第十一話 酒呑童子
第三章 犬・忠義の章
第十一話 酒呑童子
鬼の宴は終わった。
静まり返った大広間に、酒呑童子の低い笑い声だけが響いていた。
「人間どもよ……ずいぶんと面白い酒を飲ませてくれたな」
巨大な鬼が、ゆっくりと立ち上がる。
神便鬼毒酒は確かに効いていた。
足元は定まらず、呼吸も荒い。盃を握る指先さえ、わずかに震えている。
それでもなお、酒呑童子の身体から噴き出す瘴気は衰えていなかった。
むしろ地の底から新たな力を吸い上げるように、黒い気配は膨れ続けている。
「近頃は、身体の奥から力が湧いてくるのだ」
酒呑童子は口元を歪めた。
「まるで黄泉そのものが、我ら鬼に力を与えているかのようにな!」
鉄棒が床へ叩きつけられる。
轟音とともに岩床が砕け、宴の膳が吹き飛んだ。
「構えよ!」
頼光の声が広間を貫いた。
山伏姿の男たちが、一斉に衣を脱ぎ捨てる。
その下から現れたのは、戦いのために整えられた鎧兜。
源頼光。
渡辺綱。
卜部季武。
碓井貞光。
坂田金時。
そして桃華。
頼光が名刀を抜き放つ。
その刃を見た酒呑童子の目が細くなった。
「ほう……。初めから我が首を狙って来たか」
「都の民を脅かし、罪なき娘をさらった報い、今ここで受けてもらう」
「よかろう!」
酒呑童子が吠えた。
「ならばその武勇、我に見せてみよ!」
その咆哮に呼応するように、床へ伏していた四体の鬼が立ち上がる。
星熊童子。
熊童子。
虎熊童子。
金熊童子。
神便鬼毒酒に蝕まれながらも、その眼にはなお凶暴な光が宿っていた。
「頭領には近づけさせぬ!」
星熊童子が大刀を構える。
熊童子は大槌を担ぎ、虎熊童子は二本の曲刀を抜いた。
金熊童子の手には、黒鉄の棍が握られている。
「頼光様!」
「我らが道を開く!」
四天王が前へ出る。
鬼と武者が激突した。
◇
渡辺綱の刃と星熊童子の大刀がぶつかり合い、火花を散らす。
季武は虎熊童子の素早い斬撃を紙一重でかわし、貞光は金熊童子の棍を槍の柄で受け止めた。
金時の前には、熊童子が立ちはだかる。
「人間風情が、我と力比べをするつもりか!」
熊童子が大槌を振り下ろす。
金時は大斧の柄で正面から受け止めた。
激しい衝撃が岩屋を震わせる。
金時の足元が沈み、床に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
「ほう」
金時は歯を見せて笑う。
「なかなか重い一撃じゃ」
「強がりを!」
熊童子がさらに力を込める。
だが金時は一歩も退かない。
「父は雷神、母は山怪」
大斧を押し返しながら、低く告げる。
「わしも人間だけではないのでな!」
金時は大槌を弾き上げ、そのまま熊童子の腹へ蹴りを叩き込んだ。
巨体が数歩よろめく。
「この……!」
熊童子が再び襲いかかった。
◇
戦況は互角だった。
神便鬼毒酒は四鬼の動きを鈍らせている。
だが黄泉から溢れた瘴気が、それを補うように鬼たちへ力を与えていた。
星熊童子の一撃が綱を後退させる。
虎熊童子は季武の守りを抜け、さらわれた娘たちが囚われている牢へ向かおうとした。
「行かせぬ!」
貞光が進路を塞ぐ。
その横合いから、金熊童子の鉄棍が振るわれた。
貞光は槍で受け止めたが、勢いを殺しきれず岩壁へ叩きつけられる。
「貞光!」
季武が叫ぶ。
その隙を逃さず、虎熊童子の曲刀が迫った。
「皆、伏せよ!」
金時の声が轟く。
四天王たちは迷うことなく身を低くした。
金時は熊童子の大槌を斧で受け流すと、後方へ大きく跳んだ。
そして大斧の石突を、岩床へ突き立てる。
「何をする気だ」
熊童子が訝しげに睨む。
金時は天井を見上げた。
「親父殿」
その口元に、豪快な笑みが浮かぶ。
「うちの親父は、昔から息子が困っとると放っておけん性分でな」
「戯れ言を!」
熊童子が踏み込んだ、そのときだった。
遠くで雷鳴が鳴った。
ゴロゴロゴロ……。
大江山を覆う黒雲が渦を巻く。
岩屋の入口から、青白い光が差し込んだ。
「雷……?」
鬼たちが動きを止める。
金時は大斧を天へ掲げた。
「父上――力を借りるぞ!」
次の瞬間。
幾本もの轟雷が、大江山の岩棚を撃った。
閃光。
爆音。
山肌が砕け、大小の岩塊が鬼の館へ降り注ぐ。
さらに雷は岩壁を伝い、青白い蛇のように大広間へ駆け込んだ。
「ぐおおおっ!」
星熊童子の大刀が弾け飛ぶ。
虎熊童子と金熊童子も雷光に飲まれ、床へ膝をついた。
熊童子の巨体を雷が貫き、全身から白煙が上がる。
金時の髪が逆立った。
その身体を幾筋もの稲妻が走り、手にした大斧の刃にも青白い光がまとわりついている。
酒呑童子の表情から、初めて笑みが消えた。
「貴様……雷神の血を引く者か」
「半分は人じゃ」
金時は斧を構える。
「残り半分で、鬼を討つ!」
地を蹴る。
雷をまとった大斧が、熊童子へ振り下ろされた。
熊童子は大槌で受け止めようとしたが、衝突した瞬間、雷光が武器ごとその身体を包み込んだ。
「ぐああああっ!」
轟音とともに、熊童子は岩壁まで吹き飛ばされる。
そのまま崩れ落ち、動かなくなった。
「今じゃ、桃華殿!」
「はい!」
桃華は布を払い、聖剣《桃光》を抜き放った。
◇
淡い桃色の輝きが、大広間を満たしていく。
雷の荒々しい光とは対照的な、柔らかく清らかな光。
だが鬼たちにとって、その光は炎よりも恐ろしいものだった。
「ぐっ……!」
星熊童子が呻く。
鬼たちの身体から、黒い瘴気が剥がれ落ちていく。
桃の香りを含んだ光が広がるたびに、黄泉から流れ込んでいた邪気は浄化され、その力を失っていった。
「力が……抜ける……」
「忌々しい……桃の光め!」
虎熊童子が憎々しげに叫ぶ。
桃華は《桃光》を両手で構えた。
「この光は、あなたたちを苦しめるためのものではありません」
「何……?」
「あなたたちを蝕み、狂わせる邪を祓うためのものです」
「黙れ!」
星熊童子が武器を拾い、桃華へ斬りかかる。
だがその動きは、先ほどまでとは比べものにならないほど鈍い。
綱が間へ入り、一刀のもとに星熊童子を斬り伏せた。
「鬼の相手をしながら説法とは、余裕だな」
「そんなつもりでは……」
「褒めている」
綱は短く答え、次の敵へ向かった。
桃光によって瘴気を失った四鬼を、頼光四天王が次々と追い詰めていく。
季武が虎熊童子の曲刀を弾き、返す刃で胸を斬る。
貞光の槍が金熊童子の棍を跳ね上げ、その喉元を貫いた。
やがて、酒呑童子に仕えた四鬼は、すべて床へ倒れた。
◇
「役立たずどもが!」
酒呑童子が吠えた。
巨大な鉄棒を振り回し、頼光へ迫る。
「貴様だけは、我が手で叩き潰す!」
頼光は童子切安綱を構えた。
「来い」
鉄棒と刀が激突する。
凄まじい衝撃に、頼光の足元が削られた。
酒呑童子は酔っている。
桃光によって瘴気も削がれている。
それでもなお、その膂力は頼光を遥かに上回っていた。
「どうした、人間!」
酒呑童子が鉄棒を横薙ぎに振るう。
頼光は身を沈めてかわし、懐へ踏み込む。
一閃。
酒呑童子の脇腹が裂けた。
「小癪な!」
鬼の拳が頼光へ迫る。
綱が横から斬りつけ、その腕を逸らした。
「頼光様!」
「構うな!」
頼光は酒呑童子だけを見据えている。
主君の戦いを邪魔させぬよう、金時たちは周囲に残る鬼を食い止めた。
桃華も《桃光》を掲げ、広間を包む破邪の光を絶やさない。
酒呑童子の身体から、黒い瘴気が次々と消えていく。
それでも鬼は笑った。
「面白い!」
鉄棒が頼光の兜をかすめる。
「人間にも、これほどの武人がいたか!」
「鬼にも、お前ほどの強者がいた」
頼光は静かに答える。
「だが、強さを弱き者へ向けた時点で、お前は武人ではない」
「何だと!」
「ただの外道だ!」
頼光は酒呑童子の一撃を刀の峰で受け流した。
身体を翻し、鬼の背後へ回り込む。
酒呑童子が振り返ろうとする。
その一瞬。
頼光の刃が、月光のような弧を描いた。
名刀・童子切安綱。
酒呑童子の首が、宙を舞った。
◇
巨大な身体が地響きを立てて倒れる。
戦いは終わった。
誰もが、そう思った。
だが宙を舞う首が、突如として目を見開いた。
「まだだ!」
酒呑童子の生首が牙を剥き、頼光へ飛びかかる。
頼光は身を引いたが、首は空中で軌道を変えた。
「頼光様!」
金時が駆け寄ろうとする。
しかし、首の方が速い。
酒呑童子の牙が、頼光の兜へ迫った。
その間へ桃華が飛び込む。
「桃華殿!」
《桃光》の切っ先が、酒呑童子の額へ触れた。
淡い光が爆発するように広がった。
「ぐああああああっ!」
生首を包んでいた黒い瘴気が、悲鳴を上げるように消えていく。
怒り。
憎しみ。
人への恨み。
黄泉から与えられた力。
それらすべてが、桃の光によって一つずつ剥がれ落ちていった。
やがて酒呑童子の顔から、凶暴な歪みが消える。
「……桃、か」
かすれた声で呟く。
「我ら鬼が……最も忌むもの……」
桃華は剣を握ったまま、静かに答える。
「桃は、邪を祓うものです」
「邪……」
酒呑童子は自嘲するように笑った。
「ならば、我そのものよな」
「違います」
「何……?」
「あなたの中にあったものすべてが、邪だったとは思いません」
酒呑童子の目が、わずかに見開かれる。
「けれど、あなたは罪のない人々を傷つけた」
「だから、止めなければなりませんでした」
「甘い娘よ……」
その声には、もはや怒りはなかった。
「その甘さが、いつかお前を苦しめようぞ」
桃華は答えなかった。
酒呑童子の首は、淡い光の粒へと変わっていく。
「だが……悪くない光だ」
最後にそう呟き、鬼の王は消えた。
◇
大江山に静寂が戻った。
残った鬼たちは頭領の死を知り、山の奥へ逃げ去っていく。
牢の扉は開かれ、囚われていた娘たちが次々と救い出された。
頼光たちは負傷者の手当てを始める。
金時も大斧を下ろし、深く息を吐いた。
「終わったのう」
「はい」
桃華は《桃光》を鞘へ納めた。
戦いは終わった。
多くの人が救われた。
それでも、胸の奥に残るものがあった。
桃華は、酒呑童子が消えた場所を見つめる。
「違う……」
金時が振り返る。
「どうした?」
「この鬼ではありませんでした」
桃華は静かに首を振った。
「私の探している朱天では、ありません」
同じ「しゅてん」という名。
だが酒呑童子は、天界を裏切った暁の化身ではなかった。
金時はしばらく黙っていた。
やがて、大きな手で桃華の肩を軽く叩く。
「そうか」
それ以上、慰めの言葉は口にしなかった。
桃華もまた、何も言わなかった。
大江山の峰から、朝日が昇り始める。
夜の闇を払い、淡い光が山々を照らしていく。
その光を見つめながら、桃華は再び朱天の名を胸に刻んだ。
旅は、まだ終わっていない。




