第32話 通達の在処
補償院の玄関を出た瞬間、夏の陽差しが石畳に白く弾けた。
三人と一羽は足を止めずに大通りへと向かった。
「行きましょう。記録管理局に」
エイラが言い、リーシャもうなずいた。
「記録管理局は月水金の午前中しか開いていません。今日は月曜ですから、今ならまだ間に合います」
リーシャが静かに付け加えた。ハルトの肩に乗ったメモが、小さな白い頭をひょいと傾けた。
「ほーー。開いている日に来られたのは運がいいですのです」
「運じゃなくて、事前に確認していたんです」
リーシャが即座に答えた。メモはもう一度首を傾けた。
(ちゃんと調べてたのか。さすがだな)
ハルトは内心でつぶやきながら、補償院で受け取った様式管理規程の写しを懐にしまった。
補償院業務規則第十二条の三。
様式管理規程第三条。
「様式の配布は主管部署が行う。主管部署については別途通達により定める」。
あの文言を、ハルトはもう何度も反芻していた。
(通達の所在が非公開。オルグレンが使った「死文化した内規」と同じ臭いがする。でも通達は行政指示文書だから、記録として残っているはずだ)
「エイラさん」
ハルトはちょっと声をかけた。
「さっき補償院で、自分から『どうすれば受け付けてもらえますか』って窓口に聞いてくれましたね。ああいうふうに正面から聞けたの、すごかったです」
エイラは少し驚いたように振り向いた。
「……私が聞かなければ、何も前に進まないと思ったので」
「それでいいです」
ハルトはそう言いながら歩調を速めた。
(半月前まで下を向いていた子が、今日は前を向いて聞けるようになってる。それだけで、あの審議には意味があった)
メモがぽつりと言った。
「ほーー。質問するのは基本的な権利ですのです」
「この世界に『権利』という概念がどこまであるかは微妙ですけどね」
「あるかどうかより、使えるかどうかの方が重要ですのです」
(それ、普通に正しいな)
ハルトは内心でうなずきながら、城壁の影が差す南回廊へと向かった。
■■■
記録管理局は、王城の南回廊を抜けた先の一角にあった。
分厚い木の扉に「記録管理局 開局:月・水・金 午前九刻〜正午」という表示が貼ってある。
「失礼します」
リーシャが扉を開けた。内部は薄暗く、天井まで届く棚に帳面や書類の束が詰め込まれていた。羊皮紙の乾いた匂いが漂っている。
受付には細身のエルフの男性職員が一人、帳面を眺めていた。ハルトの顔を見て、一瞬目を細めた。
「……名誉聖騎士殿。お久しぶりです。本日はどのようなご用向きでしょうか」
「補償院に関連する通達の原本を確認させていただきたいです。具体的には、様式管理規程第三条が委任している『別途通達』の現物です」
「補償院関係の……」
男性職員は帳面を閉じ、立ち上がった。
「少々お待ちください。索引を確認いたします」
待っている間、エイラが小声で言った。
「……もし通達がここにないとしたら、どうなりますか」
「その時は別の手を考えます」
(どんな手だ)と内心でつっこみながら、ハルトは答えた。
リーシャが静かに続けた。
「まずは確認しましょう。通達がここに保管されているなら、閲覧申請を出せばいい。存在してもここにないなら、移管先を確かめる。存在しないなら、それはそれで別の問題です」
「リーシャさん、頭の回転速いですね」
「当然の整理です」
リーシャが淡々と答えた。メモがぽつりとつけ加えた。
「行政文書の所在が不明なのは行政上の問題ですのです。でも立証するには記録を探すしかないですのです」
「それ、今一番必要な視点です」
しばらくして、職員が一冊の索引帳を抱えて戻ってきた。開いたページをカウンター越しに提示する。
「補償院業務規則に付随する通達として、様式主管部署指定通達(通達番号A-12-七、制定二百十七年三月)の記録がございます」
「それです。現物を閲覧させていただけますか」
「……それが、」
職員が一瞬言いよどんだ。
「この通達は、制定百九十二年の機構改編の際に原本が補償院本局書庫へ移管されております。当局に現物はございません。索引上の移管記録のみが残っている状態です」
■■■
一瞬、沈黙が落ちた。
「……補償院本局書庫、に」
エイラが繰り返した。声に力がなかった。
ハルトは頭の中で素早く整理した。
(通達は存在する。でも現物は補償院にある。補償院へ様式の入手方法を確認しに来たのに、通達は補償院が持っていた。つまり、補償院に様式を入手させてくれと頼むために、補償院の書庫から通達を閲覧申請しなければならない)
(様式審査委員会と同じだ)
肩の上でメモが静かに言った。
「ほーー。補償院に聞きに行ったら補償院の書庫を見ろと言われる。補償院の書庫を見るには補償院に申請しないといけない。これは行政的には循環参照ですのです」
「つまり」
ハルトは静かに言った。
「補償院に様式をもらいに行ったら、補償院の書庫に戻ってこいと言われた、ということですか」
職員は答えなかった。しかし目を伏せた。
ハルトのスキルが静かに反応した。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:通達A-12-七 移管経緯
状態:制度的グレー 記録上の移管経路は整合しているが、現物への市民アクセス経路が実質的に閉鎖されている可能性がある。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「一つだけ確認させてください」
ハルトは職員に向き直った。
「この移管記録、補償院本局書庫へ移管したという証拠書類は、ここに残っていますか」
「……はい。移管票の写しが記録上に一通ございます」
「その写しを閲覧させてください。あと、補償院本局書庫への閲覧申請の手続きを教えてください。方法があれば、今日中に申請を出したいです」
職員はしばらく帳面を繰り、ゆっくりと答えた。
「閲覧申請は補償院本局の書庫管理部門へ直接提出することになります。申請書の様式は……」
職員が言いよどんだ。
「……補償院業務規則で定める様式、となっております」
「それが、今日受け付けてもらえなかった様式ですね」
職員は、また目を伏せた。
「……申し訳ありません」
小さな声だった。
■■■
記録管理局を出た時、正午の鐘がちょうど鳴り終わったところだった。
夏の陽光が石畳に白く弾け、三人と一羽の影が並んで伸びた。
「……通達は存在した」
リーシャが静かに言った。
「でも現物は補償院にあって、補償院の書庫に閲覧申請を出すには、補償院所定の様式が必要で……その様式は今日受け付けてもらえなかった」
「完全に同じ構図です」
エイラが言った。声は静かだったが、以前より落ち着いていた。以前なら下を向いていたかもしれない。今日は、まっすぐ前を見ていた。
「でも」
エイラは続けた。
「最初は壁だらけでも、突破できることがあると知っています。だから今回も、必ず抜け穴があるはずです」
(あの子、いつの間にそんなこと言えるようになったんだ)
ハルトは内心で驚きながら、移管票の写しをもう一度確認した。
「補償院本局の書庫管理部門。今日の午後、そこへ直接行ってみましょう。様式を使わずに書庫閲覧申請を出す方法があるかどうか、確認します」
「様式なしで申請……できるんですか」
エイラが首をかしげた。
「補償院の書庫規則に抜け穴があるかもしれない。動かないと答えは出ないです」
「ほーー」
メモがふわりと飛び上がり、ハルトの頭上で一周した。
「今日の一番の発見は『通達は存在する』という事実そのものですのです。なかったら詰んでたですのです」
「そうです。記録がある、ということが今日一番の収穫です」
ハルトは移管票の写しを懐に収めた。
(通達は存在する。補償院の書庫に。もし様式なしで書庫閲覧申請を出す方法が一つでもあれば……)
石畳を四分の一刻ほど歩いたところで、エイラの足取りが微妙に乱れた。
「大丈夫ですか」
リーシャが横から支えようとすると、エイラはあわてて首を振った。
「平気です。少し、疼いただけで」
だが顔色は白かった。捻挫の治りが悪いというよりも、痛みの質が違う。ハルトのスキルが小さく警告を発した。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:エイラ(右足首)
状態:異常反応を検出。詳細は不明。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「今度、詳しい治療師に見てもらいましょう。ただの捻挫にしては、治りが遅すぎます」
「……はい」
エイラは短く答えたが、目を伏せた。何か、言いたくないことがあるような沈黙だった。
正面から声がかかったのは、その直後だった。
「結城ハルト殿、ですね」
振り返ると、灰色の外套を纏った男が立っていた。年齢は四十前後。目つきに愛想がない。
「アイゼングリム補償院、監査官のザイドと申します」
「監査官……何のご用でしょうか」
「補償院への申請が異例続きだとの報告を受けましてね。記録管理局への照会、様式なしでの書庫申請の打診。前例のない動きが続くと、不正の意図を疑われても仕方がない。それが規則です」
「不正の意図なんて」
「ありません、と申請者が言うのは当然です」
ザイドは表情を変えなかった。
「申立が前例のない形で通ることは、私が監査官である限りありません。以後、動向は注視させていただきます」
一礼して、ザイドは踵を返した。
「……なんですか、あれ」
エイラの声には怒りがにじんでいた。
「敵、ですね」
リーシャが静かに言った。
メモがぼつりとつぶやいた。
「ほーー。監査官が動いたということは、上の方でも今回の件が話題になっている証拠ですのです。無視されているよりは、多分いいことですのです」
「無視されなくなった代わりに、狙われるようになった、ということですね」
ハルトは短く息を吐いた。
(エイラの足のことも、あの監査官のことも、放っておける話じゃない。次は、両方に手を打たないと)
王都の午後の光の中で、三人と一羽は補償院本局へと向かって歩き始めた。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございます!
▼プチ解説コーナー
今話に登場した「通達」について。
通達とは、上位の行政機関が下位の機関や職員に向けて発する指示・解釈・基準を示す文書です。法律そのものではありませんが、実務では強い拘束力を持ちます。日本では、労働基準法の時間外割増賃金の算定基準や、テレワークのルールの多くが通達によって補われています。
問題は、通達が必ずしも一般公開されていない点。行政機関の保有する情報の公開に関する法律(情報公開法)第4条では、誰でも行政文書の開示請求が可能ですが、「内部の意思形成過程」や「事務の適正な遂行に支障が生ずる情報」として非開示になるケースもあります。ハルトたちが直面した「通達の所在が公開されていない」という壁は、現実の制度的不透明さとまさに同じ構造です。




