第26話 内規の余白
翌朝、廊下の角からゆっくりと足音が近づいてきた。
エイラだった。右足首に白い布を巻き、それでも背筋を伸ばして歩いている。布の結び目が少し緩んでいた。
「エイラさん、今日の夜警の担当、入ってますか」
声をかけると、彼女は足を止めて振り返った。
「はい。七刻から入る予定で」
「今日は休んでください」
「……ですが、担当表には」
「担当表より先に話があります」
ハルトは昨日の審議後を思い返した。廊下の隅で、薬代が三十グラルかかったとぽつりと言っていたエイラ。見習いの日当の、半分近い金額だ。
「夜警中の怪我ですよね。業務上の負傷には補償の制度があるべきなんですが、今の聖騎士団にはそれがない。そのことを記録に残すために、申請書類を一緒に作りたいと思っています」
「申請……」
「受理されるかどうかは正直わかりません。でも記録が残れば、次に同じ怪我をした人間の役に立ちます」
「……迷惑を、かけませんか」
「かけないです」
ハルトははっきりと答えた。
「俺が動くと決めたことです。エイラさんは今日、休んでいてください」
エイラは少しのあいだ視線を床に落としていたが、小さく「はい」と言った。
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◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:エイラ(見習い聖騎士)
状態:業務上負傷(夜警中の捻挫・三十グラル自費負担)
補償措置:該当規定なし
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
(ない。やっぱりない)
スキャン結果を、ハルトは頭の中でもう一度繰り返した。
(現代なら労働者災害補償保険法が動く。医療費は全額、休業補償は賃金の八割。でもここには「業務上の負傷」という概念自体がないから、薬代を自腹で払っても誰も何も言わない。言えない仕組みになっている)
まず記録を残す。今できることはそれだけだ。
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記録管理局の扉が開く時間に合わせて、ハルトとガレオスが廊下に並んで立っていた。
申請書を出したのはガレオスだ。
「評議会内規の全文を確認したい」
担当官が分厚い文書の束を閲覧室の机に運んでくる。紙のにおいと、古い木の台のきしむ音がした。
ガレオスがページをめくる。昨日の審議で引用された条文の番号を探して、指がゆっくりと移動していく。
「……あった」
指が止まった。
ハルトは横から覗き込んだ。
評議会内規第四十七条。条文を目で追う。
女王の権限に由来する法典条文への異議申立は、主任騎士以上または女王の名代によって行わなければならない。
昨日オルグレンが読み上げた内容だ。だがその先に、続きがあった。
ただし、名誉聖騎士が補佐として連名する場合は、主任騎士一名以上を申立人として認める。
ハルトは声を出さなかった。
「ただし」がある。
オルグレンはここを読まなかった。百二十年の経歴を持つ人間が、この但し書きを見落とすはずがない。
「省略していたんですね」
「意図的かどうかはわからん」
ガレオスの声は静かだった。だが紙を持つ手が、じわりと力んでいた。
「ただ、俺が申立人に加われば話は変わる。名誉聖騎士の資格の問題はなくなる」
「ガレオスさんが形式上の申立人で、俺が連名という形なら」
「通る。問題は十日以内に動くことだ。内規上は保留から十日以内に補正が出なければ、申立は自動的に却下される」
ハルトは写しを取りながら、十日という数字を頭の隅に刻んだ。
ガレオスが書き写す作業の横で、別の台帳を引き寄せた。
「閲覧記録だ。この内規を最近確認した人間の名前が残っている」
数枚めくって、ガレオスの指が一か所で止まった。
「三日前。審議の二日前に、誰かがここに来てこれを読んでいる」
「……名前は」
「テルトだ」
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記録管理局を出て、二人は廊下でしばらく黙っていた。
テルト主任騎士。昨日の審議でハルト側の証言をした。「自分自身のためでもある」と言っていた人物だ。
「聞いてみましょうか」
「もとから聞くつもりだった」
テルトの執務室をノックすると、彼女はちょうど窓の外を向いていた。振り返って、ハルトとガレオスの顔を見て、一瞬だけ表情が動いた。
「……来ると思ってたよ」
「閲覧記録に名前があった」ガレオスが言った。「禁書庫にも入っているな」
テルトは視線を床に落として、短く息をついた。
「……三週間ほど前に入った」
ハルトは黙って聞いた。
禁書庫で見つかった二組の足跡。一つはハルトたちのもの。もう一つ、細身の革靴の跡。それがテルトだったのか。
「なぜ禁書庫に」
「私は五百年生きてる」
テルトは窓の外に目を向けた。朝の光が部屋の隅を白く照らしていた。
「その間に、評議会が条文を曲解して誰かを黙らせる場面を何度か見てきた。毎回、当事者は泣き寝入りして終わってた。私はそのたびに何もしなかった。そういうことが積み上がってるんだよ」
「百二十年前の審議も」
「議事録には別の名前が使われたけど、筆跡の癖を他の文書と照合すると、同一人物の関与がほぼ確定する。それを確認するために、禁書庫の審議草稿の原本を見に行っんだよ」
ハルトは胸の中で「自分自身のためでもある」という言葉を繰り返した。
(五百年分の見て見ぬふりを、今回だけは違う形で終わらせたかったということか)
「内規の閲覧は、昨日の審議に備えてのことですか」
「うん。第四十七条に但し書きがあることは、閲覧した時点でわかってた。オルグレンがそこを省略してくる可能性も想定してた」
「なぜ事前に俺たちに教えてくれなかったんですか」
テルトは少し苦い顔をした。
「伝えようとしたけど証言の準備のやり取りの中でタイミングを逃しちゃった。昨日の審議の場でオルグレンが但し書きを省略したとき、証言者として口を挟むのは形式上まずいと思って止まってしまった。それは私の判断ミスだね」
「わかりました。但し書きの内容は今日確認しました。補正申立の形は整います」
テルトはかすかに表情を緩めた。
「あと、禁書庫での足跡で混乱させてしまったことも、ごめんね」
「いえ」
ハルトは首を横に振った。
「テルトさんが先に確認してくれていたおかげで、俺たちも法典の状態を知ることができた。結果として助かっています」
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夕方、渡り廊下をリーシャと歩いていると、後ろからガレオスの足音が追いかけてきた。
ガレオスから近づいてくることは、ほとんどない。
「リーシャ」
名前を呼ばれて、彼女が振り返った。ガレオスは立ち止まって、何かを言うかどうか少し間を置いた。
「お前の母が、評議会の場に立ったことがある」
リーシャの耳が小さく動いた。
「百二十年前ではない。もう少し後だ。俺がまだ新人騎士だったころ。俺はその場に同席していた」
「……母が、申立を」
「法典を使って、仲間の休息申請をしようとしていた。手続きも踏んでいた。ただ、書類の様式が一か所だけ違っていた。それだけで却下になった」
廊下に夕方の光が差し込んでいた。石畳の冷たさが足元から伝わってくる。
「俺はそのとき、書き方を知っていれば教えられたのに、と思った。そのことをずっと引きずってきた」
「……ガレオス様は、その後、母と話されましたか」
「いや」
ガレオスは短く答えた。
「何を言えばよかったか、わからなかった」
三人とも、しばらく黙っていた。
リーシャが静かに言った。
「……ありがとうございます。教えてくださって」
ガレオスは何も言わずに頷いて、先に廊下を歩いていった。
(ガレオスさんは、ずっとこれを抱えてきたんだ)
ハルトは後ろ姿を見ながら思った。
(「名誉のためなら身を削るのが当然だ」という言葉の裏に、ずっとこういうものがあった)
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夜、執務室に戻ると、扉の下に小さな紙が一枚挟まれていた。
差出人の名前はない。
開いてみると、短い文章が書かれていた。
評議会への補正申立においては、申立書類の様式について様式審査委員会の事前承認を要する。審査には通常三十日程度を要する。
ハルトはもう一度読んだ。
様式審査委員会。一度も出てきていない名前だ。
(十日以内に補正申立を出さないと自動却下。しかし今度は様式審査に三十日かかると言ってくる。この二つは両立しない。どちらかが嘘か、それとも別のルールがまた持ち出されてくるのか)
窓の外で夜風が木の葉を揺らした。
ハルトは紙を机の上に置いた。
(オルグレンが「これからは表舞台に立つ」と言った。その言葉の意味が、少しずつ輪郭を持ち始めている)
調べなければならないことが、また一つ増えた。
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あとがき
プチ解説コーナー
今回ガレオスが確認した「評議会内規第四十七条の但し書き」のように、現実の労働法でも条文は全文を読まないと正確な意味がわかりません。労働基準法や労働契約法には「ただし」「この限りでない」で始まる例外規定が数多くあり、その例外を省略して引用する行為は法実務の現場では典型的な誤用のひとつです。就業規則の変更や解雇の場面では特に、会社側が本文だけを示して例外条項を伝えないケースがあります。条文番号を示されたときは、必ず自分で全文を確認する習慣が労働者にとっての防衛手段になります。




