第16話 本人だけの権利
夜明け前、ハルトは目を覚ました。
蝋燭に火を灯す前に、隙間風の音で気づいた。昨日より、外の風が強い。冬の気配が、少し近づいている。
上着を羽織りながら、詰所への廊下に出た。
冷えた石の匂いが鼻を突く。靴底が石を踏む音だけが、廊下に響いていた。
水滴が遠くで一度落ちる音がした。
ここ数日、毎朝のように聞こえる音だった。
角を曲がった先に、リーシャが立っていた。
いつものように、先に来ている。
でも、いつもとは違った。
壁に右手をついていた。指先が白い。肩の輪郭が、いつもより小さく見えた。
「おはようございます、勇者様」
声が、昨日より掠れていた。
「……リーシャさん」
「今朝も、起きられました」
小さく笑おうとしたが、頬が思うように動いていなかった。
(起きられた、が今日の基準になっている)
それが、もう普通ではないという証拠だった。
ハルトは近づいた。
リーシャの目の下に、濃い影があった。唇の色が薄い。立っているだけで、肩が小さく揺れている。
視界の端で、ウィンドウが揺れた。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:リーシャ
状態:疲労の蓄積、進行(詳細、精度不足のため読み取れません)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
(また「進行」だ。昨日から、止まってない)
「今日は、休んでください」
「記録管理局が開く日です。お供します」
「リーシャさんの体の方が、優先です」
「……仕事が」
「仕事より先に、体です」
「同行できないなら、せめて支援だけは」
「リーシャさん」
ハルトは、声を少し強くした。
「無理を押して支援される方が、俺は困ります」
「困らせるつもりは、ありません」
「分かってます。でも今は、困ります」
リーシャは黙った。
その沈黙が、いつもより長かった。
廊下の奥で、誰かの足音が一度だけ響いて、消えた。
窓の外、薄い光が石の床に伸び始めていた。
■■■
ハルトは資材庫に戻り、引き出しから一枚の紙を取り出した。
昨日、総務室でもらっておいた休暇申請書だった。
申請者の欄に、自分の名前を書いた。
理由の欄に「体調不良のため」と書いた。
対象者の欄に、リーシャの名前を書いた。
(これで、出せるはずだ)
社労士試験の知識が、頭の奥でちらつく。
本人の代わりに、誰かが申請を出す。会社でもよくある光景だった。上司が、部下の休みをまとめて届けることもある。試験の過去問にも、似た事例があった気がする。現場では、それで助かる人間もいる。
でも、何かが引っかかった。
(年休を取る権利は、本人にある。誰かが「取らせる」ことはできても、「取る」と決めるのは、本人だけだ)
あの過去問の答えも、結局そこに落ち着いていたはずだった。
(でも、本人が言い出せない現場だってある。それを救う仕組みも、確かにあったはずだ)
具体的な条文の数字までは、頭の中で像にならなかった。
その違和感を抱えたまま、紙を持って詰所へ戻った。
リーシャは、椅子に浅く腰掛けていた。
「これを、見てもらえますか」
紙を差し出す。
リーシャの目が、文字の上を動いた。
動きが、止まった。
「……勇者様が、書いてくださったんですか」
「はい。あとは署名だけです」
リーシャは、紙を見たまま動かなかった。
蝋燭の芯が、小さく爆ぜた。
「申し訳ありません。これは、受け取れません」
「リーシャさん」
「私の代わりに、勇者様が休みを決めることは、できません」
「体がもう、限界に近いです。それは俺にも分かります」
「それでも、休むかどうかを決めるのは、私です」
声は静かだったが、揺れなかった。
「ここで頷いたら、これまでのことが、全部嘘になる気がします」
「嘘になんて」
「ガレオス様にも、頑張りますと言いました。今、休んだら」
リーシャは言葉を止めた。
「弱いと、思われたくありません」
「リーシャさんは、十分やってきました」
「やってきたから、こそです」
リーシャは、膝の上で両手を握っていた。
「途中で倒れたら、これまでの五日間も、無理を重ねただけの話になってしまう気がします」
その一言に、ハルトは黙った。
(……そうか)
ハルトは紙を見た。
自分の字で書いた、対象者の名前。
(俺が代わりに書いても、本人が「休む」と言わない限り、これは紙のままだ)
知識があっても、決められない領域があった。
それを、今初めて思い知った。
「分かりました。署名は強制しません」
「ありがとうございます」
「でも、今日は俺の隣を歩いてください。何かあったら、すぐ言ってください」
「……承知しました」
リーシャは小さく頷いた。
その動きが、いつもより遅かった。
紙を懐にしまいながら、ハルトはもう一度、心の中で繰り返した。
(本人にしか、決められないことがある)
■■■
記録管理局は、総務室の向かいにあった。
開いた扉から、紙とインクの匂いが漂ってきた。古い羊皮紙の匂いが、その奥に重なっている。
中年の男が、机に向かって帳簿をつけていた。
「禁書庫への入室申請に来ました」
男は顔を上げ、しばらくハルトを見た。
「勇者様、ですか」
「はい」
「申請者の欄は、どなたで」
「俺です」
男はペンを置いた。
「申請者は、主任騎士以上の役職者が慣例となっております。それ以外の方の場合は、立ち会いが必要です」
「立ち会いがあれば、入室できますか」
「記録管理局の判断にはなりますが、可能性はございます」
「立ち会い者の条件は、主任騎士以上か、学識者でしたよね」
「左様でございます」
男は帳簿に何かを書き込んだ。
「申請書自体は、本日中にお預かりできます。立ち会い者が決まり次第、追記してください。期限は特に設けておりませんが、早いほど良いかと」
「立ち会いが決まらない場合は、どうなりますか」
「その場合は、保留のままとなります。年に数件、そのまま流れる申請もございます」
男の声に、特に感情は乗っていなかった。
事務的な口調が、却って状況の重さを際立たせた。
「分かりました」
ハルトは申請書を受け取り、必要事項を書き込んだ。
リーシャが、隣の椅子に腰を下ろしていた。動かずに、紙の角を見つめている。
(ガレオスに頼むしかない)
その名前を、頭の中で繰り返した。
頼めるかどうかは、まだ分からなかった。
それでも、書類に名前を書く欄だけは、確保できた。
紙を提出すると、男は小さく頭を下げた。
「受理いたしました」
(一歩、進んだ)
小さいが、確かな一歩だった。
扉を出るとき、リーシャが立ち上がる動作が、わずかに遅れた。
ハルトはそれを見ていた。
何も言わなかった。
■■■
廊下に出ると、朝の光が強くなっていた。
リーシャが、半歩後ろを歩いていた。
足音の間隔が、いつもより不揃いだった。
「申請、出せましたか」
「はい。立ち会い者が決まれば、入室できそうです」
「良かったです」
その声が、急に小さくなった。
「リーシャさん」
返事がなかった。
振り返ると、リーシャの足が止まっていた。
膝が、ゆっくりと折れた。
「リーシャさん」
ハルトは駆け寄った。
腕を伸ばす前に、リーシャの体が廊下の石に沈んだ。
意識はあったが、目の焦点が合っていなかった。
「……すみません……まだ、立てます」
「喋らないでください」
視界の端で、ウィンドウが大きく揺れた。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:リーシャ
状態:疲労の蓄積、限界(詳細、精度不足のため読み取れません)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
(限界。今度は、はっきり出た)
これまでの「継続」や「進行」とは、文字の重みが違った。
廊下の冷たさが、膝から伝わってくる。
リーシャの体を支えながら、ハルトは声を張った。
「誰か、来てください」
声が、石の廊下に響いて消えた。
■■■
足音が、複数こちらへ近づいてきた。
カイルが、先頭で駆け込んできた。
息が、すでに荒い。
「リーシャ様」
「カイルさん、人を呼んでください。休めるところに運びたいです」
「すぐに」
カイルは踵を返し、廊下の奥へ駆けていった。
その背中が、廊下の角に消えるまで、ハルトは目で追っていた。
ハルトは、リーシャの体を支えたまま膝をついていた。
(俺が今、できることは)
紙の申請書ではなく、ただ支える腕だけだった。
それが、今は妙にはっきりと分かった。
「……勇者様」
「喋らなくていいです」
「申請書、受け取れなくて、すみません」
「今、それを気にしないでください」
「……それでも」
リーシャの瞼が、ゆっくり落ちかけていた。
(本人にしか決められないことがある。それは正しい。でも、それだけで終わらせていい話じゃない)
今は、その続きを考える余裕すらなかった。
複数の足音が、廊下の角を曲がってくるのが見えた。
担架を運ぶ音が、石の壁に響いていた。
誰かが灯りを掲げ、廊下が一瞬、明るくなった。
人垣の中に、見覚えのある顔がいくつか見えた。
リーシャの腕に、ハルトはもう一度力を込めた。
冷たい石の感触が、膝の下からまだ伝わっていた。
【ひとくち労務コラム】
今回ハルトが直面したのは、年次有給休暇の「時季指定権」の所在です。労働基準法第39条では、休暇を取るタイミングを決める権利は原則として労働者本人にあり、上司が代わりに申請して休ませることはできません。一方で2019年施行の改正により、年10日以上の有給休暇がある労働者には、会社側が年5日分を時季指定して取得させる義務も新設されました。本人が言い出せない職場ほど、この制度の出番は大きくなります。
次話、倒れたリーシャのそばで、ハルトは自分の無力さと向き合います。そして禁書庫の扉の前に、新たな条件が立ちはだかります。




