第六話 春の日々
第二章 桃の章
第六話 春の日々
山里に春が訪れていた。
朝露に濡れた若葉が朝日にきらめき、小鳥たちのさえずりが谷へ響く。
「桃太郎、朝じゃ。」
じいさんの呼ぶ声に、少女は目を覚ました。
「おはようございます。」
記憶はまだ戻らない。
それでも、この家で迎える朝は、不思議と心を穏やかにしてくれた。
朝餉を終えると、三人はいつものように仕事へ向かう。
じいさんは畑へ。
ばあさんは川へ洗濯へ。
桃太郎は薪を割り、水を汲み、畑仕事を手伝う。
「桃太郎、苗はもっと優しく植えるんじゃ。」
「はい。」
ぎこちない手つきながらも、一生懸命に土を寄せる。
その姿に、じいさんは目を細めた。
「飲み込みが早いのう。」
「そうかしら。」
ばあさんが笑う。
「この子は何をやっても器用だもの。」
桃太郎は照れくさそうに笑った。
そんな穏やかな日々が、静かに流れていく。
昼は畑。
夕方は薪割り。
夜は囲炉裏を囲み、三人で夕餉を囲む。
それだけで十分幸せだった。
ある夜。
囲炉裏の火を眺めながら、じいさんがぽつりと口を開いた。
「そういや、隣村で鬼が出たそうじゃ。」
桃太郎の手が止まる。
「鬼……?」
「若い娘が何人もさらわれたらしい。」
「恐ろしいことだねぇ。」
ばあさんは胸の前で手を合わせた。
「山賊ならまだしも、鬼じゃどうしようもない。」
じいさんは静かに頷く。
「昔はよう聞いた話じゃが、近頃は珍しい。」
「この山まで来んといいがのう。」
桃太郎は囲炉裏の炎を見つめていた。
なぜだろう。
「鬼」という言葉だけが、胸の奥へ引っ掛かった。
数日後。
昼下がり。
山道から村人たちの悲鳴が響いた。
「逃げろ!」
「鬼だ!」
村中が騒然となる。
桃太郎が外へ飛び出すと、黒い甲冑をまとった異形たちが村へ踏み込んできていた。
角を持ち、赤黒い肌をした戦士たち。
その姿を見た瞬間。
胸の奥が激しく脈打つ。
鬼神族――。
だが、その名はまだ思い出せない。
鬼たちは村人を襲うことなく、何かを探すように周囲を見回していた。
やがて、一人の鬼が桃太郎を見つける。
「いたぞ。」
低い声が響く。
鬼たちは一斉に振り向いた。
「見つけた。」
「桃の娘。」
その呼び名を聞いた瞬間。
桃太郎の身体が震えた。
知らないはずの言葉。
なのに、胸の奥が締め付けられる。
「桃太郎!」
ばあさんが叫ぶ。
「早く逃げるんだ!」
三人は山道を駆ける。
鬼神族は追ってくる。
その動きは速い。
人間では到底敵わない。
家へ飛び込み、じいさんが戸を閉める。
しかし次の瞬間。
轟音とともに扉が吹き飛んだ。
鬼神族がゆっくりと歩み寄る。
「ようやく見つけたぞ。」
「桃の娘。」
その手から放たれた炎が、納屋へ燃え移る。
乾いた木材は瞬く間に燃え上がり、赤い炎が空を焦がした。
その光景を見た瞬間――
桃太郎の呼吸が止まる。
炎。
崩れ落ちる城。
倒れゆく神々。
響き渡る悲鳴。
『桃華。』
誰かが呼ぶ。
『逃げろ。』
『朱天を止めるんだ。』
頭の中へ、失われていた記憶が激流のように流れ込んでくる。
キクニ。
コア。
天界。
聖剣。
そして――
自分の名。
「私は……。」
涙が一筋、頬を伝う。
「桃華……。」
その瞬間だった。
家の奥、床の間に立て掛けられていた一振りの刀が、淡い桃色の光を放つ。
まるで、長き眠りから目覚めるように。
鬼神族の一人が目を見開いた。
「聖剣……!」
桃華は迷わなかった。
炎の中へ飛び込み、静かに柄を握る。
その瞬間。
刀身から溢れた桃色の光が家中を包み込む。
《桃光》。
天界で託された、唯一無二の聖剣。
桃華は静かに剣を抜いた。
その姿は、もはや記憶を失った少女ではない。
天界より使命を託された、《桃》の化身。
鬼神族は武器を構える。
だが桃華の瞳には、もう迷いはなかった。
「思い出した。」
静かに、しかし確かな声で告げる。
「私は、お前たちから、大切な人たちを守るために、この地へ来た。」
桃色の光が剣を包む。
その輝きが、鬼神族の甲冑を照らした。
戦いの火蓋が、静かに切って落とされた。




