第十話 鬼の宴
第三章 犬・忠義の章
第十話 鬼の宴
夜明け前。
大江山の麓に建つ古びた社には、六人の山伏が集っていた。
源頼光。
渡辺綱。
卜部季武。
碓井貞光。
坂田金時。
そして桃華。
墨染めの衣に身を包み、頭には頭巾を巻いている。武具はすべて笈や衣の下へ隠され、一見しただけでは都から修行に来た一行にしか見えない。
桃華も聖剣《桃光》を布で包み、杖のように背負っていた。
「よく似合っておるぞ、桃華殿」
同じく山伏姿となった金時が、感心したように頷く。
「ありがとうございます。でも、金時さんは少し目立ちますね」
「何故じゃ」
「その大きさで普通の修験者を装うのは、無理があるかと」
金時は自分の身体を見下ろした。
頭巾を被っていても、広い肩と太い腕までは隠せない。
「山には大きな坊主もおろう」
「限度があります」
渡辺綱が呆れた声を挟んだ。
「せめて道中では、斧を振り回すなよ」
「分かっておる」
「お前の『分かった』ほど信用ならん言葉もない」
緊張を解すような二人のやり取りを聞きながら、桃華は社の外へ目を向けた。
朝靄の向こうに、大江山がそびえている。
山頂付近には黒い雲が渦を巻き、朝日さえ近づくことを拒んでいるようだった。
あの山のどこかに、さらわれた娘たちがいる。
そして、酒呑童子がいる。
桃華の追う朱天と同じ者なのか。
それとも、ただ名が似ているだけなのか。
「桃華殿」
頼光の声に、桃華は振り返った。
「緊張しているか」
「少しだけ」
「恐れることは恥ではない。恐れを知らぬ者は、守るべきものまで見失う」
頼光は穏やかにそう言うと、一行を見回した。
「もう一度、策を確認する」
全員の表情が引き締まる。
「我らは山伏を装い、酒呑童子の住処へ入る。目的は二つ。さらわれた者たちの所在を確かめること。そして、鬼どもにこの酒を飲ませることだ」
頼光の傍らには、封を施された酒壺が置かれていた。
昨夜、三柱の神が姿を現し、頼光たちへ授けたものだ。
住吉明神。
八幡神。
熊野権現。
人を飲ませれば力を与え、鬼が口にすればその身を痺れさせる霊酒――神便鬼毒酒。
桃華は、その壺から漂う清らかな気を感じ取っていた。
「地上には、これほど多くの神々が残っているのですね」
「人の信仰がある限り、神は完全には消えぬ」
頼光が答える。
「姿を現さずとも、どこかで人の営みを見守っておられる」
桃華は天界を思った。
古き時代に天を離れ、人とともに暮らすことを選んだ神々。
キクニが探せと言った者たちも、その中にいるのだろう。
「戦いは、娘たちの安全を確かめてからだ」
頼光は続けた。
「鬼が酒を飲み、力を失うまで剣を抜くな。どれほど挑発されようともだ」
「承知しました」
桃華は頷く。
戦いに勝つことより、人を救うこと。
それが頼光の選んだ策だった。
◇
一行は険しい山道を登っていった。
谷底には白い霧が満ち、木々の間からは獣とも人ともつかぬ声が聞こえる。
道の脇には、折れた矢。
割れた籠。
そして時折、女物の簪や衣の切れ端が落ちていた。
桃華は赤い布片を拾い上げる。
まだ新しい。
「連れ去られた娘の物でしょうか」
「おそらくな」
季武が周囲を見回す。
「だが妙だ。この辺りには、鬼の足跡が多すぎる」
土の上には、大小さまざまな足跡が残されていた。
人里を襲うにしても、これほど多くの鬼が山を出入りしているのは異常だという。
「近頃、地上の鬼どもの動きが活発になっておる」
頼光が低く言った。
「かつては人目を避けて暮らしていた者まで、里へ下りるようになった」
桃華は大地へ手を触れた。
微かな瘴気。
鬼神族が纏う黄泉の気と同じものが、地の底から滲み出している。
「要石が壊れた影響です」
一同が桃華を見る。
「黄泉との境が弱まり、地上へ瘴気が流れ出している。その力に引かれ、もともと地上にいた鬼たちまで力を増しているのでしょう」
「では、酒呑童子が近頃になって娘をさらい始めたのも」
「無関係ではないと思います」
金時が大斧を隠した笈を背負い直す。
「ならば、なおさら放ってはおけぬな」
「ええ」
桃華は遠くの山頂を見上げた。
朱天が要石を砕いた影響は、天界だけでは終わっていない。
地上でも、すでに多くの者が苦しんでいる。
その事実が、桃華の胸を重くした。
◇
日が高くなった頃。
一行の前に、巨大な岩壁が現れた。
岩肌には鬼の顔を模した門があり、その両脇には鉄棒を持つ二体の鬼が立っている。
「止まれ」
鬼の一体が唸った。
「人間どもが、ここへ何の用だ」
頼光は一歩前へ出ると、合掌した。
「我らは都より参った山伏。諸国を巡り、修行を重ねております」
「修行だと?」
「険しき大江山にて一夜の宿を賜りたく、参上いたしました」
二体の鬼は顔を見合わせる。
やがて、下卑た笑い声を上げた。
「人間が自ら食われに来たか」
「ちょうどよい。今宵は宴だ」
門が開く。
その奥には、岩をくり抜いて造られた巨大な館が広がっていた。
篝火が燃え、無数の鬼が行き交っている。
人の骨を飾った柱。
血のように赤い敷物。
奥からは、笑い声と酒の匂いが流れてくる。
桃華は怒りを押し殺しながら歩いた。
館の一角。
格子の向こうに、数人の娘たちが閉じ込められている。
皆、顔色を失い、身を寄せ合って震えていた。
桃華と目が合った一人が、助けを求めるように口を開く。
だが声は出さない。
桃華もまた、僅かに頷くだけに留めた。
――必ず助けます。
声に出さず、そう誓う。
◇
館の最奥には、大広間があった。
数十もの鬼が酒を酌み交わし、人間の肉を肴に騒いでいる。
その最上段。
巨大な虎皮の上に、一人の鬼が座っていた。
赤い髪。
額から伸びる二本の角。
人の数倍はあろうかという巨体。
その身体から放たれる瘴気は、他の鬼とは比べものにならない。
「ほう」
鬼が酒盃を置いた。
「珍しい客だ」
頼光たちは一斉に頭を下げる。
「都より修行に参りました山伏にございます」
「都か」
鬼は舌なめずりをする。
「都の女は美しい。肉も柔らかく、血も甘い」
桃華の拳が僅かに震える。
頼光の視線が、それを制した。
「我こそは、大江山を統べる酒呑童子」
鬼は両腕を広げる。
「せっかく来たのだ。今宵は我らの宴に加われ」
「ありがたき幸せ」
頼光は頭を下げたまま答えた。
その傍らには、四体の鬼が控えている。
星熊童子。
熊童子。
虎熊童子。
金熊童子。
酒呑童子に仕える、四人の悪鬼。
その中でも星熊童子は、桃華たちを鋭い目で観察していた。
「頭領」
「何だ、星熊」
「その娘から、妙な香りがいたします」
桃華の背筋に緊張が走る。
星熊童子が鼻を鳴らした。
「桃の花のような……」
酒呑童子の目が細くなる。
「桃だと?」
桃華は静かに答えた。
「山を巡るうち、桃の林を通りました。その香りが衣に残っているのでしょう」
沈黙。
やがて酒呑童子は、大声で笑った。
「桃か!」
「我ら鬼が最も忌むものを身にまとい、鬼の山へ来るとは面白い娘よ」
「お許しください」
「よい。今宵は客だ」
酒呑童子は盃を掲げた。
「酒を持て!」
鬼たちが次々と徳利を運んでくる。
盃に注がれたのは、血のように濁った赤い酒だった。
金時が僅かに顔をしかめる。
頼光は平然と盃を口へ運んだ。
飲んだふりをしながら、袖の中へ流している。
桃華も同じように酒をかわした。
「都の山伏どの」
酒呑童子が頼光へ呼びかける。
「お前たちも、珍しい酒を持っておるのではないか?」
「ございます」
頼光は待っていたとばかりに、神便鬼毒酒の壺を差し出した。
「山中で神々より賜りました霊酒にございます」
「神の酒か」
酒呑童子の目が輝く。
「面白い。注げ」
頼光は自ら立ち上がり、酒呑童子の盃へ酒を満たした。
続いて四鬼へ。
他の鬼たちにも次々と振る舞っていく。
酒呑童子は香りを嗅ぎ、一息に飲み干した。
「うまい!」
広間に歓声が上がる。
「もっと持て!」
鬼たちは競うように酒を飲み始めた。
一杯。
二杯。
三杯。
やがて鬼たちの顔が赤く染まり、次々と床へ倒れていく。
四鬼も膝をつき、苦しげに息を吐いた。
「これは……何だ……」
星熊童子が呻く。
頼光の手が、衣の中に隠した刀へ伸びる。
桃華も聖剣の柄を握った。
酒呑童子は俯いたまま動かない。
霊酒が効いた。
誰もがそう思った、その時だった。
「クク……」
低い笑い声が響いた。
酒呑童子の肩が震えている。
「人間どもよ」
ゆっくりと顔を上げる。
赤い瞳が、先ほどまで以上に禍々しく輝いていた。
「ずいぶんと面白い酒を飲ませてくれたな」
酒呑童子は立ち上がった。
足元は僅かにふらついている。
だが、全身から噴き上がる瘴気は衰えるどころか、さらに膨れ上がっていた。
「近頃はな」
酒呑童子が笑う。
「地の底より、力が湧いてくるのだ」
館全体が震える。
「まるで黄泉が、我ら鬼に力を与えているかのようにな!」
頼光が刀を抜く。
四天王も一斉に武器を構えた。
桃華は布を解き、聖剣《桃光》を手に取る。
酒呑童子は巨大な鉄棒を持ち上げた。
「正体を現したな、人間ども」
その一振りが、宴の膳を吹き飛ばす。
「ならば今度は、我らがもてなしてやろう」
酒呑童子の咆哮が、大江山を揺るがした。
鬼の宴は終わった。
そして、鬼退治が始まろうとしていた。




