第九話 大江山へ
第三章 犬・忠義の章
第九話 大江山へ
桃華と金時は、並んで山道を進んでいた。
金時の歩幅は大きい。
本人は桃華に合わせているつもりらしいが、一歩ごとにぐんぐん先へ進んでしまう。
「金時さん、少し待ってください」
「む?」
振り返った金時は、桃華との間がすっかり開いていることに気づき、豪快に笑った。
「すまん、すまん。急ぐ癖が抜けんでな」
「仲間の方々に追いつきたいのは分かりますけど」
「なにせ、頼光様を待たせておるからのう」
「頼光様?」
「わしの主よ。源頼光様と申す」
その名を口にしたとき、金時の表情がわずかに引き締まった。
先ほどまで、きびだんごを頬張って喜んでいた男と同じ人物とは思えない。
そこには、主君への深い敬意があった。
「立派な方なのですね」
「うむ」
金時は一度、大きく頷いた。
「武勇に優れ、知略にも富み、それでいて弱き者を見捨てぬ御方じゃ。わしが命を預けるに足る、ただ一人の主よ」
その言葉を聞き、桃華は旅立ちの日に受けた神託を思い出した。
――犬、すなわち忠義。
金時が犬の姿をしていないことなど、もはや問題ではなかった。
この男の中には、確かに揺るがぬ忠義がある。
「どうした?」
「いえ。あなたに出会えた理由が、少し分かった気がします」
「妙な娘じゃのう」
金時は笑い、再び前を向いた。
しばらく進むと、山道の先に小さな集落が見えてきた。
だが、そこには人の営みを感じさせる声がない。
畑には鍬が放り出され、家々の戸は固く閉ざされている。
道端にいた老人が、二人の姿を見るなり慌てて家の中へ逃げ込んだ。
「様子がおかしいですね」
「鬼の噂が広まっておるのじゃろう」
金時は眉をひそめた。
二人が集落の中を進んでいると、一軒の家からすすり泣く声が聞こえてきた。
戸口の前には、千切れた赤い組紐が落ちている。
桃華がそれを拾い上げると、戸がわずかに開いた。
中から顔を出したのは、疲れ切った表情の女だった。
「その紐は……こちらの物ですか?」
女は震える手で組紐を受け取る。
「娘の物です」
「娘さんは?」
「昨夜、さらわれました」
声を絞り出すと、女はその場に崩れ落ちた。
「物音がしたと思ったら、屋根の上に大きな影が……。追いかけたけれど、わたしには何もできなくて」
桃華は女の傍らへ膝をつく。
「どちらへ向かったか、分かりますか?」
女は山の向こうを指した。
「大江山です」
「やはりか」
金時の声が低くなる。
「その鬼は、若い娘ばかりをさらっていくと聞いておる。名は酒呑童子」
「酒呑童子……」
桃華は、その名をゆっくりと繰り返した。
朱天ではない。
少なくとも、金時の追う「しゅてん」は、そのような字を書くらしい。
だが、同じ呼び名を持つ以上、無関係とは言い切れない。
「わたしも行きます」
桃華の言葉に、女が顔を上げる。
「娘さんを、必ず連れ戻します」
「しかし……」
女は桃華の細い身体を見つめた。
「あなたまで、さらわれてしまったら……」
「大丈夫です」
桃華は腰の聖剣へ手を添える。
「私は、鬼から逃げるために旅をしているのではありません」
金時は何も言わず、桃華の横顔を見ていた。
やがて、満足そうに笑う。
「よし。急ぐぞ」
二人は集落を後にした。
◇
日が傾き始めた頃。
山中の古びた社の前で、三人の武者が待っていた。
一人は大柄な身体に豪壮な髭を蓄えた男。
一人は鋭い眼光を持つ痩身の武者。
もう一人は、弓を携えた物静かな男。
「遅いぞ、金時」
髭の男が呆れたように腕を組む。
「済まぬ、綱。頼まれていた用は果たしたぞ」
「それはよいが、その娘は誰だ」
渡辺綱と呼ばれた男の視線が、桃華へ向けられる。
「道中で拾った」
「拾われてはいません」
桃華が即座に訂正すると、金時は声を上げて笑った。
「冗談じゃ。こちらは桃華殿。わしらと同じく、しゅてんを追っておる」
「同じく?」
痩身の武者が目を細める。
「酒呑童子を?」
「それは、まだ分かりません」
桃華は正直に答えた。
「私が追っているのは、朱天という神です」
三人の武者の間に、わずかな沈黙が流れた。
「神、だと?」
弓を持つ男が静かに問い返す。
「はい。暁を司る化身でした」
「ずいぶんと途方もない話を持ち込んだものだ」
渡辺綱は警戒を隠そうともしなかった。
「そのような娘を、なぜ連れてきた」
「この娘は強い」
金時は迷いなく答える。
「それに、攫われた者を救いたいという気持ちは、わしらと同じじゃ」
「強いかどうかは、お前の勘か」
「うむ」
「相変わらず当てにならん」
「だが外したこともなかろう」
金時は胸を張った。
綱は深いため息をついたが、それ以上は言わなかった。
そのとき、社の奥から足音が聞こえた。
現れたのは、白い狩衣をまとった男だった。
年の頃は四十ほど。
穏やかな顔立ちをしているが、その眼差しには人を従わせる静かな力があった。
三人の武者と金時が、一斉に姿勢を正す。
「頼光様」
源頼光。
金時が命を預けると語った主君。
頼光は金時へ頷いた後、桃華を見た。
「事情は聞こえていた」
その視線が、桃華の腰にある聖剣へ移る。
「不思議な気を宿した剣だ」
桃華は思わず柄へ手を添えた。
「これは、大切な友が打った聖剣です」
「そうか」
頼光はそれ以上を尋ねなかった。
「我らの目的は、酒呑童子にさらわれた者たちを救うこと。そして今後、都や里を襲わせぬことだ」
「私も同じです」
「ならば、力を借りよう」
あまりにあっさりと受け入れられ、桃華は目を瞬いた。
頼光はわずかに笑う。
「金時が人を見る目だけは、信じている」
「だけは、とは何ですかな」
「食い物を見る目まで信用してはおらぬ」
「これは手厳しい」
金時は頭を掻く。
桃華の口元にも、自然と笑みが浮かんだ。
「我らはこれより山伏に姿を変え、大江山へ入る」
頼光は社の中に用意された装束を示した。
「正面から攻めれば、さらわれた娘たちが危険にさらされる。まずは鬼の懐へ潜り込み、人質の所在を確かめる」
「山伏に扮して、鬼を欺くのですか?」
「正面から斬り込むだけが戦ではない」
頼光の言葉に、桃華は小さく頷いた。
力だけでは救えない者がいる。
それは、天界での戦いを通して桃華自身も知ったことだった。
「出立は夜明け前だ。それまで身体を休めよ」
一同が社の中へ入ろうとしたとき、金時が桃華へ顔を寄せた。
「ところで、桃華殿」
「何ですか?」
「きびだんごは、まだ残っておるか?」
「ありますけど……皆さんの分まで足りますかね」
「ならば、わしはもう一本だけでよい」
「先ほども一本食べたでしょう」
「腹が減っては戦はできぬからのう」
その声を聞いた綱が振り返る。
「お前は先ほど兵糧丸を食っていただろう」
「あれは腹を満たす物であって、心を満たす物ではない」
あまりに堂々とした言い分に、誰からともなく笑いがこぼれた。
だが、笑いの向こう。
夕闇に沈みゆく山の奥には、黒々とした大江山がそびえていた。
そこに棲む鬼が、桃華の探す朱天なのか。
それとも、同じ名を持つだけの別人なのか。
答えは、あの山の中にある。
桃華は遠くの峰を見つめ、聖剣の柄を静かに握った。




