第18話 先を越された書庫
朝の光が執務室の窓から差し込んでいた。
埃の粒が、光の筋の中でゆっくりと舞っている。
ハルトは机に向かい、羊皮紙の上に文字を並べていた。
「安全配慮義務、か」
現代日本で言うところの、使用者が労働者の安全に配慮する義務。
労働契約法第五条にあたる考え方だ。
体調を崩しかけている部下を放置すれば、それだけで使用者側の責任になり得る。
(この世界に、それに近い条文はあるのか)
勇者保護法典の写しを広げ、指でなぞりながら読み返す。
まだ見つけられていない。
だが、探す価値はあるはずだった。
インクの匂いと、紙の乾いた感触。
何度も読み返した条文でも、視点を変えるとまだ違う意味が見えてくる。
考えているうちに、扉が控えめに叩かれた。
「失礼します」
リーシャだった。
足取りはまだどこか慎重で、頬の血色も本調子には見えない。
「体、大丈夫ですか」
「はい。まだ本調子ではありませんが、動けます」
そう言いながらも、リーシャの目の下にはうっすらと影が残っていた。
ハルトはブラックスキャンを静かに使う。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:リーシャ
状態:疲労の蓄積、回復初期
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「回復初期、ですね。無理はしないでください」
「はい。……ご心配、ありがとうございます」
いつもの「光栄なことです」ではなかった。
素直な言葉に、ハルトは少しだけ驚く。
「ガレオスさんから、まだ返事は」
「来てません。今日中には、とは言ってましたけど」
リーシャが小さく頷いた。
「あの人は、言ったことは守ります。時間はかかっても」
窓の外を見ながら、リーシャがぽつりと付け加える。
「昏倒した日、ガレオス様が見舞いに来られたと、後から聞きました」
「え、来てたんですか」
「はい。私が眠っている間に、少しだけ」
リーシャの声には、戸惑いと、隠しきれない驚きが混じっていた。
「私、あの方にはずっと、厳しい教官という印象しかありませんでした」
「今も、それは変わらないですか」
「……わかりません。最近、少しだけ違う顔を見た気がします」
そう言って、リーシャは自分の手のひらを見つめた。
包帯はもう外れているが、指先にはまだ力が入りきらない様子だった。
「無理せず、休んでてください。今日は俺一人で動きます」
「はい。……お願いします」
素直に頷くリーシャを見て、ハルトは少しほっとした。
少し前までなら、きっと「大丈夫です」の一点張りだっただろう。
■■■
昼過ぎ、ガレオスが自ら執務室を訪ねてきた。
足音だけで誰かわかるくらい、重く、迷いのない歩き方だった。
腕を組んだまま、前置きもなく言う。
「立会人の件、引き受ける」
「本当ですか」
「一度言ったことは違えない。ただし条件がある」
「なんでしょう」
「リーシャは連れて行くな。体が本調子じゃない者を、埃だらけの地下に入れる気はない」
隣に控えていたリーシャが何か言いかけたが、ガレオスの目を見て口を閉じた。
「わかりました。俺一人で行きます」
「今からだ。記録管理局には話を通してある」
急な話に、ハルトは内心で独り言をこぼす。
(展開早いな……。でも、待つよりはいい)
立ち上がりながら、もう一つだけ尋ねた。
「一つだけ聞いてもいいですか。この前、『リーシャが次に倒れたら』って、言いかけてましたよね」
ガレオスの表情がわずかに動いた。
一瞬、何かを言いかけて、飲み込んだように見えた。
「今はその話じゃない。行くぞ」
それ以上は何も答えず、先に扉へ向かってしまう。
その背中を追いながら、ハルトは小さく息を吐いた。
(まだ、話す気はないってことか)
リーシャの視線が、去っていくガレオスの背中を、しばらく追いかけていた。
■■■
記録管理局の担当官が差し出した鍵は、思ったより小さかった。
「立会人はガレオス様。閲覧時間は一刻のみ。持ち出しは一切禁じます」
型通りの注意を読み上げる担当官の後ろで、ガレオスが黙って立っている。
禁書庫へ続く階段は、下るほどに空気が冷たく湿っていった。
石の匂いと、古い紙の匂いが混じっている。
灯りは手元の小さなランプだけで、階段の先は闇に沈んでいた。
扉は、思っていたより重かった。
蝶番が軋む音に、ガレオスがわずかに眉を寄せた。
「誰か、入ったか」
先に気づいたのはガレオスだった。
床に積もった埃に、明らかに新しい足跡がある。
二人分。
片方は、団の支給靴とは違う細身の革靴の跡だった。
ハルトはしゃがみ込み、ブラックスキャンを床に向けた。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:床の通行痕跡
状態:二週間以内、人物特定は精度不足のため不可
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「立会人の記録には、俺たちが最初のはずですよね」
「そのはずだ」
ガレオスの声が低くなる。
棚を探る。
目当ての審議草稿は、本来あるべき位置から半歩分だけずれていた。
几帳面な記録官が、こんな戻し方をするとは思えない。
草稿を開く。
紙は乾いていて、めくるたびに小さく音を立てた。
第七条、異議申立条項。
現行の法典では削除された条文だ。
ページの端に、まだ新しいインクの染みがある。
「ガレオスさん。これ、俺たちより先に誰かが読んでます」
ガレオスの表情が変わった。
普段の仏頂面ではなく、何かを警戒する目つきだった。
「宰相府の人間かもしれません」
「わからん。だが」
ガレオスが草稿を見下ろしながら、静かに続けた。
「お前が思っているより、この件は根が深いぞ」
「知ってます。だから調べてるんです」
写し取る手を止めずに、ハルトは続けた。
「第七条、異議申立条項。今の法典にはない条文です。誰かが意図的に消したものだとしたら」
「意図的、か」
ガレオスは短く呟いただけで、それ以上は言わなかった。
一刻の時間切れを告げる鐘が、扉の向こうから小さく響いた。
写し取った条文の紙を握りしめながら、ハルトは廊下へ出た。
■■■
外に出ると、日はもう傾きかけていた。
窓の外、宰相府の方角に、灯りが一つ灯っていた。
(先を越された、か)
その事実は苛立たしい。
だが同時に、この条文が今もなお誰かにとって価値がある証拠でもあった。
リーシャが、廊下の先で待っていた。
顔色は朝より、わずかによくなっている。
「どうでしたか」
「収穫はありました。でも、誰かに先を越されてたみたいです」
リーシャの表情が、わずかに硬くなる。
「それは……」
「詳しくはまだわかりません。でも、これで一つ、はっきりしたことがあります」
「はっきりしたこと、ですか」
「この条文は、誰かにとって、今も邪魔なんだと思います」
写し取った紙を握りしめたまま、ハルトは宰相府の灯りをもう一度見た。
リーシャも同じ方向へ目をやり、小さく息を吸った。
「私にも、何か手伝えることがあれば言ってください」
「はい。その時は、お願いします」
灯りは、二人が見ている間も、静かに揺れ続けていた。
■■■
その夜、執務室にひとり戻ったハルトは、写し取った条文をもう一度机に広げた。
ランプの灯りが、紙の上で小さく揺れている。
第七条、異議申立条項。
「合意なき変更命令に対し、当事者はこれを正式に異議として申し立てる権利を有する」
現代で言えば、労働条件の一方的な変更に対する異議申立の仕組みに近い。
今の法典には、この一文がない。
誰かが意図して削ったのだとすれば、それは団の誰かにとって、都合が悪い条文だったということだ。
(安全配慮義務も、この異議申立の条文も、たぶん繋がってる)
ハルトはそう独り言ちながら、リーシャの回復状況を記した紙にも目を通した。
回復初期。
昏倒するまで、彼女は誰にも助けを求めなかった。
求め方を知らなかった、と言った方が近いのかもしれない。
制度がなければ、助けを求めることさえ思いつかない。
だからこそ、条文の一つ一つに意味がある。
窓の外はすっかり暗くなっていたが、宰相府の方角には、まだ灯りが一つ残っていた。
誰が、何のために、あの部屋で夜遅くまで起きているのか。
今はまだ、わからない。
だが、先に禁書庫へ入っていたのが誰なのか、そこから辿っていけば、答えに近づけるかもしれなかった。
ハルトは写しを丁寧に折りたたみ、引き出しの奥にしまった。
机の端に置いていた、リーシャから受け取ったままの申請書の控えが目に入る。
名前だけだった欄に、少しずつ文字が増えてきている。
小さな変化だが、確かに前に進んでいる証拠だった。
明日、まずはあの足跡の主を探すところから始めよう。
そう決めて、ようやくランプの火を落とした。
【ひとくち労務コラム】
今回ハルトが考えていた「安全配慮義務」は、現実の労働契約法第5条に定められています。使用者は労働者が安全に働けるよう配慮する義務があり、長時間労働や体調不良の放置も義務違反とされ得ます。ただし配慮すべき範囲は業種や状況で解釈が分かれる部分も多く、判例の蓄積で徐々に明確化されてきた分野です。第七条の異議申立条項は法典独自の設定であり、実在法との直接対応はありません。




