第28話 逆転の条文
翌朝、廊下に最初の光が差し込む前に、テルトが戻ってきた。
手に古い書類の束を持っていた。表紙の角が埃で白く滲み、一部は折れていた。
「あったよ」
部屋に入ると、机に束を置いた。丁寧ではなかったが乱暴でもなかった。目当てのものを確かめながら運んできた人間の置き方だった。
「内規が制定される前の規則。評議会が最初に作ったやつ。百五十年以上前」
ハルトは椅子を引いて近づいた。リーシャとガレオスが後に続く。
テルトが特定の頁を指で示した。
「附則第三条の元の条文。ここ」
ハルトは文字を辿った。
> 様式審査委員会は申請書類の書式確認及び記録保管を職務とし、申立書類の受理又は不受理を判断する権限を持たない。なお、審査期間は書類受理の日から十日以内とする。
>
「十日以内」
声に出した。
「現行の三十日は」
「こっち」
テルトが隣の頁を開いた。
「二ヶ月前の内規改訂記録。附則第三条に『通常三十日程度』という文言を追加した。署名は」
リーシャが低い声で読んだ。
「評議会議長。オルグレン様、御自身のお名前です」
誰も何も言わなかった。
申立が始まる前に、審査期間を十日から三十日に書き換えていた。第四十七条が崩れた後でも附則第三条が残るよう、先回りして仕込んであった。
「これを証拠として使えますか」
ガレオスがテルトに向かって言った。
「評議会書証登録申請という手続きがある。文書を評議会の正式な審査参照資料として登録できる。登録後は、評議員が審議中に無視したら手続き違反になる。さっき調べた」
「今日中に」
「今から行けば間に合う」
テルトはすでに荷物を持ち直していた。
■■■
午前中のうちに、テルトが書証登録申請を完了させた。
旧内規の写しと、内規改訂記録の写し。評議会書記官から登録番号が発行された。
戻ってきたテルトが言った。
「本日の審議に間に合いました」
ガレオスが頷いた。
「三時間後だ」
■■■
午後の評議会は、正式な評議場で開かれた。
評議員五名が全員揃っていた。オルグレンが議長席につき、ハルトたちと正面から向き合った。
机の上に、書証登録番号付きの旧内規の写しが一部ずつ配られた。
「本日は書証を提出しました」
ハルトは口を開いた。
「評議会内規附則第三条の元の条文では、様式審査委員会の審査期間は申請から十日以内と定められています。現行の三十日は、この申立が始まる二ヶ月前に、議長御自身の署名で追加されたものです」
「あわせて」
ガレオスが続けた。
「補正申立の形式上の申立人は、主任騎士の職位を持つ私です。評議会内規第四十七条の但し書きによれば、名誉聖騎士が補佐として連名する場合は主任騎士が申立人となれます。今回はその形式を取っています。手続き上の障害はありません。補正申立の受理を求めます」
オルグレンは微笑んでいた。
最初からそういう顔をするつもりだったのだろう。動かない笑顔だった。
「書証の確認をさせてください」
声に揺れはなかった。
「その写しが正規の原本に基づくものかどうか、確認が必要です」
「禁書庫の旧記録束です。閲覧記録は記録管理局に残っています。今日の閲覧申請の記録もある。確認したければ、書記官立ち会いで今すぐできますよ」
テルトが答えた。
評議員の一人が写しを手に取り、内規改訂記録の頁を確認した。顔の表情が動いた。別の評議員も手元の資料に目を落としている。
「内規の改訂は、議長権限の範囲内における適正な手続きです」
オルグレンは言い切った。
「改訂以前の条文は参考にとどまります」
「議長」
テルトが口を開いた。
「先日の審議で、附則第三条の運用について『廃止手続きが取られない限り有効、運用の頻度は問わない』とおっしゃいましたよね。それで、長期間使われていなかった附則を適用された」
「そうです」
「では、改訂前の条文も同様です。廃止手続きは取られていない。同じ論理なら、旧条文も等しく有効では」
「現行内規が優先されます」
「その優先基準は内規のどこに書いてありますか」
評議場が静まった。
オルグレンはすぐには答えなかった。
「内規の解釈は、議長の職務権限に含まれます」
短く、打ち切るように言った。
評議員が一人、口を開こうとした。オルグレンがそちらに目を向けた。評議員は閉じた。
「加えて申し上げます」
オルグレンが続けた。声に力が戻っていた。
「この審議における書証の採否の判断は、議長権限に含まれます。本件においては、提出された旧内規の写しの証拠能力を、本日のところ留保いたします。書記官、記録してください」
ハルトの胸に何かが落ちた。重かった。
留保。
拒否ではない。受け入れてもいない。判断を宙に吊るすことで、書証の効力を実質的に消す。
(ここまで準備をしても、こういう壁がある)
書証登録申請を通したことが、意味を失う。テルトは何も言わなかった。ガレオスは顎を引いた。
「少し確認させてください」
評議員の一人が静かに声を出した。
「議長、書証採否の判断が議長権限に含まれるというのは、内規のどこに根拠がありますか」
「内規第二十二条。評議会審議の議事進行は議長が管理する、という規定です」
「議事進行の管理と、書証の採否は別ではないでしょうか」
「議事進行には書証の取り扱いを含みます。先例もあります」
「その先例の文書は」
「後日提出します」
後日。
ハルトはその言葉の重さを計った。
今日の審議は今日終わる。後日に先例を出すということは、今日はその先例を誰も確認できない。評議員たちが先例を検証できないまま審議が閉じれば、書証は机の上の紙切れのままだ。
評議員は口を閉じた。
(それで終わるのか)
補正申立の期限はまだ三日ある。けれど今日ここで流れが決まる。書証の効力を議長権限で留保されたまま、この評議場で採決に至れば。評議員たちが書証の内容を根拠として使えないまま、採決すれば。
(勝てない)
これだけの準備をしてきた。旧条文を見つけた。書証登録申請を通した。第四十七条の但し書きで申立人の問題も解決した。それでも最後にこういう壁が立つ。
(・・・ここまでか)
■■■
トントントン
評議場の扉を、ノックする音がした。
審議の最中だった。
「失礼します」
書記官補が顔を出した。
「大変申し訳ありません。リーシャ様宛のお急ぎの文書が届いております。差出人が様式審査委員会と記されておりまして、審議中とは存じましたが、お急ぎとのことでしたので」
評議場が静まった。
リーシャが立ち上がった。封筒を受け取った。薄かった。
開封した。
一枚の文書だった。
もう一枚、折りたたまれた紙が中にあった。
見覚えのある紙だった。
ずっと、名前だけ書いて持ち歩いていた。
「休暇申請書…!」
今は所属も、休息の希望日数も、全て埋まっていた。
その上に、様式審査委員会の受理印と承認印が並んで押されていた。
読んだ。
ハルトはリーシャの表情を見ていた。変わらなかった。ただ、読み終えた後で、一度だけ小さく息を吸った。
「リーシャ」
ガレオスが低く言った。
「様式審査委員会からの承認書です」
リーシャが口を開いた。声は落ちていたが、はっきりしていた。
「補正申立とは関係ありません。私自身の、休息申請書です」
誰かが小さく息をのんだ。
「ハルト様から雛形をいただいてから、ずっと名前しか書けませんでした。その後所属を書き足したしましたが、そこから先に進めないまま、ずっと持っていました」
「最初の評議会審議の三日前、ようやく書き終えました。ですが、そのまま出す勇気はありませんでした。母のように、様式のところで却下されるのが怖かったので。だから先に、様式審査委員会へ事前確認を申請しました。本番の前に、書式だけでも確認していただきたいと」
「申請から今日で十日になります。旧内規の規定通り、書類受理の日から十日以内。承認書が、今届きました」
誰かが息をのんだ。
ハルトは計算した。
十日前。リーシャが申請を出したのは、様式審査委員会が今回の申立に絡んでくると誰も知らない段階だった。オルグレンが附則第三条を武器として使ってくるとは、まだ見えていなかったころ。
その時点で、リーシャは動いていた。
(母が通れなかった壁を、十日前に)
(そして、これは留保できない)
留保が効くのは、まだ決まっていない解釈だけだ。旧条文が有効かどうか、書証をどう扱うか。そこには議長の裁量が及ぶ。だが様式審査委員会の承認は、解釈ではない。すでに終わった行政行為だ。他機関が完了させた行為を、議長権限で後から巻き戻すことはできない。
(オルグレンが留保で時間を止めている間に、外側で事実が先に確定していた)
「それは」
オルグレンの声が、初めて裂けた。
「本件の申立とは無関係の書類です。証拠として扱う理由がありません」
「無関係だからこそ、意味があります」
リーシャの声は平坦だった。
「もしこの承認が本件のために急がされたものなら、議長はそう主張できたでしょう。でもこれは、私個人の、誰も知らなかった申請です。委員会が本件を意識して速めた可能性はありません。ただ、いつも通りの速さで処理されただけです」
「議長」
ハルトが口を開いた。
静かな声だった。
「名誉聖騎士としてではなく、労務を扱う者として申し上げます。先ほど、あなたは書証の証拠能力を留保されました。解釈が定まるまでの時間稼ぎとして。ですが今回届いたものは、解釈ではありません。様式審査委員会は、この評議会とは独立した機関です。その機関が、すでに承認という行政行為を完了させました。完了した行為は、これから行う解釈の対象にはなり得ません。議長権限は今後の判断には及びますが、他機関がすでに終えた行為を後から無効にする権限までは、内規のどこにも規定されていないはずです」
「そしてもうひとつ」
ハルトは続けた。
「リーシャの申請は、本件とは何の関係もない、個人の休息申請でした。委員会が本件のために特別に速めた可能性はありません。それでも十日で処理された。議長が改訂されたはずの三十日ではなく、旧内規の十日で。委員会自身が、改訂後の運用を普段から一度も行っていなかったという証拠です。改訂は文書の上にしか存在していなかった、ということになります。そしてこれは、もう一つ意味します。名誉聖騎士という地位も、向こうの世界での労務を扱う職務も、私には同じものです。権限は、使わなければ意味がない。リーシャはそれを、誰よりも先に使いました」
評議場の空気が変わった。
テルトが小さく頷いた。
「留保できるのは、まだ決まっていないことだけですよ」
オルグレンは立ち上がった。
椅子を引く音が評議場に響いた。
「百二十年です」
声は低かったが、圧があった。初めて、表面が剥がれた声だった。
「私がこの評議会を守ってきた年月です。勇者の代替わりのたびに団が揺れた。派閥の対立で審議が止まった。外部からの圧力で制度が歪められそうになった。そのたびに私は内規を整え、先例を積み上げ、この評議会が機能し続けるように手を動かしてきた」
机に両手をついた。
「附則第三条の審査期間を延長したのも同じ理由です。十日では書類の形式確認が不十分なまま審議に回る案件があった。不備のある申立が評議会を混乱させた例を、私は何件も見てきた。三十日にしたのは申立人のためでもあります。書類を整える時間を与えるために」
「議長」
ガレオスが口を開いた。
「その改訂が適切であれば、評議員全員に諮って行えばよかったはずです。なぜ議長単独の署名で」
「評議員への説明は行いました」
「記録はありますか」
オルグレンは答えなかった。
「あなたたちには」
彼は続けた。今度は声が上がった。制御が外れていく途中の声だった。
「百二十年分の、何がわかる。たった一件の申立でここに来て、私が積み上げてきたものを崩そうとしている。この評議会が今日まで機能してきたのは、誰かが制度を守り続けてきたからです。あなたたちに、そのことの何がわかる」
ハルトは何も言わなかった。
オルグレンの言葉の中に、本物の何かがあった。百二十年は嘘ではない。その長さの中で積み上げてきたものが、今崩れようとしている。それは本当のことだった。
ただ。
「評議員の皆様」
評議員の一人が口を開いた。穏やかな声だったが、揺れていなかった。
「まず、様式審査委員会の承認についてです。これは独立した機関がすでに完了させた行政行為であり、本評議会の書証採否の判断とは別個に効力を持ちます。留保の対象とはなりません」
「申請者の資格制限も、附則第三条には規定されていません。今届いた承認書は有効と解します」
「また」
別の評議員が続いた。
「書証採否の議長権限について。内規第二十二条は議事進行の管理を定めたものです。書証の採否を議長単独で決定する根拠としては不十分と考えます。先ほど提出された書証は、本審議において参照されるべきものと判断します」
「加えて、先日の審議における議長の御発言、廃止手続きが取られない限り旧条文は有効、という解釈に照らせば、旧附則第三条もまた有効です」
オルグレンは机に手をついたまま、評議員の顔を順番に見た。
何も言わなかった。
「採決を求めます」
評議員の一人が言った。
「補正申立の受理について」
五対ゼロ。
「評議員より、議長の内規改訂権限の行使に関する調査動議が提出されています」
五対ゼロ。
「評議会規則第九十八条に基づき、調査結果が確定するまでの間、議長権限の一時停止を求める動議が提出されています」
五対ゼロ。
オルグレンは長い間、机に手をついたままだった。
「百二十年前の審議記録が禁書庫にある」
テルトが言った。いつものタメ口だった。
「第七条が削除されたときのやつ。今回の提出書証には含んでいませんでしたが、原本の場所は確認済みです」
「……今回の審議と、何の関係がありますか」
「直接の関係があるかはわかりません」
テルトは少し微笑んだ。
「必要になれば、書証登録申請しますね」
オルグレンは評議場を見回した。五人の評議員を見た。書記官を見た。ハルトたちを見た。
そのまま、席に戻らなかった。
評議場の扉が閉まった。音は、拍子抜けするほど静かだった。
■■■
廊下に出ると、夕方の光が窓から斜めに入っていた。石畳に影が長く伸びていた。
ガレオスが最初に口を開いた。
「終わった」
それだけだった。
リーシャは廊下の石壁に手を当てた。指先が白くなるくらい、押した。
「母が申立をしようとしたとき、様式だけの問題だと言われました。私はずっとそれが納得できなかった」
声は低かった。
「最初の審議が決まったとき、ようやくあの申請書を書き終えました。でも、また様式で落とされるのが怖くて、一人で先に様式審査委員会へ確認を出しました。それだけです。計算していたわけじゃない」
リーシャは懐から、封筒の中にあったもう一枚の紙を取り出した。承認印の押された、自分の休息申請書だった。
「結果として、今日、これが届きました」
「計算でなくてもいい」
ハルトは言った。
「母が越えられなかった壁を、あなたは自分の力で越えた」
リーシャは紙を見つめた。
「母が『休んでいいよ』と言ってくれたみたいですね」
「そうですね。ゆっくり休みましょう」
リーシャは壁から手を離した。耳が、今日初めて上を向いていた。
少し間があってから、ハルトが口を開いた。
「今日決まったのは、二つです」
指を一本立てた。
「様式審査委員会の審査期間は十日。議長が書証の採否を勢いで留保することもできない。これで、書類を盾にした引き延ばしが使えなくなった」
もう一本。
「補正申立が受理されたから、第七条の復活を求める本審議に進める。異議申立権が戻れば、命令に納得できないとき、今度は誰でも、正式な手続きで声を上げられるようになる。つまりこれで、休暇の件も夜警の件も、団のみんなが良いと思える意見を出して、規律を見直し運用していくことができる」
リーシャは自分の手のひらを見た。
「母のときは、声を上げる前に様式で止められました」
静かな声だった。
「今日からは、その手前で止められることはなくなって、母がやり遂げたかったことを私が進めることができます」
テルトが軽く背中を伸ばした。
「ところで、私がここまでやったのは自分のためでもあるんだよね」
「どういうことですか」
「百二十年前、私が主任騎士になりたてのころ、同僚が同じ壁にぶつかった。不当な扱いに対して申立をしようとして、評議会で退けられた。書証も出した。でも内規の解釈権を持つ側が認めなかった。記録が残っていなかったから、証明できなかった」
テルトは廊下の先を見た。
「今回は記録があった。証拠が揃った。評議会に正式に登録できた。百二十年前に私にはできなかったことが、今日できた。それが自分のためでもある、ということ」
「その方は」
リーシャが静かに聞いた。
「団を去った」
テルトは一度目を細めた。それ以上は何も言わなかった。
「次があるよ」
しばらくしてから、テルトが言った。
「エイラさんの件ですね」
「補償の根拠を作るところからが本番だよ。現行の規則には何もない」
ハルトは頷いた。
エイラが業務上の怪我で自費で払った薬代。同じことが繰り返される前に、制度を変えなければならない。今度は評議会への正式な申立から始めることになる。
「また考えよう」
テルトが言った。
廊下に風が吹き抜けた。宰相府の窓に灯りが点いていた。
ハルトは歩き始めた。石畳が夕方の光を受けて、少し金色に見えた。
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あとがき
プチ解説コーナー
今回の「書証採否と議長権限」の攻防は、現実の行政審査における「証拠採用の裁量」に対応しています。行政不服申立法では、審査庁は申立人が提出した証拠を審査の参考にする義務がありますが、どこまで証拠として重視するかには裁量があります。「証拠能力の留保」という形で実質的に書証を無力化しようとする動きは、現実の審査実務でも問題となることがあります。
「評議会書証登録申請」は、行政不服申立法第33条等に基づく証拠資料の正式提出制度に近い設定です。登録された書証を審議で無視できないという構造は、受理した証拠を黙殺できないという現実の制約に対応しています。
リーシャが事前に様式審査委員会への申請を出していた流れは、行政手続きにおける「事前確認」「予防的申請」の活用に対応します。問題になりそうな点を先回りして手続きを踏んでおくことが、実務では有効な手立てになることがあります。




