第27話 十日と三十日
翌朝、机の上に昨夜の紙が置かれたままだった。
様式審査委員会の事前承認が必要。審査には通常三十日程度を要する。
差出人なし。
ハルトは椅子に座って、その一行をもう一度読んだ。
テルトが入ってきた。書類の束を脇に抱えていた。
「昨夜のうちに記録管理局の附則を当たった。附則第三条、確かにあったよ」
テルトは机に写しを置いた。
評議会への申立書類は、事前に様式審査委員会の審査を経なければならない。審査期間は申請から三十日以内。
「本文に書いてあったら誰でも目に入る。附則はそういうもんじゃないからね」
ガレオスも壁際で腕を組んで聞いていた。
「内規の本則に書かれていないということは、普通の閲覧をしていたら発見できない可能性がある、ということか」
「うん。百五十年以上前に入れた条文で、長い間誰も動かしてなかった。使われた記録はほとんどないよ」
ハルトは頭の中で数字を並べた。
補正申立の期限は十日以内。
様式審査委員会の審査に三十日。
この二つが両立するなら、申立は物理的にできない。
(最初から、こうするつもりだったのか)
審議の場で但し書きを省略し、補正申立が成立しそうになったら附則を使って時間切れに持ち込む。一段目が崩れても二段目で同じことができる仕組みを先に仕込んでいた。
「リーシャさん、差し込まれた紙の差出人について、何かわかりましたか」
ドアの近くに立っていたリーシャが、一枚の紙を出した。
「様式審査委員会の現長官の名前が残っていました。二ヶ月前に任命された方で、前職が」
リーシャは一拍置いた。
「宰相府の顧問補佐です。任命したのは、オルグレン様です」
部屋に静けさが落ちた。
「その人が、写しを渡せと俺に言ってきた男と同一人物ですか」
「記録管理局への来訪記録と任命書類の筆跡を照合しました。同一人物と見ていいと思います」
「名前は」
「ヴィール・スタートと記録されています」
ハルトはその名前を頭の中に刻んだ。
■■■
記録管理局の書庫に四人が集まったのは昼前だった。
ガレオスの発案で、別の記録を当たることになったからだ。
棚の奥まで、古い文書の束が詰め込まれている。虫除けの薬草のような匂いが鼻についた。ガレオスが一冊を引き出した。
「二十年ほど前の申立記録だ」
ページをめくる音が静かに続く。ハルトは横から覗き込んだ。
申立者の名前の欄に、小さな文字が書いてあった。
「ドゥラン・リーシャ、とあります」
リーシャの耳が、ぴたりと伏せた。
「俺はその場に同席していた」
ガレオスは記録から目を上げなかった。声はいつもより低かった。
「お前の母が仲間の休息申請をしようとしたとき、様式が一か所だけ違っていたと言った。あのとき、俺にはもう一つ見えていたことがある」
ガレオスが指で一行を示した。
却下理由。様式審査委員会未承認のため受理不可。
「附則第三条を使って却下された記録だ」
リーシャは動かなかった。
「お前の母は、様式審査委員会の事前承認が必要だということを知らなかった。書き方だけの問題だと俺は言った。だが本当は手順の問題だった。事前に伝えていれば、違う結果になったかもしれない」
「……ガレオス様は、それを知っていたんですか」
「知っていた。だが言えなかった。言えばよかった、ということは今もわかっている。それでも、あのときは言えなかった」
ガレオスは書類を閉じた。指先がわずかに力んでいるのが見えた。
「今、同じことがもう一度起きようとしている。だから今度は黙っていたくない」
廊下に面した窓から、外の光が差し込んでいた。
リーシャはしばらく書類の表紙を見つめていた。
「……教えてくださって、ありがとうございます」
声は静かだった。震えてはいなかった。
ハルトは何も言わなかった。言える言葉が、このとき自分にはなかった。
■■■
午後の緊急審議は、宰相府の副議場で開かれた。
テーブルをはさんで、オルグレンと評議員が三名。向かい側に、ハルト、ガレオス、テルト、リーシャ。
オルグレンは今日も笑顔だった。
「本日は、補正申立の受理条件について確認の場を設けました。附則第三条に基づく様式審査の手順について、異議がおありでしょうか」
「条文は確認しました」
ガレオスが答えた。
「ただ、附則第三条が長期にわたって実質的に機能していなかった事実も確認しています。今になって急に運用されることの合理的な説明を求めます」
「内規は、廃止の手続きが正式に取られない限り有効です。運用の頻度は問いません。これは内規上の原則です」
オルグレンが静かに言い切った。揺れなかった。
「様式審査委員会の現長官は、二ヶ月前に宰相御自身が任命されています」
テルトが口を開いた。
「申立が発生したタイミングで長官を補充したと見られますが、その点についてはどうお考えですか」
「運用上の必要から、空位であった委員会の体制を整えただけです」
オルグレンは視線をテルトから外し、部屋の入口の方へ向けた。
扉が静かに開いた。
仕立てのいい服。静かな立ち方。
ハルトには見覚えがあった。
「様式審査委員会、長官のヴィール・スタートと申します」
男が一礼した。
「結城殿とは、先日一度お目にかかりました。禁書庫でお写し取りになった書類について、お渡しいただくようお願いしたことがあります」
「はい。根拠規則を示せなかったので断りました」
ハルトは短く答えた。
「その通りです」
ヴィールは静かに頷いた。それ以上、追及しなかった。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:ヴィール・スタート(様式審査委員会長官)
状態:宰相府顧問補佐歴十七年・今次申立阻止のため行動中
補足:様式審査申請を意図的に遅延させる権限を保持
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
(見えた。でも、これは俺にしか見えない)
証拠にならない。動けない。
「附則第三条に基づく手順が踏まれていないことを、委員会として正式に確認しました。補正申立書の受理については、様式審査の完了をもって判断することといたします」
ヴィールが言い終えると、オルグレンが一度だけ頷いた。
審議が続いた。テルトが附則の運用実態について条文を引いて反論した。評議員の一人が小さく顔を上げた。だがオルグレンが「内規の解釈は委員会の職権内にあります」と一言述べると、その評議員はまた視線を落とした。
「補正申立の十日以内という内規と、様式審査の三十日という条文は、どちらが優先されますか」
ガレオスが正面から問うた。声に刺はなかった。ただ、引かなかった。
「優先順位は内規に規定がありません。そのため、本来の手順である様式審査を先行させることが適当と、委員会では判断しています」
(詰まった)
今の内規解釈では、崩す手がない。向こうが解釈権を持っている以上、同じ条文の上で戦っても出口がない。
「本日の審議は以上とします。実体的な内容については、様式審査完了後に改めて場を設けましょう」
オルグレンがそう言うと、三名の評議員は短く頷いた。昨日より、一名、表情が硬くなっていた。
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副議場を出て、廊下に四人が並んだ。
夕方の光が石畳を斜めに照らしていた。冷たい風が廊下を抜けていく。
「十日以内の期限が切れる前に、手が打てない状況になりました」
ガレオスが言った。確認するように。感情なく。
ハルトは何かを答えようとしたが、具体的な言葉が出てこなかった。
「一つだけ確かめたいことがあるんだよね」
テルトがつぶやいた。
「内規より古い記録が、禁書庫の棚に別の束で残ってるはずなんだよ。前回は本文の棚だけ見て出てきちゃったから、そっちは手をつけてないんだよね」
「それで、何かが変わりますか」
「わからない。でも、今の内規が今の解釈しか許さないなら、内規より前に何があったかを調べるしかない」
「今夜、行けますか」
「当然、行くに決まってるじゃん」
テルトは短くそう言い、廊下を足早に歩いていった。
リーシャがまだ立っていた。今日の審議室で見たこと、午前中に記録管理局で読んだこと、それが頭の中で沈んでいく途中なのが、表情からわかった。
「リーシャさん」
呼びかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「今日は、辛かったですよね」
「母が経験したことが、また繰り返されていると思いました」
声は低かったが、折れていなかった。
「でも、今回は一つ違うことがあります」
「何ですか」
「今回は、ハルト様がいます。あの記録を見て黙っていられなかったガレオス様が、形式上の申立人になってくれています。母のときは、誰もいなかった」
ハルトはすぐに何も言えなかった。
「諦めるつもりはありません」
リーシャが前を向いた。まっすぐに。
ガレオスが廊下の端で、まだ立っていた。
「明日は、テルトの結果を待つ。それだけだ」
短く言い残し、先に歩いていく。
窓の外、宰相府の方角に灯りが見えた。もう点いていた。
(手がない。今日の時点では、手がない)
ハルトは廊下に立ったまま、夕暮れの光が石畳から引いていくのを見ていた。
テルトが今夜、禁書庫で何かを見つけてくれれば。
それだけが、今できる一つのことだった。
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あとがき
プチ解説コーナー
附則は現実の法律や就業規則にも存在する仕組みで、本則とは別の補足的な条文が書かれています。施行日・経過措置・例外規定などが収められており、本文だけ確認して附則を見落とすと思わぬ手続き要件を見逃します。特に長期間改定されていない規程では、使われなくなった附則条項がそのまま残っているケースがあります。実務上は「本則と附則の両方を読む」が基本ですが、この確認漏れが現場でのトラブルにつながることも少なくありません。




