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15/30

第15話 鍵番のいない朝

翌朝、ハルトは昨日より早く起きた。


蝋燭を灯す前に、窓の外を確認した。まだ暗かった。


昨日の動きを頭の中で整理しながら、上着を羽織った。副団長補佐室、書記局、総務室、書記局長補佐の部屋の前に貼ってあった紙。そして最後に、見習いから聞いた一言。


禁書庫。


廊下に出ると、石の冷気が足元から上がってきた。


詰所への曲がり角で、リーシャが先に立っていた。


「おはようございます、勇者様」


顔色が、昨日より少しだけ戻っていた。立ち方も、昨日ほど重心が後ろに落ちていなかった。


「昨日、眠れましたか」


「はい。早めに上がらせていただいたので」


「今朝、食べましたか」


「……スープを、全部飲みました」


「全部、ですか」


「はい」


一拍の間があった。


(昨日はパン一枚だった。全部飲んだのは進歩だ)


ハルトはそれ以上聞かなかった。


■■■


朝の点検が終わってから、ハルトは禁書庫の情報を集めた。


直接「知っている人はいますか」と声をかけるより、作業しながら話を引き出した方がいい。社労士試験の勉強中に職場実習で学んだ方法だった。大声で情報収集を宣言すると、相手が身構える。雑談の流れで出てくる話の方が、たいてい本当のことが混じっている。


カイルが引き継ぎ記録を棚に収めながら口を開いた。


「禁書庫って、昔は調べ物で使うこともあったって聞いたことがあります。今は入る人がほぼいないっていう話ですけど」


「場所はどこですか」


「中央棟の地下だと思います。北の回廊を端まで歩いて、階段を下りたところって……俺は行ったことないんで、確かなことは言えないですけど」


「鍵はかかっていますか」


「かかってるって聞きました。鍵番の方がいて、入室には申請がいるはずです。どこに出すのかは、俺には分からなくて」


カイルは少し首を縮めた。


「役に立てなくてすみません」


「いえ、十分です」


別の見習いが通りすがりに加わった。前の聞き取りで話してくれた、細面の人間の女性だった。


「禁書庫は記録管理局が管轄してます。確か、総務室の向かいの部屋のはずで」


「入室の申請もそこに出すんですか」


「そうだと思います。ただ、記録管理局は週三日しか開いてないって話で。月水金の、午前中だけ」


「今日は何曜ですか」


「火曜です」


(明日が水曜か)


「ありがとうございます」


日が高くなるまで、断片的な情報が少しずつ集まってきた。


禁書庫には過去の申請書の原本がある。評議会が承認した規則の記録も保管されているらしい。書記局を通らない別のルートを探すなら、過去の書類を参照することで申請者の条件が分かる可能性があった。


(そして、禁書庫には勇者保護法典に関係する記録があるかもしれない)


それは昨日、壁に手をついたまま考えたことだった。法典の原本か、評議会の議事録か、何が眠っているかは分からない。でも、何かはあるはずだった。


■■■


昼前に、書記局長補佐の部屋へ向かった。


昨日と同じ廊下を歩いた。昨日と違うのは、扉に紙が貼っていなかったことだった。


ノックすると、「どうぞ」という声が返ってきた。


部屋に入ると、三十代前半に見える女性が机に向かっていた。細い眼鏡をかけていて、ペンを持ったまま顔を上げた。昨日の副団長補佐より表情が動いた。少なくとも、こちらを見る目に意思があった。


「昨日いらしたとお聞きしました、勇者様」


「申請者の条件と、禁書庫への入室についてお伺いしたいことがあって」


「申請者については、正式な職責を持つ者でなければなりません。実務上は、主任騎士以上の役職者が申請者となるのが慣例です」


「主任騎士以上、ですか」


「はい。申請書の様式はこちらで発行しています」


女性はペンを机に置いた。


「禁書庫への入室についても聞けますか」


「禁書庫は記録管理局の管轄で、入室には別途申請が必要となります。ただし」


声のトーンが、少しだけ変わった。


「記録を閲覧する目的であれば、主任騎士以上か、団に登録された学識者の立ち会いがある場合に、入室が認められるケースがあります」


「立ち会い、ですか」


「はい。記録管理局の判断次第にはなりますが」


「記録管理局は明日の午前に開きますか」


「月水金の午前が開局です。明日は水曜ですので、開いています」


「立ち会い者の条件を、もう一度確認させてください」


「主任騎士以上か、団に登録された学識者です」


ハルトは立ち上がりながら礼を言った。


廊下に出ると、石の冷気が頬に当たった。


(ガレオスが立ち会い者になれるかもしれない。でも、頼めるかどうかは別の話だ)


まず明日、記録管理局で申請を出す。それが最初の手順だった。


■■■


午後、詰所に戻ると、リーシャが廊下の壁に手をついて立っていた。


昨日と同じ姿勢だったが、今日の方が重心が低かった。足が、ごくわずかに広がっていた。


「リーシャさん」


「……申し訳ありません。少し、立ちくらみが」


「今日で何回目ですか」


「今日は……二回目、です」


(増えている)


ハルトは近づいた。顔色が白かった。唇に血の気が薄い。朝より明らかに悪くなっていた。


視界の端で、ウィンドウが揺れた。


◆◆◆スキャン結果◆◆◆


対象:リーシャ


状態:疲労の蓄積、進行(詳細、精度不足のため読み取れません)


◆◆◆◆◆◆◆◆◆


(昨日は「継続」だった。今日は「進行」だ)


状態が変わっていた。


「座ってください。水を持ってきます」


「少し待てば落ち着きます」


「座ってください」


リーシャは黙って椅子に腰を落とした。両手がテーブルの端をそっと掴んでいた。


水を持ってきて渡した。リーシャは両手で器を受け取り、ゆっくりと飲んだ。


「……ありがとうございます」


「明日、記録管理局に行きます。禁書庫への入室申請を出しに」


「私も参ります」


「今日の状態で、一日動けますか」


リーシャは黙った。


少し間があってから、答えた。


「……判断が、つきかねます」


今まで「大丈夫です」と返していた人間が、「判断がつかない」と言った。


(正直に言えるようになっている)


ハルトはそのことに気づいていた。


「明日の朝の状態で判断してください。俺が行ける分は行ってきます。動けそうなら、一緒に行きましょう」


「……承知しました」


リーシャは短く頷いた。その動作が、朝より重かった。


■■■


夜、ハルトは一人で北の回廊へ向かった。


地図はない。カイルから聞いた話を手がかりに、廊下の先へ歩いた。松明の灯りが届かない場所に入ると、天井から水が染み出す音がした。石の匂いが変わった。古い埃と湿り気が混ざった匂いだった。


廊下の突き当たりに、下へ続く階段があった。踏み板の石が、上の廊下より一段分分厚かった。年数の違いが、石の色に出ていた。


降りた先に、大きな扉があった。


木と金属で作られていた。表面に金属の帯が横に何本か渡されていて、鍵穴がひとつ。


扉の横に、小さな木の棚があった。記録用と思われる紙とインク壺が置いてある。棚の前の石の床に、薄く埃が積もっていた。人が来た形跡はあった。最近ではないが、まったくないわけでもなかった。


ハルトは扉の前に立って、蝋燭を掲げた。


扉の上部に、小さな紙が貼ってあった。


近づけて読むと、字が見えた。


「開錠時間 未明四刻・夜明け八刻 以外は施錠」


(四刻と八刻の間は開いている?)


日の出から逆算すれば、夜明けの八刻は朝六時前後だった。未明の四刻は深夜の三時頃。その間、二時間から三時間のどこかに鍵番の交代があるはずだった。交代のタイミングで、短い時間だけ扉の前が無人になる可能性があった。


あくまでも可能性の話だったが。


(公式ルートが通るなら、そっちがいい。でも通らなかった場合の話だ)


蝋燭を下げると暗闇が戻った。水の音が、また耳に入ってきた。


ハルトは踵を返した。


階段を上がりながら、明日の段取りを整理した。記録管理局が水曜の午前に開く。そこで申請を出す。入室を認めてもらえれば、禁書庫の記録を調べられる。認めてもらえなければ、別の方法を考えるしかない。


廊下の角を曲がったところで、足が少しだけ止まった。


(リーシャの体が、明日まで持つかどうかも分からない)


「判断がつかない」という答えが、頭の端でもう一度鳴った。


今まで「大丈夫です」しか言わなかった人間の言葉だった。だからこそ、重かった。


蝋燭の炎が、廊下の空気に揺れた。


明日の朝まで、待つしかなかった。

【ひとくち労務コラム】


今回は「就業規則の変更申請と申請者の要件」についてです。職場の慣行を制度として定着させるには、就業規則の変更手続きが必要になる場合があります。労働基準法第89条では常時10人以上の事業場に就業規則の作成・届出を義務付けており、第90条では変更時に労働者代表の意見書添付が求められます。「誰が変更を申請できるか」という点は異世界でも現実でも同じように壁になります。慣行を変えたいとき、最初に申請者の条件を確認しておくことで、後からの手戻りと余計な奔走を防げます。改善したい内容より先に「手続きの入り口」を調べる順序が、実務では意外と重要です。


次話、記録管理局が開く。ハルトは禁書庫への入室申請に挑む。リーシャの体に、新たな変化が訪れる。

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