第17話 鎧の裏の傷
担架を運ぶ足音が、廊下に増えていった。
カイルが先を走り、すれ違う騎士たちに声をかけながら道を開けている。
ハルトは担架の隣を歩き、片手をリーシャの肩近くに添えたまま進んだ。
何かを言いたかった。でも声が出なかった。
(俺が連れていった)
記録管理局へ同行してほしいと言ったのは自分だ。体調が落ちていることはスキャンで三日前から出ていた。それでも「隣を歩いてください」と言った。
廊下を曲がるたびに、担架の布が小さく揺れる。リーシャの目はまだ半分開いていたが、焦点が合っていなかった。
休養室の扉が見えた。
■■■
ベッドにリーシャが移され、毛布がかけられた。
年配の女性騎士が、脈を取り、額に手を当てた。
「熱はありません。疲労の蓄積です。今日と明日は絶対に動かさないでください。水は飲ませてください。食欲があれば、夕食は少量なら構いません」
「分かりました」
「異変があればすぐに呼んでください」
「はい」
女性騎士が退室すると、部屋の音が落ちた。
燭台の芯が、一度だけ爆ぜた。
カイルが扉の外で待機している。
ハルトは椅子を引き、ベッドの横に腰を下ろした。石の床の冷たさが、足裏から上がってくる。
しばらくして、リーシャの目が開いた。
「……ここは」
「休養室です。今は、何も考えなくていいです」
「何時ですか」
「昼前です」
「では、午後の点検が」
「それは俺がやります」
「手順を、勇者様はご存じではないはずです」
「カイルに教えてもらいます」
リーシャは黙った。視線が天井に向いた。
しばらく経ってから、かすかな声で言った。
「……倒れてしまいました」
「倒れました」
「格好が悪いですね」
「そう思いますか」
「思います。勇者様の前で」
ハルトは少し前に身を乗り出した。
「俺の前だから、格好悪いなんてことはないですよ」
リーシャは答えなかった。
拒絶ではなかった。ただ、返す言葉を持っていないような間だった。
灯りが揺れる音だけが、しばらく続いた。
視界の端で、ウィンドウが現れた。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:リーシャ
状態:疲労の蓄積、回復初期(詳細、精度不足のため読み取れません)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
(「限界」から変わった)
肩の力が、少しだけ抜けた。
「ガレオス様に、報告しなければなりません」
「俺が行ってきます」
「一人で行かれるんですか」
「はい」
「怒られますよ」
「知ってます」
「それでも行かれますか」
「リーシャさんが代わりに行けないので」
間があった。
「……勇者様って、不思議な方ですね」
「何がですか」
「怒られると分かっていて、向かっていく」
「怖くないわけじゃないですよ」
リーシャが、かすかに笑った。
「光栄なことです」と言う時の笑い方ではなかった。もっと前から、本人の奥から出てくる顔だった。
「行ってきてください。気をつけて」
「戻るまで、絶対に動かないでください」
「承知しました」
■■■
ガレオスの詰所は、棟の東端にある。
廊下を一人で歩いた。
リーシャがいつもここを歩いている。今更そのことに気づいた。足音が一つ分少ないだけで、廊下の幅が違って見える。
冬の気配が強くなっていた。隙間風の音が、昨日より甲高い。
扉の前で、一度息を整えた。
二度、ノックした。
「入れ」
低い声。
扉を開けると、ガレオスは机に書類を広げていた。視線だけが上がった。
「お前一人か」
「はい」
「リーシャは?」
「今日は来られません」
ガレオスの手が、書類の上で止まった。
「……来られない、とは」
「廊下で倒れました。今は休養室で安静にしています」
返答がなかった。
書類に視線が戻ったが、ペンは動かなかった。
(いつもの沈黙と違う)
いつもは、重心を下に押しつけるような圧がある。今は、何かを処理しているような間だった。
「倒れた、か」
ゆっくりと、繰り返した。
「はい」
「どこで」
「記録管理局から戻る途中です。廊下の中ほどで膝から崩れました」
「意識は」
「ありました。今も戻っています」
「熱は」
「ありません」
ガレオスは立ち上がった。
窓の方へ歩き、外を見た。背中しか見えない。
肩の幅が広い。鉄の鎧が、曇り空の光を鈍く跳ね返している。
「三日前から、スキャンで変化が出ていました。今日が一番ひどかったです」
「分かっていて、連れていったのか」
「はい」
「本人は何も言わなかったのか」
「来るなと言っても来ました。俺が用意した休暇申請書も、署名を断られました」
「断った理由は」
「『休むかどうかを決めるのは私です』と言いました」
ガレオスの肩が、ほんの少し動いた。
後ろから見ているだけでは分からないくらいの、小さな動きだった。
「……そうか」
一言だけ、落ちた。
(この人は、リーシャを知っている)
理屈ではなく、体でそう感じた。
「禁書庫の件で来たんだろう」
ガレオスが振り向いた。
「はい。立会人が決まらなければ申請が保留のまま流れます。ガレオスさんに立ち会いをお願いしたいです」
「条件は何だ」
「主任騎士以上か、学識者です」
「俺ならどちらにも当たる、ということか」
「はい」
ガレオスは腕を組んだ。
「断ることもできる」
「できます」
「頼みにくいとは思わないのか」
「思います。でも、頼まないともっと先に進めないです」
ガレオスは少しだけ目を細めた。
「今日は返事しない」
「分かりました」
ハルトは一礼した。
扉に手をかけたとき、後ろからガレオスの声が来た。
「リーシャが、次に倒れたら」
足が止まった。
振り返ると、ガレオスは腕を組んだまま、机の前に立ってこちらを見ていた。
続きは来なかった。
「……次はないようにしたいです」
「根拠は」
「今、考えています」
ガレオスはすぐに答えなかった。
「分かった。下がれ」
「失礼します」
■■■
廊下に出た。
(「リーシャが、次に倒れたら」)
言いかけて止まった言葉が、胸の中に残っている。
続きをガレオスは口にしなかった。でも問いとして出てきた以上、その先には何かある。
(心配している。それは間違いない)
口調は冷たかった。表情も変わらなかった。でも「どこで倒れたか」「熱はあるか」「意識はあるか」と、一つ一つ確認した。
あれは形式の問いではなかった。
(ガレオスと、リーシャの間に、俺の知らないことがある)
根拠はない。
でも確かにそこにある何かが、胸に残った。
石の廊下を歩きながら、ガレオスが窓の前に立っていた背中を思い返した。鎧の肩が、あの光の中で一度だけ動いた。
それが気になって、なかなか消えなかった。
■■■
夕になり、休養室に戻ると、カイルが扉の外に座っていた。
「……何してるんですか」
カイルが立ち上がった。
「中で騒がしくするのも悪くて。でも外にいれば、何かあればすぐ動けるかと思って」
「入ればよかったのに」
「……リーシャ様が眠っていたので」
ハルトはカイルを見た。
「リーシャさんの様子は」
「少し眠っていました。今は起きています。夕食を少し食べられました」
「ありがとうございます」
カイルは少し間を置いてから言った。
「勇者様。リーシャ様が無理していたこと、団の皆も気づいてたと思います」
「そうですね」
「でも、誰も止められなかった。俺も何も言えなかった」
ハルトは答えなかった。
「廊下で倒れる瞬間を見てから、ずっと考えていました。もっと早く言えてたら、って」
「カイルさん」
「はい」
「あなたが走ってくれたから、担架が来た。あなたが呼ばなかったら、俺一人だったかもしれない」
「でも、それは当然のことで」
「当然のことを、迷わずやった。それで十分です」
カイルは黙った。
廊下の端まで、夕の灯りが届かなかった。
「上がってください。明日も仕事があります」
「はい」
カイルが歩いていった。足音が廊下の角で消えた。
ハルトは扉を見た。
(ガレオスは今、何をしているか)
答えが出ないまま、扉を開けた。
リーシャが、天井を向いて横になっていた。
「カイルが来ていたんですね」
「ずっと外にいました」
「……変な子ですね」
「変じゃないです。あなたのことを、ずっと心配していました」
リーシャは黙った。
「ガレオス様は、何と」
「今日は返事しない、と言っていました」
「怒られましたか」
「怒られませんでした」
「……そうですか」
声に、少しだけ不思議そうな色があった。
「明日、動けたら教えてください」
「分かりました」
「今夜はゆっくり休んでください」
「勇者様も、お休みになってください」
扉を閉める直前に、リーシャの声がした。
「ありがとうございます」
廊下に出た。
石の床の冷たさが、靴底から伝わってくる。
明日、ガレオスが動くかどうかは分からない。
(あの人は、何かを知っている)
それが何かは、まだ分からなかった。
でも、問い続ける理由として、それで十分だった。
【ひとくち労務コラム】
ガレオスが問いかけた「本人が休むと言わなかったのか」は、労働法の重要な軸を映しています。年次有給休暇の取得は原則として労働者本人の申請によりますが、使用者には労働契約法第5条に基づく「安全配慮義務」があります。労働者が「大丈夫」と言っても、健康状態の悪化を把握していれば業務軽減などの措置を講じる義務が生じます。「本人が拒んだから終わり」ではない、というのがこの義務のポイントです。
ハルトがリーシャをどう守るかは、次話以降の焦点になります。




