第34話 問い合わせの記録
その日の午後、団の顔なじみである治療師の元へ、エイラを連れて行った。
治療院の奥、薬草のにおいが染みついた部屋で、老年の治療師がエイラの右足首に手をかざした。しばらく沈黙が続いた。
「……これは、捻挫じゃありませんね」
治療師の声が硬くなった。
「呪痕です。業務中に浴びた魔力汚染が、皮膚の下で少しずつ肉と神経を蝕んでいます。通常の回復魔法では止められません。呪いの性質を上書きする、専用の浄呪の儀が必要です」
「治せるんですか」
「治せます。ただ……」
治療師は言いにくそうに間を置いた。
「浄呪の儀は、聖堂級の施設でしか行えません。術式そのものが希少で、術者への報酬も含めると、費用は百万グラル前後になります」
部屋の空気が固まった。
「……百万」
エイラの声がかすれた。
「見習いの日当が六十グラルだと聞きました。百万グラルは、休まず働いても四十五年以上分です」
治療師は淡々と続けた。事務的な口調が、かえって現実の重さを際立たせた。
「進行を止める方法は、今のところこれしかありません。王国からの特別な補償か、正式な業務災害の認定でも受けない限り、個人で用意できる額ではないでしょう」
エイラは何も言わなかった。ただ、右足首を見つめていた。
俺はメモと顔を見合わせた。
(正式な認定を受けなければ、エイラは一生、この足を抱えて生きることになる。金でも、自力でも、どうにもならない。)
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月が東の空に半分ほど昇ったころ、四人は東門の裏で落ち合った。
エイラの顔は当然ながら沈んだままだった。
ラースは灯りのない角灯を提げていた。使わない灯りを持ってきた理由は、すぐにわかった。
「書庫の奥に入ったら、火は使えません。封印の残滓が反応します」
「反応するとどうなるんですか」とエイラが小声で聞いた。
「わかりません。試した人がいないので」
冗談なのか本気なのか判断がつかない口調だった。メモが俺の肩の上でぶるっと震えた。
「ほーー。それ、一番聞きたくなかった答えですのです」
正面玄関ではなく、書庫の裏手に回る。石壁に埋もれた小さな通用口を、ラースが鍵で開けた。錆びついた蝶番が低く鳴った。
中は昼間よりも暗く、そして違って見えた。天窓から差し込む月光が、書架の間に一筋の道を作っている。最奥の扉、禁域と呼ばれていた場所に、薄い紋様が浮かび上がっていた。青白い光が、呼吸するように強弱を繰り返している。
「今です」
ラースが囁いた。紋様の光がわずかに沈んだ瞬間、扉に手をかける。
軋みひとつなく、扉が開いた。
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奥の書架は、手前とは比較にならないほど古かった。棚板が反っている。積もった埃の下に、革表紙の帳面が幾重にも重なっていた。
「師匠の私物は、たしかこのあたりに」
ラースが棚の下段に手を伸ばす。ハルトも隣の棚を探った。指先が乾いた紙の感触を拾う。
見つけたのはリーシャだった。
「これでは」
薄い冊子を引き抜く。革表紙に「問合せ記録」と手書きの文字があった。
開いたページに、日付と問い合わせ者の名前、内容の要約、対応結果が並んでいた。対応結果の欄には、ほぼ全行に同じ言葉があった。
「通達所在不明のため回答不能。」
「制定二百三十一年。聖騎士団第四分団より。回答不能。」
「制定二百三十八年。王都商人組合より。回答不能。」
「制定二百四十六年。王都司法書院より。回答不能。」
十件以上の行が続いていた。誰も突破できなかった。二百年以上、この壁は誰にも崩せなかった。
最後のページ。制定二百五十一年、今から十六年前。
アイゼングリム補償院・記録整備室 ファルク。
俺の手が止まった。
(補償院の内部から、補償院の書庫への問い合わせ。)
「ラースさん」と小声で言った。「これ、補償院の職員が自分たちの機構の内部問題として問い合わせていたということですか」
「師匠はこの件について一言も話しませんでした」とラースが答えた。「私も今、初めて見ました」
その時、遠くで扉の開く音がした。
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四人は同時に動きを止めた。
足音がひとつ、規則正しく近づいてくる。角灯の明かりが、書架の隙間から漏れて見えた。
「巡回です」とラースが低く言った。「時間が違う。定例のものじゃない」
「隠れましょう」
リーシャが最短の棚の陰にエイラを押し込む。ハルトはメモを手で包み、光を殺した。息を止める。
足音が止まった。角灯の光が、二列先の棚を舐めるように動く。
「……誰かいるのか」
低い男の声だった。聞き覚えがある声。監査官ザイドの部下だ。
心臓が喉元まで上がってくる。エイラの手が微かに震えているのが、暗闇越しに伝わってきた。
長い数秒が過ぎた。
角灯の光が、扉の方へ戻っていく。足音が遠ざかった。
「……行った」
ラースが最初に息を吐いた。
「時間がありません」とリーシャが言った。「封印は月が傾くまでしか緩みません」
俺は記録帳を胸に抱え、頷いた。
「戻りましょう」
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通用口を抜け、外の冷たい空気を吸い込んだとき、東の空はもう白みかけていた。月は沈む寸前だった。
「持ち出せましたね」とエイラが記録帳を見て言った。声にまだ震えが残っていた。
「持ち出したというより、借りた、が正しいです」とラースが訂正した。「戻す方法は、また考えます」
「巡回の時間が変わっていたのは」とリーシャが言った。「監視が強まっている証拠です」
「ザイドの差し金でしょうね」
俺は記録帳をもう一度確かめた。十数件の「回答不能」、そして十六年前のファルクという名前。
(誰も突破できなかった壁に、内部から挑もうとした人間が一人だけいた。)
「ファルクという人が今もここにいるなら」とエイラが言った。「話が聞けるかもしれません」
「補償院の内部にも同じ問題意識を持つ人間がいたなら」とリーシャが続けた。「交渉の接点になります」
「でも」とメモが翼をゆっくり動かした。「十六年前に諦めた人間が、もう一度同じ壁の前に立とうとするかどうかは別の話ですのです」
「会ってみなければわからない」
俺はそう言って、白みはじめた空を見上げた。
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その日の午前、ラースは上席に呼び出された。
「昨夜、書庫の禁域に立ち入った形跡がある」
上席の声には、これまでにない硬さがあった。
「規則違反です。わかっていますね」
「わかっています」
ラースは短く答えた。動じない声だった。
「処分は追って通達します」
上席はそれだけ言って、事務室の奥へ消えた。
廊下で待っていたハルトたちに、ラースは静かに言った。
「記録帳の写しは渡してあります。あとは、あなたたちが動く番です」
「ラースさんは」
「自分の判断には、自分で折り合いをつけます。前にも言いました」
ラースの声に迷いはなかった。それでも、その横顔に何かを覚悟した硬さがあることを、ハルトは見逃さなかった。
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【あとがき】
プチ解説コーナー
今話で描いた「制度そのものが二百年以上機能不全のまま放置されてきた」という状況は、行政法における不作為の問題と重なります。行政手続法は申請への迅速な応答を求めていますが、様式の入手経路そのものが実質的に途絶えているケースでは、申請権の行使が形骸化してしまいます。現実の制度でも、古い通達が改廃されないまま実務が空洞化する例は起こり得ます。「誰も直さなかった」という構造的放置は、規則が生きているように見えて、実は誰にも運用されていない状態を生みます。




