第29話 揺れた後の静けさ
翌朝、団の中庭に立つと、空気が少し違った。
うまく言葉にできない違いだった。
巡回する騎士の足取りがいつもより遅いわけでも速いわけでもない。
見習いたちが訓練場に集まる様子も、目に見えた変化はない。
ただ、何かが動いている気配だけがあった。
「評議会の決定が、団内に回覧されました」
隣でリーシャが言った。
「議長権限の一時停止と、調査開始。それだけ書いてあるようです」
「反応は」
「今のところは静かです。ただ」
リーシャは少し間を置いた。
「廊下で、古参の正騎士の方々がひそひそと話しているのを見かけました。内容は聞こえませんでしたが、顔つきが決めあぐねているような感じでした」
(そりゃそうだよな)
ハルトは中庭を見渡した。
これだけのことが起きた翌朝に、全員が整然とすっきりした顔をしていたら、それはそれで怖い。
困惑して当然だった。
百二十年分の積み重ねが、一晩で揺れたのだから。
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朝の巡回が終わった後、ガレオスが訓練場の脇でハルトを呼び止めた。
「一言だけ言っておく」
短く言った。
「今日、古参の正騎士が三人、俺のところに来た。これからどうなるのか、と聞いてきた」
「何と答えましたか」
「評議会の調査が終わるまで分からない。その間は普通に仕事をしろ、と答えた」
ガレオスは腕を組んだ。
「不満そうではなかった。ただ、不安そうだった。長く続いた秩序が変わるときには、そういうものだ」
(不安か。当たり前のことだな)
オルグレンがいなくなることで、誰かが即座に困るわけではない。
けれど、百二十年変わらなかったものが変わり始めると、人は先が見えなくなる。
制度の問題というより、慣れの問題だった。
「その中に、今回の申立に反感を持っている人はいましたか」
ガレオスは少し間を置いた。
「ラドという正騎士がいる。十五年のベテランだ。騎士は自分の痛みを自分で背負うものだ、制度に頼るようになれば団が腐る、という考えを持っている」
ハルトは黙って聞いた。
「俺も昔は似たようなことを思っていた」
ガレオスが続けた。
「ただ、リーシャの母が倒れたとき、俺は何もできなかった。制度がなかったから、というより、制度があると知らなかった。知っていれば、できることがあった」
「ラドさんに何か言いましたか」
「お前の考えを否定しない。ただ、エイラは自費で薬代を払った。それが問題だと思うかどうか、考えてみろ、と言った」
「反応は」
「黙っていた」
ガレオスは口の端を少し動かした。笑いではなかったが、柔らかいものが混じっていた。
「あいつなりに、考えるだろう。おそらく」
しばらく間があった。
「エイラの件は、動くのか」
「動きます。今度は制度を作る申立から始めます。評議会への正式な新規申立です」
「受理はされるか」
「補正申立が五対ゼロで通りましたから、評議会は動ける状態にあります。内規の問題は今調査中です。今回は、もう少し進みやすいはずです」
ガレオスは少し顎を引いた。
否定でも肯定でもなかった。
「そうか」と言ってから、訓練場に向かった。
(あの人なりの、様子見だな)
ハルトはその背中を見ながら思った。
ガレオスは、信じると決めたら動く人間だった。
今は、まだ確認している段階だと思う。
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午後、テルトが立ち寄った。
「明日から副直轄に戻るんだよね」
扉を開けるなり言った。
「副直轄部署へですか」
「うん。向こうも仕事がたまってる。こっちに来てた間に積んじゃったやつが」
「お世話になりました」
「なったね」
テルトは軽く笑った。
「また来るよ。評議会の調査に証人として呼ばれる予定もあるし」
「百二十年前の件は、今回の調査で明らかになりますか」
テルトは少し考えてから答えた。
「調査の範囲次第だね。今回書証として出したのは附則第三条の改訂記録まで。百二十年前の第七条削除の審議記録は、また別途申請が必要になる」
「申請しますか」
「する。タイミングを見て」
テルトはそう言いながら、窓の外を見た。
「百二十年前に退けられた同僚の申立記録も、禁書庫に残ってるんだよね。申立の記録と、却下の記録が両方ある。当時の審議員の署名付きで」
「それを、使えますか」
「まだわからない。ただ、場所は確認した。それだけでも違う」
ハルトには、その言葉の重さが少し分かる気がした。
百二十年間、誰も手が届かなかった記録が、今は在処が分かっている。
それだけで違う、という感覚は、法律を道具にする仕事の感覚に近かった。
(証拠があること自体が、もう力になる)
「また来てください」
「来るよ。おそらく」
テルトは手を振って出ていった。
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夕方の廊下で、カイルが近づいてきた。後ろに見習いが三人いた。
「ハルト様」
少し前より、声が前に出ていた。
「何ですか」
「夜警の報告書について、俺たちで様式を整えようと思って」
「様式を」
「異常があったとき、今は口頭で報告するだけです。でも記録が残らないから、同じ場所で何度も問題が起きていても誰も気づかない。前に記録をとることの意味を聞いてから、ずっと考えていて」
ハルトは少し驚いた。
自分が教えたのではない。
カイルが、自分で考えて動いていた。
「どんな様式ですか」
「日付と担当者名と、異常の有無だけ書く紙を、毎回引き継ぎで渡す形です。次の担当者が確認してから受け取る」
「問題ないと思います。ガレオスさんに確認してから始めてみてください」
カイルは頷いた。後ろの三人も同じタイミングで頷いた。
(こういう変化が、静かに広がっていくんだな)
評議会の決定がこの廊下まで直接影響を与えているわけではない。
ただ、何かが変わり始めたという空気が、人を動かしていた。
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夜、部屋に戻ると、リーシャが申立書の下書きを持ってきた。
「休んでいいと言われたばかりなのに、いいんですか」
ハルトは聞いた。
「はい」
リーシャは短く答えた。
「休むかどうかを、自分で決められるようになっただけです。今夜は、これをやりたいと思いました」
少し間があってから、リーシャは続けた。
「前は、何をするにも、「光栄なことです」と言っていました。休めないことも、無理を重ねることも、そう言えば自分を納得させられる気がして。中身は見ないようにしていました」
ペンを指で挿んだまま、視線を紙に落とした。
「今は、その言葉を使わなくても、ここにいられます。やりたいからやっている、それだけで足りるので」
リーシャは一度口を閉じて、それから小さく続けた。
「でも、不思議ですね。やりたいことをやれるというのは、本当に光栄なことです」
少し笑った。以前の、何かを覆い隠すための笑いではなかった。
「同じ言葉なのに、今はちゃんと意味がある気がします」
ハルトは何も言わなかった。
(義務としての「光栄です」と、選択としての「やりたい」は、同じ作業量でも中身が違う)
以前のリーシャなら、休めと言われても働き続けただろう。今は違う。働くことを選べるから、働くことの意味が変わった。
「エイラさんから連絡をもらいました。一緒に文面を考えていいですか、と」
「もちろんです。エイラさんが自分で申立人になると言いましたか」
「はい。名前を入れてほしい、と」
「何があったんですか」
「見習いの中で、同じ経験をした子が他にもいると分かったそうです。それで腹が立った、と言っていました」
(腹が立ったから動いた。それが一番強い動機だ)
ハルトは下書きを受け取った。まだ薄い内容だった。
今度の申立は、補償制度そのものが存在しないことを問題として提起する内容になる。
現行の規則のどこを探しても、業務上の負傷に対する補償を定めた条文がない。
その欠落を評議会に認めてもらい、制度を新設する申立を出す。
「今回は、リーシャさんが文面の中心を作れますか」
「私が、ですか」
「前回は俺が文案を出して、リーシャさんが清書していました。今回は逆からやってみてほしいんです」
リーシャは少し黙った。
「うまくできるかどうか」
「やってみてからでいいです。一度書いて、一緒に確認します」
「……はい」
リーシャはペンを取った。
少し手が止まった。
それから、書き始めた。
最初の一文は短かった。でも止まらなかった。
ハルトはそれを隣で見ていた。
(うまいかどうかより、止まらないことの方が大事だ)
部屋の外、夜風が廊下を通り抜けた。
宰相府の窓に、今夜は灯りがなかった。
代わりに、評議会書記局の窓だけが静かに光っていた。
調査は、今夜も続いている。
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翌朝、エイラが廊下でハルトを待っていた。
足首の包帯は、昨日より薄くなっていた。
「おはようございます」
声が前に出ていた。
「おはようございます。調子はどうですか」
「だいぶいいです。痛みは残っていますが、業務には出られます」
「無理しないでください」
「でも」
エイラは続けた。
「申立書を出す前に、一つ言っておきたいことがあります」
「聞きます」
「昨年、夜警中に石段で足を滑らせた子がいました。私は知らなかったんです。同じ夜警を一緒にやっていたのに。聞かなかったんじゃなくて、聞けない空気があったんだと思います。それも含めて、変えてほしいと思っています」
(それが一番根っこにある問題かもしれない)
業務上の負傷を申し出ることが、不利益につながるかもしれないという空気。
言えない、聞けない、見えていない問題が積み上がっていく。
補償制度を作ることは、その入口だった。
「申立書に、そのことも書きます。制度がないことと合わせて、制度がないために申告が抑制されている事実も。一緒に作りましょう」
エイラは小さく頷いた。
今度は、下を向いていなかった。
リーシャが呼びかけに応えて廊下へ出てきた。
三人で、部屋に戻った。
机の上に、昨夜リーシャが書き始めた下書きがある。
まだ途中だった。でも、一文目が書いてあった。
ハルトはペンを取って、続きを考えた。
エイラが横に座って、自分のことを話し始めた。
しばらくして、エイラが付け加えた。
「昨年足を滑らせた子の話、他の見習いにも聞いてみたんですが……昨年だけで、三件ありました。みんな自費で薬草を買ったそうです」
ハルトは少しの間、黙っていた。
(三件。一年で三件。記録に残っていない分も含めれば、もっとあるかもしれない)
補償制度を作ることは、入口だった。
この団のどこかに埋もれている傷の記録を掘り起こして、仕組みをゼロから作る。
それが、これから始まることだった。
窓の外に、朝の光が入り始めていた。
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あとがき
プチ解説コーナー
現実の日本では、業務中の怪我・病気には「労災保険」(労働者災害補償保険)が適用され、療養補償給付として医療費は全額補償されます(労働者災害補償保険法第13条)。自費で払った場合も、後から補償を受けられます。
重要な点は「制度がないから補償しない」は法律上通じない、ということです。使用者には安全配慮義務があり(労働契約法第5条)、業務上の負傷への補償責任は制度の有無にかかわらず発生します。
「申告できない空気」の問題も現実にあります。会社側が労災申告を抑制・隠ぺいした場合、追加のペナルティを受けることがあります。制度を作ることと、申告できる環境を作ること、この両方を同時に進めなければ、問題は解決しません。エイラたちが次にぶつかるのは、まさにその壁です。




