第33話 文書管理課
補償院本局書庫管理部門は、補償院の正面玄関から三つ廊下を曲がった先にある。
廊下の突き当たり、石造りの壁に半分埋まるように小さな扉があった。看板の文字は薄汚れ、縁の方に黴の染みが広がっていた。手入れの痕跡が久しくない。
「開いてますね」
リーシャが扉を小さく押す。乾いたきしみを立てながら内側に開いた。
中は思いのほか薄暗かった。書架が壁に沿って重なるように並び、冷えた空気に紙と埃の匂いが混じっていた。受付カウンターの向こう、椅子に背を丸めた若い職員が帳面から顔を上げた。ドワーフ族の青年だった。髭はまだ薄い。目の下に薄い隈がある。眠れていないのか、もともとこういう顔なのか、判断がつかなかった。
「閲覧申請ですか」
声に感情の起伏がなかった。
「はい。通達番号A-12-七の現物閲覧を希望しています」
記録管理局で入手した移管票の写しをカウンターに置くと、青年は一瞥して引き戻した。
「補償院業務規則に基づく閲覧申請には、所定の様式第十三号をご使用ください」
「その様式第十三号を、どこで入手できますか」
「様式管理規程の別途通達が指定する主管部署が配布します」
「その別途通達というのが、この書庫に保管されているA-12-七のことです」
「閲覧申請には様式が必要です」
俺は三秒、息を止めた。
「今の会話、全部逆向きにすると最初に戻りますよね」
肩の上でメモが小さな翼をはたいた。
「行政的には完全な循環参照ですのです。始点と終点が同じになっとります」
隣でエイラが口に手を当て、かろうじて笑いをこらえた。
「……承知しています」
青年は帳面に視線を落とした。答えは答えだ、というふうな沈黙だった。
■■■
少し離れた長椅子に三人で腰を下ろした。
外の廊下から冷気が這い上がってくる。窓が小さく、差し込む光が弱い。この部署に日常的に訪れる人間が多くないことが、部屋の空気そのものから伝わってきた。
「どうしますか、ハルト様」
リーシャが低い声で言った。焦りがない。でも、問いを避けなかった。
エイラは膝の上に手を組んで、じっと床を見ていた。かかとをわずかに浮かせている。捻挫した足首、まだ完全ではないのだろう。それでも、補償院の正面玄関から三つの廊下をここまで歩いてきた。
諦めていない。それはわかる。でも諦めていないのに手が出せない状況が、いちばん体に重く響く。
俺は移管票の写しをもう一度広げた。
制定百九十二年の機構改編の際に補償院本局書庫へ移管した、という記録がある。移管元は「補償院文書管理課」。担当者印は薄れてほとんど読めないが、確かに押されている。
この移管票を処理したのは補償院の内部組織だ。通達の現物がどこにあるか、その組織は知っているはずだ。
「文書管理課という部署が今も存在するなら」
独り言のように言うと、リーシャが続けた。
「移管を行った当時の処理課として、通達の正確な所在を把握しているはずです」
エイラが顔を上げた。
「もし話を聞けたら、少なくとも、どの方向に動けばいいかはわかりますよね」
「そうです。確実な答えじゃなくても、方向さえわかれば動けます」
(評議会への申請権限がなければ、権限を持つ人間に連署を頼めばいい。記録管理局経由の転送申請書という迂回路もあった。正面の壁を叩くだけが唯一の手段じゃない)
俺は立ち上がってカウンターに戻った。
「もう一点だけ聞かせてください。補償院文書管理課というのは、今も機能していますか」
一瞬の間があった。
「……機能しています」
「では、文書管理課に通達A-12-七の件を照会することは可能ですか。移管を行った当時の処理課として、通達の正確な所在を確認してもらうという形で」
「そのような照会申請の様式は」
「評議会規則第三十五条に基づく転送申請書であれば、既成様式ではなく申立内容を明記した書面で代替できます。こちらの移管票の写しを添付した書面を、文書管理課への照会として受け付けていただけませんか」
青年は帳面を置いた。初めて、俺の目を正面から見た。困惑している。でも、拒否する根拠も見つかっていない顔だった。
「……しばらくお待ちください」
奥へ消えた。
(通るかどうかわからない。「前例がない」は「不可」と同じじゃない。それはあの評議会審議で証明した)
■■■
十分ほどして奥から出てきたのは、青年ではなかった。
年配の女性職員だった。人間とエルフの血が混じったような深い目元と高い頬骨を持つ人物で、歩き方にわずかな疲れが出ていた。腰をかばうように前傾みになっている。
「文書管理課、代理対応のラースです」
低く落ち着いた声だった。
「お話は聞きました。転送申請書の受理については、私では判断できません。ただ」
ラースは視線を移管票の写しに落とした。
「この移管票の処理者印。私の師匠のものです」
「え」
「三十年前に定年した人物です。私が文書管理課に最初に配属された年に、仕事を教えてくれた人でした。A-12-七については、口頭で話を聞いたことがあります」
エイラが息を呑む音がした。
肩のメモがわずかに動いた。ブラックスキャンが何かに反応している。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:補償院文書管理課(通達A-12-七の移管元)
状態:実質的に休眠中。現存。担当者記憶保持の可能性あり
精度:低(人物経由、制度的確証なし)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「聞かせていただけますか」
「本来なら、今日のところはここまでです」
ラースは一度、扉の方を振り返った。誰もいないことを確かめるような仕草だった。
「A-12-七については、以前も一度、必要以上のことを話して咎められたことがあります」
声のトーンは変わらなかったが、移管票の写しを持つ手に力がこもっていた。
「それでも、話しますか」
俺は迷わなかった。
「はい。お願いします」
リーシャとエイラが、同時に頭を下げた。
ラースはしばらく黙っていた。それから、静かに息を吐いた。
「A-12-七の閲覧を求めてここに来た方は、あなたたちが最初ではありません。師匠が在職中も、退任後の私の代になってからも、同じやり取りが繰り返されてきました。様式がなければ閲覧できない、様式の入手先は通達が指定する、その通達はここにある。毎回、同じ場所で行き詰まっていた」
「……それは、今と同じですね」
「同じです。二十年以上、変わっていない」
ラースは一拍おいた。
「師匠は最後まで、通達の実物を見たことがなかったはずです。制定された年に一度発行されて、それきり増刷も再発行もされていない――師匠はそう言っていました」
「発行部数が、そもそも足りていなかった」
「師匠は、同じ問い合わせが来るたびに記録をつけていたはずです。日付と、来た人の名前と、何を求めていたか。その記録帳が、まだこの書庫のどこかに残っているかもしれません」
エイラが息を呑んだ。
「その記録帳があれば」
「通達そのものより先に、何人がここで行き詰まってきたか、示せます」
ラースは俺を見た。
「転送申請書の受理を上席に確認するのは、明日でも間に合います。でも記録帳は、この書庫の奥、禁域に近い棚にあるかもしれません」
「禁域、ですか」
「この書庫の最奥は、二百年以上前にかけられた封印術で守られています。正規の閲覧許可がなければ、扉の紋様が発光して踏み込めない結界です。ただ……」
ラースは声を落とした。
「満月の夜だけ、封印がわずかに緩みます。術式に組み込まれた誤差、というべきものです。私は文書管理課に長くいますから、知っています」
「……それは」
「今夜が、ちょうど満月です」
沈黙が落ちた。
「正規の手順ではありません。見つかれば、私もあなたたちも、ただでは済みません」
「それでも」とハルトは言った。「今夜、確かめたいです」
ラースは小さくうなずいた。
「……いいんですか。前例のない話ですよね、それも」
「いいわけがない、と師匠なら言うでしょうね」
ラースは初めて、口元をわずかに緩めた。
「でも、師匠がきちんと処理した記録が、三十年後に誰かの役に立てるなら。それは、悪くないことです」
ラースは静かに奥へ戻った。
■■■
補償院の正面玄関を出ると、空は夕暮れ前の橙色に変わっていた。石畳の上に三人の影が長く伸びる。
「突破口、ありましたね」
エイラが言った。諦めていたわけじゃない。でも確信していたわけでもなかった。その中間に立っていた顔が、今は少しだけ前を向いていた。
「ありましたね。まだ通るかどうかはわかりませんが」
「でも、昨日よりは前にいます」
リーシャが言った。そうだな、と俺は思った。
あの夜警の記録から始まって、評議会の審議を経て、アイゼングリム補償院の様式問題でまた壁にぶつかった。毎回、どこかに必ず一本、細い糸がある。今日の細い糸は、ラースという人物だった。
(補償院の中に、補償院自身の問題を知っている人間がいる。二十年以上前から、誰かがここで同じ壁にぶつかってきた。今夜、その壁の先を、自分たちの目で確かめる)
「今夜、東門の裏に集合しましょう。月が上がる前に」
ラースの声に、これまでにない緊張が乗っていた。
「はい」
リーシャとエイラが、同時に答えた。エイラの目に、不安だけではない光があった。
メモが肩の上でくちばしを開いた。
「今夜は満月で潜入で、その前に夕飯ですのです。腹が減っては忍び込めませんのです」
「その理屈、初めて聞きました」
エイラが小さく笑った。強張っていた頬が、少しだけ緩んだ。
俺も苦笑いして、石畳の上を歩き始めた。
禁域の封印が緩む夜は、そう何度も来ない。今夜のうちに、必ず答えを持ち帰る。
---
あとがき
プチ解説コーナー
今回の「様式がなければ申請できないが、様式の入手先を知るためには申請が必要」という状況は、行政手続きの「循環参照」と呼ばれる落とし穴です。
現実の日本では、労災申請に使う書類(療養補償給付たる療養の給付請求書・様式第5号など)は、労働者災害補償保険法施行規則等に基づき、厚生労働省のウェブサイトや最寄りの労働基準監督署窓口で誰でも入手できるよう公開されています。様式の入手先が公開されていなければ、権利の行使は実質的に妨げられます。
制度の入口そのものが見えないとき、入口の所在を問い直すこと。ハルトたちが今やっているのは、そういうことです。




