第四話 桃、流る
第二章 桃の章
第四話 桃、流る
光の門を抜けた瞬間だった。
桃華の身体は、青く澄み渡る大空へと投げ出された。
眼下には深い森。
その間を縫うように一本の川が流れている。
天界とは違う、土と草木の匂い。
これが――人の世界。
「ここが……地上……。」
だが、その安堵も束の間だった。
背後で空間が揺らぐ。
閉じかけていた光の門が、無理やり引き裂かれるように開いた。
黒い瘴気。
その中から三つの影が飛び出す。
鬼神族だった。
「追ってきた……!」
桃華は聖剣《桃光》を抜く。
桃色の光が空へ走る。
最初の鬼神が大斧を振り下ろす。
甲高い金属音。
桃華は受け流し、そのまま空中で身を翻した。
続けざまに二体目が槍を突き出す。
その穂先を聖剣で弾き返すが、体勢が崩れる。
「くっ……!」
疲労は限界だった。
天界での戦い。
そして人界への長い落下。
身体は思うように動かない。
三体目の鬼神が爪を振るう。
避けきれなかった。
鋭い爪が桃華の肩を深く裂く。
鮮血が宙へ舞った。
「……っ!」
激痛に視界が揺らぐ。
それでも桃華は聖剣だけは離さなかった。
キクニから託された剣。
天界最後の希望。
これだけは、何があっても。
鬼神たちもまた、追撃の手を止めた。
空に浮かぶ光の門が音を立てて閉じ始めていた。
一体の鬼神が低く呟く。
「……時間切れか。」
別の鬼神が桃華を見下ろす。
その眼差しには、憎しみだけではない何かが宿っていた。
「その剣……。」
だが言葉は最後まで続かなかった。
光の門は完全に閉じる。
鬼神たちの姿は瘴気とともにかき消えた。
桃華だけが、なお落ち続ける。
傷から流れる血。
遠ざかる空。
近づく大地。
そして――
冷たい水が全身を包んだ。
大きな水柱が上がる。
激流は桃華の身体を呑み込み、聖剣ごと下流へ運んでいく。
意識が薄れていく。
最後に思い浮かんだのは、炎に包まれた天界だった。
キクニ。
コア。
神々。
みんなの姿。
「……必ず……。」
それが最後の言葉になった。
意識は静かに闇へ沈んでいく。
その頃。
山あいの小さな村では、いつもと変わらぬ朝を迎えていた。
小鳥のさえずり。
風に揺れる稲穂。
畑では老人たちが鍬を振るい、家々の煙突からは朝餉の煙が立ち昇る。
誰一人として知らない。
遠い空の上で、神々の時代が終わったことを。
「さて、洗濯でも済ませようかねぇ。」
一人のおばあさんが、洗濯籠を抱えて川へ向かう。
いつものように川辺へ腰を下ろし、冷たい水へ手を浸した。
その時。
――どん。
何かが流木へ当たる音がした。
「ん?」
上流から、桃色の何かが流れてくる。
「ありゃまあ……。」
「大きな桃じゃのう。」
そう思った。
水面に揺れる桃色の着物が、丸く膨らみ、まるで巨大な桃のように見えたのだ。
ゆっくりと岸へ近づいてくる。
おばあさんは手を伸ばした。
その瞬間。
桃色の布がほどける。
長い黒髪が水面へ広がった。
「……人じゃ!」
慌てて川へ飛び込み、流れに逆らいながら少女を抱き寄せる。
身体は冷たい。
だが胸に耳を当てると、小さく鼓動が聞こえた。
「生きとる……!」
安堵したおばあさんは少女を岸へ引き上げる。
その胸には、一振りの美しい刀が固く抱かれていた。
どれほど流されても、決して手放さなかったのだろう。
「大丈夫だよ。」
「もう大丈夫だからね。」
おばあさんは優しく背負い直し、ゆっくりと家への道を歩き始めた。
少女の髪からは、ほのかに桃の花の香りが漂っていた。




