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第14話 扉のない壁

翌朝、ハルトは夜明け前に起きた。


蝋燭を灯すと、石の天井に影が揺れた。


昨日着た上着を羽織る。汗の残り香と、古い石の埃が混ざった匂いがした。


詰所へ向かう廊下で、リーシャが先に立っていた。


「おはようございます、勇者様」


「早いですね」


「いつもの時間です」


ただ、立ち方が違った。


壁には触れていない。けれど、重心が少しだけ後ろに落ちていた。足の置き方が、ごくわずかに慎重だった。


「今朝、食べましたか」


「少し、いただきました」


昨日と同じ答えだった。


「少し、か」


「昨日より食べました。パンを一枚」


「昨日は半分でしたか」


「……一枚分から少し欠けたくらいです」


一拍の間があった。


ハルトはそれ以上聞かなかった。


(今日は別のことをやる)


「申請権限を持つ人を探しに行きます。評議会に書類を出せる立場の方です」


「副団長補佐の方が、制度まわりに詳しいと聞いたことがあります」


「場所を教えてください」


■■■


副団長補佐室は、主棟の三階にあった。


廊下の静かさが、見習い区画のそれとは違った。


足音が壁に染み込むように消えていく。


朝の光が細い窓から斜めに差し込んでいて、石の床に長い影が伸びていた。


ノックをすると、「どうぞ」という平坦な声が返ってきた。


部屋の中央に、五十がらみの男が座っていた。


髪に白いものが混じり、書類の束を丁寧に整えていた。顔を上げると、こちらを見ても表情が動かなかった。


「勇者様でいらっしゃいますか」


「はい。手続きのことで伺いたいことがあって」


「手続き、ですか」


男は一拍置いた。


「評議会への申請についてです。引き継ぎ手順の改善を、正式な規則として団全体に定めたいと思っています。申請書を出すためにはどこへ行けばいいか、教えていただけますか」


男はペンを机に置いた。


「評議会への申請となりますと、私の所管外でして」


「所管外、ですか」


「はい。書記局の担当になります。東棟の二階に、書記局長補佐の部屋がございます」


書記局。初めて聞く名前だった。


「今日、行けますか」


「今週は別の件で立て込んでおると聞きました。来週以降がより確実かと存じます。申請書の様式も書記局が管理しておりますので、様式を取り寄せることからお始めになるのがよろしいかと」


「申請者になれる立場の条件も、書記局で教えてもらえますか」


「それも書記局の担当かと存じます」


男は最後に付け加えた。


「それと、東棟への通行には許可証が必要です。総務室で申請できます。西棟の一階です」


男の顔は、最初から最後まで変わらなかった。


冷たいのとも違う。ただ、平らだった。


(情報は渡す。手は貸さない。そういう人間だ)


ハルトは礼を言って、部屋を出た。


廊下に出ると、石の冷気が首筋に来た。


■■■


総務室は西棟の一階にあった。


主棟を出て、渡り廊下を歩いた。


廊下の端から冷気が吹き込んでくる。足先に来た。


廊下の石は、見習い区画より細かく磨かれていた。靴音が少し違う音を立てた。


総務室で申請書をもらい、必要事項を記入した。


申請者名、用件、訪問先、訪問理由。四項目を書くだけで、紙一枚が埋まった。


「確認に時間がかかるため、午後の受け取りになります」


(午前中は終わった)


渡り廊下に戻ると、陽がようやく高くなり始めていた。


手のひらを石の手すりに乗せると、ひんやりしていた。


待つしかなかった。


待っている間、頭の中で今日の動きを整理した。


副団長補佐は書記局を指定した。


書記局は来週まで対応できない可能性がある。


書記局へ行くには許可証がいる。


許可証は今日の午後に出る。


(段階がいくつ重なっているんだ)


昼を過ぎて戻ると、許可証は用意されていた。


東棟の二階へ向かった。


書記局長補佐の部屋の前に立つと、扉の横に小さな紙が貼ってあった。


「本日業務終了」


ハルトはその紙をしばらく見ていた。


窓の外、夕焼けが空の端から差し込み始めていた。


(来週が確実、と言われた日の前日でも「業務終了」か)


偶然かもしれない。


そういうものかもしれない。


どちらか分からないのが、一番きつかった。


■■■


詰所に戻ると、リーシャが壁に背を預けて立っていた。


正確には、寄り掛かっていた。


片足の重心が、ほんのわずかに後ろへ逃げていた。


目の焦点が、一瞬だけ遠いところを向いていた。


「おかえりなさいませ。どうでしたか」


「会えませんでした。明日また行きます」


リーシャは短く頷いた。


その動作が朝より少し遅かった。


「昼は食べましたか」


「はい。スープとパンを」


「今朝より食べましたか」


「はい」


一拍の間。


「食べました」


今度は、一拍なかった。


(どちらが本当なのかは、聞かなくていい)


視界の端で、ウィンドウが揺れた。


◆◆◆スキャン結果◆◆◆


対象:リーシャ


状態:疲労の蓄積、継続(詳細、精度不足のため読み取れません)


◆◆◆◆◆◆◆◆◆


(昨日は「確認」だった。今日は「継続」だ)


止まっていない。


それだけが分かった。


「夕の点検と記録の整理、今日は俺がやります。上がっていてください」


「まだ夕の仕事が」


「だから俺がやります、と言いました」


リーシャは何も言わなかった。


廊下の奥から、遠い足音が来ては消えた。


「……ありがとうございます」


声が出るまでに、少し間があった。


リーシャは壁から離れた。


ゆっくりと、けれど確かな足取りで廊下を歩いていった。


その背中が、朝より一回り小さく見えた。


(明日、絶対に書記局長補佐に会う)


■■■


夕の点検は、三十分で終わった。


引き継ぎ紙が一枚に収まり、異常報告も全員が短く済ませた。


五日前の詰所とは、別の場所みたいだった。


カイルが最後に確認のサインを入れた。


「リーシャ様、今日はいらっしゃらないんですね」


「体を休ませてもらっています」


「……そうでしたか」


カイルは紙を手に持ったまま、視線を少し落とした。


「五日間、ずっと付き合ってくださっていましたから。俺たちの引き継ぎのために」


「そうですね」


「早く良くなられるといいですね」


カイルはそれだけ言って、棚に紙を収めた。


以前なら言えなかっただろう一言だった。


ハルトは外に出た。


夜の冷気が頬に当たった。


(申請権限を持つ人間が見つからない。リーシャの体が持つかどうかも分からない)


どこへ行っても、書類を受け取る手が現れなかった。


廊下の角を曲がったところで、人影が止まった。


小柄な見習いで、腕に書類を抱えていた。


夜警の引き継ぎで見たことのある顔だった。


「あの……勇者様」


「はい」


「申請のことで書記局を探していらっしゃいますか。朝、東棟の方に向かっているのを見かけて」


ハルトは向き直った。


「知っていたんですか」


「詰所でのことが少し広まっていて。申請権限を探しているということも、皆、知っていました」


見習いは書類を胸に抱え直した。


「役に立てるか分からないんですが。去年、前の主任騎士の方が団の古い記録を調べるために禁書庫へ行った、という話を聞いたことがあって」


「禁書庫?」


初めて聞く言葉だった。


「はい。古い申請書の原本とか、評議会が承認した規則の記録が保管されているって聞きました。どんな形式の書類が使われたか、誰が申請者だったか、過去の記録が残っているんじゃないかって。書記局を経由しない別のルートになるかどうかは分からないんですが」


見習いは少し首を縮めた。


「どこにあるか、誰でも入れるか、そのあたりは全然分からなくて。申し訳ありません」


「いえ、ありがとうございます。かなり助かりました」


見習いは小さく頭を下げて、廊下の奥へ消えた。


ハルトは壁に片手をついた。


(禁書庫か)


正面の入り口が塞がれているなら、別の場所から探すしかない。


過去の申請書があれば、形式も、申請者の条件も、何かが見えてくるはずだった。


(それに、禁書庫には勇者保護法典に関係する記録がある可能性もある)


そう気づいたとき、頭の中で何かが繋がった。


法典の原本。評議会の議事録。申請権限者の一覧。


何が眠っているか、今は分からない。


夜の廊下は、ひっそりと静まっていた。


石の壁が冷たかった。


(リーシャが動けなくなる前に、入り口を見つけないといけない)


灯りの届かない廊下の先を、ハルトはしばらく見ていた。


【ひとくち労務コラム】


今回は「慣行と規則の違い」についてです。職場の改善が定着しても、就業規則や社内規程として明文化されていなければ、担当者が変わるタイミングで崩れやすいのが現実です。現行の労働基準法89条では、常時10人以上を使用する事業場には就業規則の作成・届出が義務付けられており、変更には労働者代表の意見書も必要です。「みんな納得しているから大丈夫」という慣行は、記録と手続きが伴って初めて制度としての強さを持ちます。変えたいことがあるとき、最初に申請者の条件を確認しておくことが後の手戻りを防ぐ実務の基本です。


次話、禁書庫の場所を探るハルト。そしてリーシャの体に、新たな問題が静かに浮かびあがります。

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