第30話 最初の一歩、もう一つの壁
朝の光が窓から差し込む前に、リーシャはすでに机に向かっていた。
ろうそくの光の下、羊皮紙には文字がいくつも並んでいる。書いては止まり、止まっては書き直した跡が、三枚分になっていた。
「……やっぱり根拠が足りません」
誰にも聞こえないようにつぶやいて、額に手を当てた。
補償制度の申立書。書き方は分かる。提出先も分かる。ただ、一番重要な「本申立の法的根拠」という欄で、どうしても筆が止まる。
勇者保護法典には、休息権も健康権も書いてある。でも業務中の負傷に対する補償を直接定めた条文は、どこにもない。
窓の外では、夜警明けの見習いたちが交代を始めていた。昨日よりも動きが少し整って見えた。カイルが始めた報告書の様式整備の効果が、もう出ているのかもしれない。
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扉を叩く音がして、ハルトが入ってきた。手に茶の椀を二つ持っている。
「リーシャさん、昨日からここにいたんですか」
「少し仮眠しました」
「どのくらいですか」
「……二時間弱です」
「それは仮眠じゃないですよ」
ハルトは一方の椀を机の隅に置いて、羊皮紙を覗き込んだ。法典の引用、解釈の試み、何度も書き直した跡。一行一行、丁寧に追いかけているのがよく分かった。
「根拠になる条文が見つからなくて」とリーシャは言った。「補償について直接書いた条文がないんです」
「ないですね」とハルトはうなずいた。「でも、こういう場合の考え方があります」
ハルトは椅子を引き寄せた。
「直接の条文がなくても、使用者が業務上の危険から人を守る義務、俺たちの世界では安全配慮義務って言うんですが、それ自体が認められていれば、負傷が起きた時点でその義務違反になります。補償も、そこから引き出せます」
「……法典のどこにその義務がありますか」
「第一条です。『勇者は心身の健康を保つ権利を有する。いかなる名誉もこれを侵してはならない』。あの『いかなる名誉も』というのは、業務上のリスクを強いる組織の側も例外じゃない、ということだと俺は思っています」
ハルトは机を軽く指で叩いた。
「だとすれば、業務中の負傷は第一条が禁じている侵害にあたる。侵害が生じたなら、組織の側に原状回復の責任が生じる、という筋が立ちます。補償の根拠は、ここから引き出せます」
リーシャはしばらく羊皮紙を見ていた。
「……お母さんも、第一条を根拠にしようとしていたんですね」
「昨日ガレオスさんが言っていたことから考えると、そう思います」
「だから、合っているんだと思います」
リーシャは改めて筆を取り、ゆっくりと書き始めた。
「手伝います」とハルトは言った。
「……お願いします」
部屋の中に、筆の音だけが響いた。窓の外では朝の光が少しずつ強くなっていた。
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昼前になって、扉が小さくノックされた。エイラだった。
羊皮紙を何枚か抱えて室内に入り、机の上にそっと広げた。
「昨日、少し話をしてきました」
名前が三人分、丁寧な字で並んでいた。
「夜警で足を痛めた先輩と、訓練中に肩を傷めた方に話を聞きに行きました。お二人とも、申立人として一緒に名前を入れていいって言ってくれました」
ハルトは三人の名前を見た。
(一人で動いた。しかも二人を説得してきた)
「自分で話しに行ったんですか」
「聞けない空気があったって私が言いました。だったら、私が最初に聞きに行かないといけないと思って」
エイラは少し下を向き、また顔を上げた。
「一人だけ申立人になるのが、ずっと気になっていました。同じ経験をしていた人がいるのに、私だけでいいのかって。……これで少し、楽になりました」
リーシャが筆を止めて言った。
「お二人のことも、ちゃんと書きます」
「……ありがとうございます」
エイラは椅子を勧められて腰をおろした。部屋の中にしばらく、羊皮紙の上を走る筆の音だけが続いた。昼の光が窓から差し込んで、三人の影が机の上に重なっていた。
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夕方になって、廊下から重い足音がした。ガレオスだった。
特に用件は言わず、机の上の申立書を一度だけ見た。
「できてるか」
「あとは確認だけです」
ガレオスは腕を組んで壁に背を預けた。少しの間が空いた後、ぽつりと言った。
「リーシャの母が、似たものを書こうとしたとき、一度だけその話を聞いた。根拠を書く欄が一番難しかったと言っていた」
リーシャの筆が止まった。
「法典の第一条を根拠にするのが、一番素直だと自分で言っていた。俺は何も手伝えなかったが、その話は覚えている」
それだけ言って、ガレオスは踵を返した。
「邪魔した」
扉が閉まると、エイラが小声で言った。
「あの方、いつもああいう感じですか」
「ああいう人なんです」とリーシャが答えた。「でも、ちゃんと見ています」
ハルトは窓の外を向いたまま、そうですね、とだけ言った。
今日来るつもりはなかっただろう、とハルトは思った。でも来た。それだけで、じゅうぶんだ。
◆◆◆ブラックスキャン◆◆◆
対象:業務上負傷補償申立(案)
状態:法典第一条との整合性、仮確認
精度:低(詳細表示不可)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
精度はまだ低い。でもスキャンが反応している。
間違った方向には向いていない、とハルトは解釈した。
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翌朝、記録管理局が開く刻に合わせて、三人が廊下を歩いた。リーシャが申立書を両手でしっかりと持ち、エイラが隣に並んでいた。ハルトは少し後ろから二人の背中を見ながら歩いた。
(リーシャさんの表情が変わった。廊下で倒れていた頃とは、もう違う)
エイラがつい最近まで下を向いていたことも、ハルトは覚えていた。
窓口には顔馴染みの担当官が座っていた。申立書を差し出すと、受け取って番号を確認し、受理印を押した。
「受け取りました」
胸の中で何かが緩んだ。
ところが、奥の扉が開いて、白髪の女性が静かに出てきた。
「少しよろしいですか」
穏やかな口調だった。
「申立書、拝見しました。形式は問題ございません」
「ありがとうございます」
「ただ、一点だけご確認を」
女性は申立書を机の上に置いた。
「業務上負傷に対する補償制度の新設につきましては、内容によっては聖騎士団評議会の単独審議ではなく、王都にございますアイゼングリム補償院への照会手続きが必要になる場合があります」
部屋の中が、一瞬固まった。
「……アイゼングリム補償院、というのは」
「評議会の補償制度が機構の管轄規則と重なるケースでは、照会を経ずに審議を進めることが内規上できない場合がございます。今回がその対象かどうかは、精査が必要です」
女性はていねいに頭を下げて、奥に引っ込んだ。
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三人は廊下に出た。
エイラが言った。「……また、別の場所に行かないといけないんですか」
「分からないですが、そうなる可能性はあります」とハルトは答えた。「どんな機関なのかは、これから調べます」
(知らない。聞いたことがない。でも、そういうことを一から調べるのには、もう慣れてきた)
「……なら、行きます。そこにも」とエイラが言った。
「俺たちも行きます」とリーシャが静かに言った。
中庭に出ると、夕暮れの風が吹き抜けていた。
申立書は今、記録管理局の棚に入っている。エイラとコルドとイナ。三人の名前が、法典の第一条と並んで、紙の上にちゃんと残った。
新たな道ができた。
突然異世界にきて、勇者保護法典という誰も知らなかった条文を見つけて、休息申請、評議会、禁書庫、評議会。全部、ここへの道のりだった。
でも次の扉は、また向こうにある。知らない機関、知らないルール、また一から。
(それでも、やれる)
王都の方角に、夕暮れの空が広がっていた。
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あとがき
プチ解説コーナー
今回の申立が目指す「業務上負傷への補償」は、現実では主に労働者災害補償保険法(労災保険法)が担っています。仕事中の怪我は「業務災害」と認定されると、療養補償給付(治療費の全額)や休業補償給付(給付基礎日額の60%相当)を受けられます。ただし申請は労働者自身が行う必要があり、「聞けない空気」があると申請しづらいという現実も法律が想定している課題の一つです。実際に、申請せず自費で治療を済ませるケースは現代でも多く存在します。




