第23話 宰相、牙を剥く
昼下がり、執務室の扉が、ノックもなく開いた。
そこに立っていたのは、白髪の老人だった。
穏やかな微笑み、遆の刻まれた顔。
だが、その目だけは、笑っていなかった。
歳を感じさせない、静かで深い色をした石だった。
ハルトは思わず息を止めた。
「オルグレン様」
リーシャの声が、緊張で硬くなる。
「突然の訪問、失礼いたします」
オルグレンの声は、丁寧で、品があった。
「反論書、拝見しました。勅命の一文まで持ち出してくるとは、思っていませんでした」
「事実を、確認しただけです」
「ええ、その通りです。よく調べられました」
オルグレンは部屋の中を、ゆっくりと見回した。
その視線が、机の上の羊皮紙の山で止まる。
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「単刀直入に申し上げます。この反論書、取り下げていただけませんか」
「理由を、伺ってもいいですか」
「評議会での審議が長引けば、団の運営にも支障が出ます。あなたのためにも、早期の解決が望ましいかと」
穏やかな声のまま、オルグレンは続けた。
「取り下げてくだされば、名誉聖騎士としての地位は、これまで通りお約束いたします」
リーシャが、思わず息を呑む音がした。
ハルトは、その提案の裏にあるものを、静かに読み取ろうとした。
(取り下げさせたいのは、地位の話じゃない)
「地位を保証していただけるのは、ありがたい話です。でも、それとこれとは別の問題だと思います」
「別の問題、とは」
「反論書に書いたのは、俺の地位のことだけじゃありません。法典そのものの有効性の話です」
オルグレンの眉が、わずかに動いた。
「隨分と、大きな話にされる」
「大きくしたつもりはありません。ただ、事実を積み重ねただけです」
「お断りします」
「……そうですか」
オルグレンの微笑みが、初めて、ほんのわずかに揺らいだ。
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「あなたは、法典の第七条をご存知でしょうか」
ハルトの問いに、オルグレンの目が細くなった。
「異議申立条項、でしたか」
「ええ。禁書庫の草稿にはありましたが、現行の法典からは削除されています」
「古い草稿です。採用されなかった条文は、いくらでもあります」
「採用されなかった、ではなく、削除された、と聞いています」
沈黙が落ちた。
オルグレンの表情から、笑みが完全に消えていた。
「……隨分と、調べられたようですね」
その声には、これまでの穏やかさとは違う、冷たい響きがあった。
「あなたが、削除に関わったんですか」
ハルトは、まっすぐに問いかけた。
オルグレンは、しばらく答えなかった。
やがて、口を開く。
「百二十年前のことです。もう誰も、覚えていないと思っていました」
それは、否定ではなかった。
「当時、私は評議会の書記官の一人でした。草稿の審議に立ち会い、その条文を残すかどうかの議論にも加わりました」
オルグレンの声は、まるで昔話でもするように、淡々としていた。
「残すべきだ、という声も、確かにありました。ですが、私はそれを退けました」
「なぜですか」
「異議申立という権利を持てば、団員は上に逆らうことを覚えます。逆らうことを覚えた組織は、統率が利かなくなる」
淡々とした語り口の奥に、確固たる信念のようなものが見えた。
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「なぜ、消したんですか」
「団の秩序のためです。名誉と献身によって成り立つ組織に、権利という概念は不要でした」
「不要、じゃなくて、不都合だったんじゃないですか」
オルグレンの目に、初めて明確な怒りに似た色が浮かんだ。
「あなたのような若造に、何がわかる」
「わかりません。でも、リーシャさんやカイルたちが、何に苦しんできたかは、わかるつもりです」
その名前を出した瞬間、オルグレンの視線が、リーシャの方へ動いた。
リーシャが、思わず身構える。
「その娘の母も、同じように、何も言わずに働き続けました。そして、それを誇りとして死んでいった」
「誇りなんかじゃない。それは、選択肢がなかっただけです」
リーシャが、思わず一歩前に出た。
「母は、誇りになど思っていなかったはずです。ただ、他に道がなかっただけです」
その声には、これまでにない強さがあった。
オルグレンは、リーシャを一瞰した。
「感情論だけでは、組織は動きません」
「感情論じゃありません。事実です。母は、限界まで働いて、そのまま倒れました」
「選択肢を与えれば、団はまとまらない」
オルグレンの声が、初めて低く、錈くなった。
「まとまりのない団は、いずれ崩れる。私は、それを防いできただけです」
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「評議会での審議、楽しみにしております」
オルグレンは、そう言って、静かに微笑みを取り戻した。
だが、その微笑みは、これまでのものとは違って見えた。
「一つだけ、申し上げておきます。私は、これまで表舞台には立ってきませんでした。ですが、これからは違います」
「それは……」
「あなたが仕掛けたのなら、私も、正面から相手をしましょう」
オルグレンはそう言い残し、静かに部屋を出ていった。
去り際、オルグレンはリーシャの方を振り返った。
「あなたの母君には、感謝しています。誰よりも、模範的な働きをされていた」
その言葉は、労いのようでいて、刃のようだった。
リーシャの拳が、きつく握られる。
足音が遠ざかるまで、誰も動けなかった。
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「大丈夫ですか」
リーシャの声で、ハルトはようやく詰めていた息を吐いた。
「はい。でも、はっきりしましたね。あの人が、法典を消した張本人だってことが」
「はい……。でも、それだけじゃありません」
リーシャの声が、かすかに震えていた。
「あの人が、これから正面から来る、と言いました」
これまでの、遠回しな圧力とは違う。
評議会という、正式な舞台での、真っ向からの対決。
執務室に戻ってきたガレオスに、今日の出来事を伝えると、彼はしばらく黙り込んだ。
「オルグレン様が、自ら乗り出してきたか」
「はい。しかも、法典を消したのは自分だと、事実上認めました」
「百二十年、隠し通してきたことを、自分から明かすとはな」
ガレオスの声には、驚きと、どこか納得したような響きが同居していた。
「それだけ、追い詰められているということかもしれん」
「追い詰められている、ですか」
「ああ。穏やかな仮面を脱いででも、確実に勝たねばならないと判断した、ということだ」
ガレオスは窓の外、宰相府の方角を見据えた。
「評議会での審議、俺たちも本腰を入れて備える必要がある」
窓の外、夕暮れの光の中で、宰相府の建物が、いつもより大きく見えた。
リーシャが、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「私も、母のような選択肢のない生き方を、他の誰かにさせたくありません」
「はい。だから、ここで退くわけにはいきません」
三人の視線が、自然と窓の外、夕焼けに染まる宰相府の方角に集まった。
(ここからが、本当の勝負だ)
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【ひとくち労務コラム】
今回オルグレンが恐れていた「異議申立条項」は、現実の労働契約法9条にある、使用者が労働者の合意なく労働条件を不利益に変更できないという原則に近い考え方です。この手の規定は、組織側からすると「秩序が乱れる」ように見えても、実際には無用な対立を減らし、話し合いのルールを整える役割を持つことが多いとされています。




