第19話 証拠という重荷
翌朝、ハルトは執務室で写し取った条文を前に、腕を組んでいた。
昨夜のうちに何度も読み返したが、答えは出ていない。
足跡の主は誰なのか。
細身の革靴。
団の支給品ではない、ということだけが確かだった。
扉が開き、リーシャが入ってくる。
昨日より、足取りがしっかりしていた。
「おはようございます。少し、調べ物をしてきました」
「調べ物、ですか。無理はしないでくださいって言ったのに」
「座ってできる範囲です。約束は守ってます」
そう言って、リーシャは一枚の紙を差し出した。
団の靴を扱う職人の名簿だった。
「支給靴は、団の指定業者からしか仕入れません。細身の革靴を履けるのは」
「団の外の人間、ってことですね」
「はい。もしくは、特別に許可された、限られた立場の方だけです」
限られた立場。
その言葉が、宰相府という単語と、自然に重なった。
「名簿にある職人は三人だけです。それぞれの納品先まで、追えるかもしれません」
「助かります。俺一人じゃ、こういう調べ物は苦手なので」
「得意な人がやればいいだけです。私は、こういう地道な調べ物は嫌いじゃありません」
リーシャの口元に、小さな笑みが浮かんだ。
以前は見せなかった、自然な表情だった。
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昔前、写し取った条文を鞑にしまい、記録管理局へ向かう途中だった。
回廊の角で、見覚えのない男に呼び止められた。
仕立てのいい服、静かな声、隣のない立ち方。
「結城殿と、お見受けします」
「そうですけど」
「宰相府の者です。少々、伺いたいことが」
男の目は笑っていたが、笑っていないのと同じだった。
「昨日、禁書庫に立ち入られたと聞きました。その際、何か書き写されたものがあれば、こちらでお頸かりできますが」
心臓が、一瞬だけ跣ねる。
(もう知ってるのか)
こういう時、相手の本音がわかるスキルがあれば、と思う。
ネゴシエイトは、まだ開放されていない。
今はまだ、相手の言葉の裏を、自分の勘だけで読むしかなかった。
「立会人はガレオスさんです。手続きは正式に踏んでます」
「ええ、存じております。ただ、禁書庫の資料は本来、記録管理局の管理下にあるべきもの。写しであっても、扱いには注意が必要です」
やんわりとした口調のまま、男は一歩だけ距離を詰めてきた。
「お渡しいただければ、こちらで正式に保管いたします」
回廊を吹き抜ける風が、二人の間を通り過ぎていく。
ハルトは鞑を持つ手に、力を込めた。
(ここで渡したら、終わりだ)
「すみません。これは俺が正式な手続きで得た写しです。渡す義理はないと思います」
「義理、ですか」
「はい。禁書庫の閲覧規則には、写しの提出義務は書かれていませんでした。もし規則にあるなら、その条項を教えてください」
男の笑顔が、わずかに固まった。
「……今すぐには、お答えできかねます」
「なら、今は渡せません。規則にない要求には従えないので」
男の視線が、ハルトの鞑にちらりと落ちた。
値踏みするような、値切るような、そんな一瞬の視線だった。
沈黙が数秒続いた。
やがて男は、静かに一礼した。
「失礼いたしました。またの機会に」
そう言って、来た方向へ戻っていく。
その背中を見送りながら、ハルトは詰めていた息を吐いた。
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「大丈夫でしたか」
物陰から見ていたらしいリーシャが、駆け寄ってくる。
「なんとか。でも、向こうはもう禁書庫の件を知ってました」
「昨日の今日で、ですか」
「はい。しかも、写しを寄越せって、かなり自然に言われました」
リーシャの表情が曇る。
「規則にない要求だったから、断れましたけど。次はもっと強く来るかもしれません」
「対策、考えないといけませんね」
「はい。あと、あの人が本物の宰相府の使いなのかも、確認しておきたいです」
リーシャが頷き、何かを思い出したように言った。
「記録管理局の受付に、宰相府から来た人の記録が残っているはずです。確認してみます」
「お願いします。俺は、写しの内容をもう一度精査してみます」
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その日の午後、記録管理局の受付でリーシャが確認した記録には、該当する人物の来訪記録がなかった。
名簿にない使者。
「正式な使いじゃない、ってことですか」
「そうとも限りません。記録に残らない立場の人間、という可能性もあります」
リーシャの言葉に、ハルトは腕を組んだ。
(記録に残らない立場。それこそ、怪しい)
執務室に戻り、写し取った条文をもう一度読み返す。
第七条、異議申立条項。
この一文が消えたことで、団の誰かが得をしている。
その誰かの手先が、今日、自分に接触してきた。
(繋がってきてる)
窓の外、宰相府の方角を見る。
灯りは、今日もまだ一つ、灯っていた。
リーシャが隣に立ち、同じ方向を見つめた。
「明日以降、また接触があるかもしれません」
「はい。次は、もう少し備えておきます」
その声には、昨日までとは違う、静かな覚惟があった。
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夜、ランプの灯りの下で、ハルトは今日の出来事を紙にまとめていた。
宰相府を名乗る男。
記録にない来訪。
写しを渡せという、やんわりとした、しかし確かな圧力。
(社労士試験のときも、似たようなことがあったな)
現代の会社でも、規則にない要求を「慣例だから」「みんなそうしているから」と押し通そうとする場面はよくあった。
そのたびに、根拠となる規則や条文を確認することが、結局は一番の防御になった。
(今回も同じだ。向こうが本当に正式な権限を持っているなら、その根拠を出せるはずなんだ)
根拠を出せない要求には、従う必要がない。
そのことを、今日は身をもって確認できた。
小さな勝利だったが、確かな手応えがあった。
扉が控えめに叩かれ、リーシャが顔を出す。
「まだ起きてらしたんですね」
「もう少しだけ。今日のこと、整理しておきたくて」
「私も、少し気になることがあって調べていました」
リーシャが手にしていた紙を机に置く。
記録管理局の職員名簿の写しだった。
「宰相府所属で、記録管理局に出入りできる立場の方は、数名に限られています。この中に、今日の方がいるかもしれません」
「絞り込めそうですか」
「時間はかかりますが、不可能ではないと思います」
リーシャの声には、以前にはなかった張りがあった。
「怖くないんですか。宰相府を相手にするの」
「怖いです。でも、このままだと、また誰かが同じ目に遡います」
だがリーシャの言葉には、まだ見ぬ誰かへの想像力が確かに湗んでいた。
見習いたちの誰かが、いつか同じような目に遡うかもしれない。
そう考えられるようになったこと自体が、出会った頃のリーシャからは想像もつかない変化だった。
「一歩ずつ、行きましょう」
「はい」
ランプの灯りが、二人の間で静かに揺れていた。
窓の外、宰相府の方角の灯りは、今夜も消えていなかった。
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翌朝、事の次第を聞いたガレオスが、執務室に顔を出した。
「宰相府の人間が、直接お前に接触したそうだな」
「はい。写しを渡せと言われましたが、断りました」
「正しい判断だ」
ガレオスは短くそう言うと、窓の外、宰相府の方角を睛むように見た。
「オルグレン様が、直接動き始めたということかもしれん」
「それは、まずいですか」
「わからん。だが、あの方が本気で潰しにかかるなら、これまでのような遠回しなやり方では済まなくなる」
ガレオスの声には、これまでにない緊張があった。
「お前の身分、名誉聖騎士という立場自体を、突いてくるかもしれん」
「俺の身分、ですか」
「名誉職という立場は、便利な分、脆い。都合が悪くなれば、取り上げるのも簡単だという意味だ」
その言葉に、ハルトの背筋が少し冷えた。
これまで、周りの誰かが危機に晴される話ばかりだった。
だが今、その矛先が自分自身に向きかけている。
「教えてくれて、ありがとうございます」
「礼はいい。ただ、次に何か言われても、慕てて渡すな。それだけだ」
ガレオスはそう言い残し、足早に去っていった。
リーシャが、その背中を見送りながら呡く。
「ガレオス様が、こんなに早く忠告に来られるなんて」
「本当に、まずい状況なのかもしれませんね」
窓の外の灯りを、二人でもう一度見つめた。
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【ひとくち労務コラム】
今回ハルトがとった「規則にない要求には従わない」という対応は、現実の職場でも応用できる考え方です。使用者の指示命令権は無限定ではなく、就業規則や労働契約の範囲内でしか行使できません。「慣例」や「口頭」だけでの要求に対しては、根拠規定の提示を求めること自体が、実務上も有効な自己防衛になります。




