていた。
「……三日間、あるんですよね」
「あります」
「ならまだ、諦めなくていいですよね」
「そうです」
リーシャが静かに続けた。
「暫定認定条項。今から確認します」
俺はもう一度、記録帳の写しを手の中で確かめた。
(三日間。第三補則、第四項。ザイドの書面が来る前に、動けることは全部動く。)
メモが俺の肩に戻ってきた。
「附則の条項なんて、事業部長クラスでも使い方を知らない可能性が高いですのです。見つけたとして、発動させるのは難しいと思いますが」
「難しいと、やらないのは違います」
「まあ、そうですのです」
メモは翼を一度広げて、また閉じた。
「でも今日、一つだけ良いことがありました。補償院の内部にも、同じ問題意識を持っていた人間がいたということが、証明されました」
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【あとがき】
プチ解説コーナー
今話で登場した「暫定認定条項」のような仕組みは、現実には「仮処分」や「仮給付」の考え方に近いです。労災補償の分野では、正式な認定決定の前に被災労働者の生活を守るため、一定の要件を満たした場合に早期給付を可能とする規定が設けられているケースがあります。ただし適用には書面での申請と証拠の整理が必要なため、「制度として存在していても、知らなければ使えない」という実務上の落とし穴があります。エイラが直面している「制度はあるのに機能していない」状況は、こうした実態を異世界の文脈で描いています。




