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第22話 提出という賭け

夜明け前、まだ空が薄紫色をしている時間に、ハルトとリーシャは執務室を出た。


記録管理局までは、普段なら歩いて十分ほどの距離だった。


「走りましょう」


リーシャの声に迷いはなかった。


二人は薄暗い回廊を駆け抜けた。


石畳を打つ足音が、静まり返った建物に反響する。


息が上がる。


心臓が、走る速さ以上に速く打っている。


鞄の中の反論書が、走るたびに小さく背中を叩いた。


その感触だけが、今の自分たちがやろうとしていることの重みを伝えてくる。


まだ人気のない厨房の脇を拜け、資材庫の角を折れる。


息を切らしながら、リーシャが小さく笑った。


「こんな時間に、こんなに走るとは思いませんでした」


「俺もです。でも、悪くない気分です」


恐怖と高揚が入り混じった、不思議な感覚だった。


角を曲がったところで、人影が見えた。


記録管理局の扉の前に、見覚えのある仕立てのいい服の男が立っていた。


先日、写しを渡せと迫ってきた、あの宰相府の使いだった。


「おはようございます、結城殿」


男は、扉の前を動かなかった。


「今日は、記録管理局は臨時で開局が遅れると聞いております」


「そんな話、聞いてません」


「私の方には、そう伝わっております」


やんわりとした口調のまま、男は扉に体を寄せるように立った。


明らかに、時間を稼ごうとしていた。


背後の空が、少しずつ白み始めている。


時間との勝負であることは、向こうも承知しているはずだった。


「臨時の開局遅れ、というのは、どちらの決定でしょうか」


ハルトが尋ねると、男は柔らかく微笑んだまま答えた。


「上の判断です。詳しい経緯までは、私の口からは」


「上、というのは」


「それは、追ってご説明できるかと」


のらりくらりとした受け答えが続く。


リーシャが小さく息を吸うのが、隣でわかった。


「では、いつ正式な通知が出るのか、教えていただけますか」


「それは……」


男が言葉に詰まった、その一瞬を、リーシャは見逃さなかった。


「教えていただけない、ということは、まだ通知自体が存在しない、ということでしょうか」


錈い指摘に、男の口元がぴくりと動いた。


■■■


リーシャが一歩前に出た。


「失礼ですが、正式な通知はどちらから出ているのでしょうか」


「近く、掲示されるはずです」


「今、この場にはない、ということですね」


リーシャの声は静かだったが、一歩も引かない強さがあった。


男の笑顔が、わずかに揺らいだ。


そのとき、扉の内側から鍵を開ける音がした。


記録管理局の担当官が、いつも通りの時間に顔を出す。


「おはようございます。何か、ございましたか」


「開局は、いつも通りですか」


ハルトが尋ねると、担当官は不思議そうな顔をした。


「はい、いつも通りです。臨時の変更などは聞いておりません」


男の顔から、表情が消えた。


リーシャがハルトに、素早く目配せをする。


今しかない。


「反論書の提出をお願いします」


ハルトは鞑から書類を取り出し、担当官に差し出した。


■■■


男が何か言いかけたが、担当官はすでに書類を受け取り始めていた。


「確かに、拝受いたします。受理番号は、追ってお知らせします」


「ありがとうございます」


男は、それ以上何も言わず、静かに一礼して去っていった。


その背中を見送りながら、ハルトはようやく詰めていた息を吐いた。


「危なかったですね」


「はい。あと少し遅ければ、本当に開局を遅らされていたかもしれません」


担当官が受理印を押す音が、やけに大きく響いた。


「受理番号は、三日以内に文書でお知らせします」


「ありがとうございます。よろしくお願いします」


担当官が反論書に目を通しながら、小さく眉を上げた。


「この任命記録……勅命の一文、ですか」


「はい。ご確認いただければと思います」


「これは、確かに重い記録ですね」


担当官のその一言に、ハルトは小さな手応えを感じた。


書類が担当官の手の中に消えていくのを、ハルトは最後まで見届けた。


これで、勅命の一文はもう自分たちだけのものではない。


記録として、正式な流れの中に組み込まれた。


振り返ると、宰相府の男の姿はもう回廊のどこにもなかった。


■■■


提出を終え、二人は回廊のベンチに座り込んだ。


朝日が、少しずつ空を明るくし始めている。


「これで、正式に反論書が評議会側の記録に残りました」


「はい。あとは、審査を待つだけです」


リーシャの声には、安堅と、まだ消えない緊張が同居していた。


「さっきの人、本当に開局が遅れるって信じてたんでしょうか」


「わかりません。でも、少なくとも、私たちの動きを遅らせようとしたことは確かです」


その言葉に、ハルトは今朝の出来事を反芬した。


臨時の開局遅延という、根拠のない情報。


それを信じ込ませようとする、静かな圧力。


規則にない主張には、今回も屈しなかった。


社労士試験の勉強をしていた頃、講師が言っていた言葉を思い出す。


「根拠のない指導や慣習に流されず、まず条文と事実を確認する癒をつけなさい」


異世界に来てまで、その教えに助けられるとは思わなかった。


リーシャが、ふと空を見上げた。


「朝日、きれいですね」


「本当にですね」


昨夜からの緊張が、少しずつ体からほどけていくのがわかった。


■■■


執務室に戻る途中、ガレオスが待っていた。


「提出できたか」


「はい。ぐりぎりでしたが」


「そうか」


ガレオスは短く頷いたが、表情はどこか硬かった。


「一つ、聞いておきたいことがある。さっきの宰相府の男、名は名乗ったか」


「いえ、名乗りませんでした」


「そうか……」


ガレオスの視線が、宰相府の方角へと向いた。


「あの手口、俺には覚えがある」


「覚えが、あるんですか」


「昔、似たようなやり方で、書類の受理を遅らされたことがある。あのときも、宰相府の息がかかった人間の仕業だった」


その言葉に、ハルトの背筋がわずかに冷えた。


「そのときは、どうなったんですか」


「結局、書類は握り潰された。表向きは紛失、ということになった」


「紛失、ですか」


「証拠は残らなかった。だが、動いていた人間の顔は覚えている」


ガレオスの声には、古い怒りのようなものが渙んでいた。


今回はうまくいった。


だが、同じ手口を使うということは、次はもっと確実な方法を用意してくるかもしれない。


窓の外、朝日を浴びた宰相府の建物が、いつもより静かに見えた。


その静けさが、かえって不気味だった。


そこへ、若い伝令が息を切らして駆け込んできた。


「失礼します。評議会より、書証及び反論書に関する審議が、通常より早い日程で組まれるとの報せが」


「早い日程、ですか。どれくらい早いんですか」


「詳細はまだ。ただ、異例の速さだと、記録管理局でも噴になっています」


伝令が去った後、三人の間に沈黙が落ちた。


「審議が早まるのは、悪いことなんでしょうか」


リーシャの問いに、ガレオスが低く答えた。


「早める理由が、こちらに有利とは限らん。オルグレン様が、何か仕込んでいる可能性がある」


朝の明るさとは裏腹に、胸の奥に重い予感が広がっていった。


---


【ひとくち労務コラム】


口頭でのやり取りだけに頼ると「言った言わない」の水掛け論になりがちです。今回のように、書面で正式に提出し、受理印や受理番号という記録を残すことは、後から経緯を証明する上で大きな意味を持ちます。現実の労務手続きでも、重要なやり取りはメールや書面など形に残る方法で行い、口頭の約束だけで済ませないことが、トラブル予防の基本とされています。

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