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第五話 桃太郎(改稿版)

第二章 桃の章


第五話 桃太郎


夕暮れ。

山の端へ日が沈みかけた頃。


「今帰ったぞ。」


山へ柴刈りに出ていたじいさんが、背に柴を負って家へ戻ってきた。


いつもなら「おかえり」と返ってくるはずのばあさんの声がない。

代わりに、家の奥から慌ただしい物音が聞こえていた。


「ばあさん?」


柴を土間へ下ろし、奥を覗く。


「爺さん! ちょっと来ておくれ!」


「どうした?」


急いで駆け寄ったじいさんは、そこで足を止めた。

布団に、一人の少女が寝かされている。

見たことのない娘だった。


「……誰じゃ、この娘は。」


「今朝、川で洗濯をしていたら流れてきたんだよ。」


「川から?」


「ああ。最初は大きな桃でも流れてきたのかと思ったんだけどねぇ。」


「桃?」


「桃色の着物が水を吸って、丸く膨らんでたんだよ。」

ばあさんは少女を見る。

「近くまで流れてきて、ようやく人だと分かったんだ。」


じいさんの表情が変わる。

「生きとるのか?」


「息はあるよ。でも……。」

ばあさんが少女の肩へ目を向ける。

「ひどい傷なんだ。」


じいさんは少女の傍らへ膝をついた。

肩口は深く裂け、応急に巻かれた布には血が滲んでいる。


額へ手を当てる。

「熱もあるな……。」


「助かるかねぇ。」


「助けるさ。」


じいさんは迷いなく答えた。


「目の前で苦しんどる命を見捨てるほど、わしらは落ちぶれちゃおらん。」

じいさんは立ち上がる。


「薬草を取ってくる。湯を沸かしてくれ。」


「ああ。」


老夫婦はすぐに動き始めた。


やがて着替えさせようとした二人は、その衣に目を留める。


「立派な着物じゃ……。」


見たこともない織り。

細かな刺繍。

山里の娘が身に着けるような品ではない。


そして枕元に置いた刀。


鞘にも鍔にも傷一つなく、それでいて何度も手入れされた跡がある。


「ただのお嬢さんじゃないのう。」


じいさんは刀をそっと持ち上げる。

ずしりと重い。


「武芸者……かもしれんな。

 どこぞの身分ある家に仕えとった者か⋯⋯。

 何か事情があって、この山まで流されてきたのかもしれん。」


刀は元の場所へ戻した。


「持ち主が目を覚ますまで、わしらは預かるだけじゃ。」


少女は眠り続けた。


朝になれば、ばあさんは粥を炊き、じいさんは薬草を煎じる。

傷口を洗い、熱を測り、静かに語りかける。

まるで本当の孫娘にするように。


そして七日目の朝。

少女の瞼がゆっくりと開いた。


「ここは……。」


かすれた声だった。


ばあさんは顔を輝かせる。


「じいさーん! 目を覚ましたよ!」


じいさんもすぐに駆けつける。


「無理に起きんでええ。」


少女は辺りを見回した。


見知らぬ天井。


見知らぬ家。


見知らぬ二人。


「私は……。」


言葉が止まる。


「名前は?」


少女は静かに首を振った。


「思い……出せません。」


「どこから来た?」


「分かりません。」


「家族は?」


「……。」


何も浮かばない。


天界も。

キクニも。

聖剣を託されたことさえ。


記憶は深い霧の中へ沈んでいた。


じいさんは優しく笑う。


「焦らんでええ、傷も深かった。

 記憶も、そのうち戻るじゃろう。」

 それまでは、この家でゆっくり身体を休めるといい。」


少女の瞳に涙が滲む。


見ず知らずの自分を、何も聞かず受け入れてくれる。

その温かさに、胸の奥が少しだけ熱くなった。


「ありがとうございます……。」


その日から、三人の暮らしが始まった。


朝はじいさんと畑へ出る。

昼はばあさんと洗濯をする。

夕暮れには囲炉裏を囲み、三人で食卓を囲む。


笑い声が絶えない、小さな山里の暮らし。


少女はまだ、自分の名前を思い出せない。

だが、不思議と寂しさはなかった。

ここには帰りを待ってくれる人がいる。


それだけで、十分だった。


少女がこの家で暮らし始めてから、数日が過ぎた。


畑を手伝い、薪を拾い、ばあさんと並んで夕餉の支度をする。


笑うことも増えた。


それでも、ただ一つだけ困ることがあった。


「そういえば、お前さん。」


夕餉の席で、じいさんが湯呑みを置く。


「いつまでも『お前さん』じゃあ、不便じゃのう。」


少女は申し訳なさそうに俯いた。


「……ごめんなさい。」


「謝ることじゃないさ。」


ばあさんは優しく微笑む。


「思い出せないものは仕方ないよ。」


しばらく囲炉裏の火だけが、ぱちぱちと音を立てていた。


やがて、ばあさんがくすりと笑う。


「この子、いつも桃の花みたいな匂いがするねぇ。」


「ほんに。」


じいさんも頷く。


「川から流れてきた時から、ずっと桃の香りがしとる。」


少し考え込んだ末、じいさんは顔を上げた。


「名前が戻るまでの間だけでも、呼び名があった方がええ。」


「昔はのう、『太郎』というのは男だけの名ではなかった。家を継ぐ者や、大切な子に付けることもあったんじゃ。」


ばあさんは穏やかに頷く。


「この子は、わしらにとって大切な子じゃ。」


じいさんは少女を見つめる。


「桃の香りをまとって、この家へ来た。

 なら――桃太郎じゃ。」


少女は少し目を丸くする。


「……桃太郎。」


口の中で、その名を繰り返した。


どこか懐かしいようで。


けれど、初めて聞くような、不思議な響きだった。


「気に入らんか?」


じいさんが少し心配そうに尋ねる。


少女はゆっくりと首を振る。


そして、小さく笑った。


「いい名前です。

 ありがとうございます。」


その日から少女は、老夫婦にとっての『桃太郎』になった。


本当の名を忘れたまま。

本当の使命を思い出せぬまま。


床の間には、一振りの聖剣が置かれていた。

桃色の光を失い、今はただの刀のように静まり返った


《桃光》。


その剣だけが――。

少女が本当は何者なのかを知っていた。

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