第12話 引き継ぎという賭け
詰所の壁に貼られた当番表の前で、ハルトは羊皮紙を握っていた。
朝の冷気が、まだ廊下に居座っている。
墨の匂いと、湿った石壁の匂いが混ざっていた。
当番表には、見習いと正騎士の名前が、所狭しと並んでいる。
「今夜、これで試してみたいんですけど」
ハルトが示した紙には、簡単な手順が書かれていた。
「引き継ぎの報告、一人ずつ声に出すのをやめて、紙に一言書くだけにします」
「異常があったときだけ、声で伝える形にします」
リーシャが、隣で頷く。
「待ち時間そのものが、減るはずです」
集まった夜警の面々が、紙を覗き込む。
カイルの顔に、わずかな期待が浮かんでいた。
「本当に、それだけでいいんですか」
「やってみないと分からないので。だめなら、すぐ戻します」
若い見習いの一人が、小さく手を挙げた。
「あの、書くのが苦手な者もいるんですが」
「短い一言で大丈夫です。丸とか、印だけでも構いません」
「それなら、なんとかなりそうです」
そこに、年配の正騎士が口を挟んだ。
「勇者様。長年のやり方を、思いつきで変えるのは、いかがなものか」
「思いつきというより、カイルさんが見つけた問題点です」
「カイルが、ですか」
正騎士の視線が、カイルに向く。
カイルの肩が、一瞬だけ強張った。
それでも、目はそらさなかった。
「……はい。私が、気づきました」
正騎士は、低く唸るように息を吐いた。
「報告を削って、見落としが増えたらどうする」
「異常があれば声で伝える、というところは変えません。減らすのは、異常がないときの待ち時間だけです」
リーシャが、静かに付け加える。
「一晩だけ、試させてください。元に戻すことも、いつでもできます」
正騎士は、しばらく黒目を細めていた。
「……まあ、一晩くらいなら、構わんだろう」
「ありがとうございます」
「礼はいい。結果で見せてもらう」
そう言って、正騎士は当番表に向き直り、自分の名前の欄を指でなぞった。
カイルが、その背中に小さく頭を下げる。
「カイルさん、自分の案、最後まで言えてよかったですね」
「……はい。前なら、ここで黙っていたと思います」
その一言に、リーシャの耳がわずかに動いた。
「成長というのは、こういう小さな積み重ねなのかもしれません」
その言葉に、その場の空気が少しだけ動いた。
(これ、思ったより緊張する)
ハルトは、紙を握る手にわずかに力を込めた。
■■■
夜、詰所の灯りの下に、当番が次々と集まってきた。
蝋燭の芯が爆ぜる音が、静かな部屋に響く。
これまでは、一人ずつ立ち上がり、見たもの聞いたものを、細かく順番に話していた。
四半刻近くかかる、その時間がそのまま、次の当番の休息を削っていた。
今夜は違う。
紙とインクが、机の上に並んでいる。
「異常なし、ですね」
一人が紙に短く書き、机の端に置く。
次の人が、すぐに紙を取り、自分の分を書き加える。
声を出すのは、何かあったときだけだった。
「東の見張り台、扉の蝶番が緩んでます」
それだけ言うと、その人物はすぐに次の人に場所を譲った。
続く一人も、紙に何かを書き留めながら、ぼそりと付け加える。
「裏の井戸、水音がいつもより大きい気がします。たぶん、気のせいですが」
「気になるなら、それも書いておいてください。後で見ておきます」
途中、若い見習いが紙に書くのを忘れ、慌てて戻ってくる場面もあった。
「すみません、書き忘れてました」
「大丈夫です。今からでも、書いておいてください」
小さな抜けは、すぐにその場で拾われた。
蝋燭の芯が、まだ半分以上残っている。
リーシャが、その様子を見つめていた。
「……早いですね」
「はい。これ、結構効いてる気がします」
カイルが、紙を渡しながら小さく息を吐いた。
「前は、ここでまだ三人目の話を聞いてるところでした」
「今は、もう全員終わってますね」
「はい。何も、言えなくなるくらい、あっさりでした」
カイルの声に、わずかな笑いが混じった。
リーシャが懐から、別の紙を取り出す。
これまでの引き継ぎにかかった時間を、蝋燭の長さで記録した一枚だった。
「比べてみると、半分以下になっています」
「半分以下って、結構な数字ですよね」
「はい。正直、ここまで変わるとは、思っていませんでした」
ハルトは、その紙をもう一度見つめた。
(人数は増えてない。やり方を変えただけで、こんなに違うのか)
社労士試験の参考書にあった「業務改善」という言葉が、今になって実感を持って迫ってきた。
現代でも、人を増やす予算がないまま、やり方だけで何とかしている現場をいくつも見てきた。
それと同じことが、こんな世界でも起きるとは思っていなかった。
机の上には、まだ短くなった蝋燭が、静かに灯っている。
最後の一人が立ち上がり、わずかに伸びをした。
「今日は、まだ眠れる時間がある気がします」
その一言が、誰よりも今夜の結果を表していた。
■■■
その翌朝、訓練場にガレオスが姿を見せた。
朝の空気に、まだ夜露の匂いが残っている。
「報告は受けた。半分以下、というのは本当か」
「はい。記録、ここにあります」
ハルトが差し出した紙を、ガレオスは黒目だけで一度なぞった。
「人数を増やさず、これだけ削れたか」
「カイルさんの案です。俺たちは、ただ試しただけです」
ガレオスは、ふっと短く息を吐いた。
「一晩の結果だ。続けられるかは、まだ分からん」
「それは、これから確かめます。今夜も、続けるつもりです」
「……お前、本当に粘るな」
そう言ったあと、ガレオスの表情が、わずかに硬くなった。
「オルグレン様から、話があった」
リーシャの耳が、ぴくりと動く。
「どんな、お話でしょうか」
「期限の最終日、自ら見に来ると仰っていた。記録も、直接、目を通したいそうだ」
「オルグレン様が、直接」
「これまでは、遠目に見ていただけだったはずだ」
ガレオスは、短く頷いた。
「俺にも、理由は話されていない」
「……何か、まずいことになりそうでしょうか」
リーシャの声に、わずかな硬さが滲んだ。
「分からん。だが、軽い気持ちで来るような方ではない」
場の空気が、一段冷たくなった気がした。
(遠くから見てた人が、いきなり目の前に来る)
それが、何を意味するのか、まだ分からない。
それでも、嫌な予感だけは、はっきりしていた。
「残り、二日だ」
ガレオスは、それだけ言って踵を返した。
その背中を見送りながら、ハルトは紙を握り直す。
「リーシャさん、最終日、ちゃんと数字も記録も、整えておきましょう」
「はい。見せても恥ずかしくないものに、しておきたいです」
■■■
夜、資材庫の灯りの下、ハルトとリーシャは紙の束を整理していた。
蝋燭の匂いに、古い紙の匂いが混ざっている。
視界の端で、ウィンドウが淡く揺れた。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:夜警引き継ぎの手順(簡略化後)
状態:負荷の軽減、確認(経験値が、わずかに蓄積されました)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
(前より、ちょっとだけ、文字がはっきり見えた気がする)
精度は、まだ低いままだった。
それでも、見え方が少し違っていることに、ハルトは気づいていた。
(レベルが上がったわけじゃない。でも、何も変わってないわけでもない)
小さな変化でも、積み重ねれば見え方は変わる。
社労士試験のときも、似たような実感を何度か味わった気がする。
「リーシャさん、オルグレン様が来るって、結構大きい話ですよね」
「はい。今までとは、重みが違う気がします」
リーシャは、休息申請書を懐から取り出した。
所属と名前だけが書かれた、あの一枚だった。
「私も、ここに書いてみようと思います」
「書く、というのは」
「希望する休みの日です。まだ、迷っていましたが」
羽根ペンの先が、紙の上で少し迷ってから、文字を刻んでいく。
「……書けました」
紙には、たった一行だけ増えていた。
それでも、ハルトには、その一行がとても大きく見えた。
「リーシャさん、それ、結構な進歩だと思います」
「……はい。自分でも、少し驚いています」
「他の正騎士の方々にも、いつか同じことができたらいいですね」
「はい。まずは、私からです」
リーシャは、紙を懐にしまいながら、小さく息を吐いた。
「カイルも、今日は前より声が出ていました」
「リーシャさんが、最初に話を聞いてあげたからだと思います」
「……そう言ってもらえると、少し救われます」
夜風が、資材庫の隙間から、静かに流れ込んでくる。
残り二日。
削れる場所は、まだ見つかるかもしれない。
だが、オルグレンが直接動くという話は、これまでとは違う重さを持っていた。
紙の束を抱え直しながら、ハルトは小さく息を吐いた。
(オルグレンさんが直接来るってことは、たぶん見てるだけじゃ済まない)
何を見られて、何を聞かれるのか、想像してもはっきりした答えは出てこない。
それでも、隠すものは何もなかった。
「リーシャさん、最終日、ちゃんと形にしましょう」
「はい。ここまで来たので、後には引けません」
蝋燭の灯りが、二人の影を壁に長く伸ばしていた。
【ひとくち労務コラム】
今回ハルトたちが削ったのは、引き継ぎを待つだけの時間です。指揮命令下に置かれていて自由に使えない待ち時間は、労働時間に含まれると考えられています。最高裁判例(大星ビル管理事件)でも、業務に拘束された不活動時間は労働時間に当たると判断されました。実務では待機時間を無給扱いにしている現場もありますが、実態次第で労働時間と判断される場合があります。人を増やせなくても、待たせる時間そのものを削ることは、立派な労務改善の一手になり得ます。
次話、いよいよ最終日。オルグレン自身が姿を見せるという、これまでにない緊張の中、五日間の挑戦は結末を迎えます。




