第三話 天の落日
第一章 天界
第三話 天の落日
天界は、燃えていた。
白亜の王城は炎に包まれ、天へ伸びる回廊は崩れ落ち、楽園と呼ばれた地には黒い煙が満ちていた。
西の果て。
黄泉との境に開いた裂け目から、鬼神族が次々と溢れ出している。
黄泉に堕ちた亡者へ罪罰を与え、黄泉の秩序を守る者たち。
本来ならば、要石の向こう側にいるはずの存在。
だが封印は砕けた。
黄泉の門は開いた。
そして彼らは、光を求めて天へ駆け上がってきた。
「裂け目を広げさせるな!」
「西門を守れ!」
「王城へ向かう者を止めろ!」
神々と化身たちは二手に分かれて戦っていた。
ひとつは、黄泉から湧き出る鬼神族を抑える者たち。
もうひとつは、太陽神コアが倒れた王城を守る者たち。
だが、誰の目にも明らかだった。
この戦いは、長くは持たない。
太陽神は倒れた。
封印は砕けた。
天界という名の楽園は、今まさに終わろうとしていた。
「キクニ!」
桃華は燃え盛る回廊を駆け抜けた。
崩れた柱。
倒れた化身。
焼け落ちた扉。
そのすべてを越え、王城の前庭へ飛び出す。
そこに、キクニはいた。
片膝をつき、鍛冶槌を手にしている。
その身体は血に染まり、胸から腹にかけて深い傷が刻まれていた。
「キクニ!」
桃華が駆け寄ろうとすると、キクニは片手を上げた。
「来るな。」
「何を言ってるの! すぐに手当てを――」
「来るなと言った。」
弱い声だった。
それでも、鋼のように硬い声だった。
キクニの周囲には、倒れた鬼神族の姿があった。
そして、その背後には太陽神コアの眠る玉座の間。
キクニは、そこを守っていた。
「コア様は……?」
桃華の声が震える。
キクニは短く答えた。
「生きている。」
桃華は息を呑んだ。
「本当に……?」
「ああ。」
キクニは苦しげに笑う。
「朱天は、急所を外していた。」
「……え?」
「太陽神が死ねば、日は昇らない。世界は闇に覆われる。」
キクニは空を見上げる。
燃え上がる天の向こうで、太陽はかろうじて輝いていた。
「朱天が、それを知らないはずがない。」
桃華は言葉を失う。
「朱天様は……世界を滅ぼす気ではない?」
「分からん。」
キクニは首を振った。
「だが、世界を終わらせる気なら、コア様は生きていない。」
炎の音が響く。
遠くで、神々の叫びが聞こえる。
「桃華。」
キクニは、傍らに置いていた聖剣を手に取った。
桃の光を宿した聖剣《桃光》。
それは炎の中にあってなお、静かに清らかな輝きを放っていた。
「これを持って行け。」
桃華は首を振った。
「これは、あなたの剣でしょう。」
「違う。」
キクニは微かに笑った。
「俺は形を与えただけだ。」
「この剣に未来を与えたのは、お前だ。」
桃華の手が震える。
「私に……何をしろというの?」
「地上へ行け。」
キクニは言った。
「古き時代、天界を離れた神々がいる。」
「人を愛し、人と共に生きることを選んだ者たちだ。」
「天では裏切り者と呼ばれた。」
「だが今は違う。」
「彼らだけが、お前の力になる。」
轟音が響いた。
王城の外壁が崩れ、鬼神族の群れが前庭へ迫る。
それを見て、周囲の神々が集まってきた。
傷ついた者。
片腕を失った者。
血を流しながらも、なお武器を握る者。
誰一人、逃げようとはしていなかった。
「鋼の化身。」
ひとりの老いた神が言った。
「やるのだな。」
キクニは頷いた。
「外からは破れぬ結界を張る。」
桃華は目を見開く。
「結界?」
「王城を封じる。」
キクニは鍛冶槌を握りしめた。
「鬼神族を、ここに閉じ込める。」
「でも、それじゃあ……」
桃華は気づいてしまった。
「中にいるあなたたちも、出られないじゃない!」
キクニは答えなかった。
代わりに、老いた神が笑った。
「よい。」
「我らは天界の者だ。」
「天を捨てて逃げる理由はない。」
別の化身が言う。
「桃華、行け。」
「聖剣を地上へ。」
「未来を頼む。」
桃華は首を振る。
「嫌よ。」
「そんなの……そんなの、私だけ逃げるみたいじゃない!」
キクニは静かに言った。
「逃げるんじゃない。」
「託されるんだ。」
その言葉が、桃華の胸を刺した。
「天界はもう持たない。」
「だが世界は、まだ終わっていない。」
キクニは聖剣を桃華へ差し出す。
「この剣は、まだ完成していない。」
「え……?」
「剣は鍛冶師が完成させるものじゃない。」
キクニは、まっすぐ桃華を見た。
「使う者が、完成させる。」
桃華は震える手で聖剣を受け取った。
刀身が淡く光る。
桃の花が咲くような、柔らかな光だった。
「朱天を止めろ。」
キクニは言った。
「必要なら、斬れ。」
桃華の瞳が揺れる。
「でも、その前に。」
キクニの声が、少しだけ優しくなる。
「必ず、あいつの声を聞いてやれ。」
「キクニ……。」
「あいつは世界を壊したかったんじゃない。」
「きっと、世界の在り方を変えたかったんだ。」
鬼神族の咆哮が近づく。
神々が武器を構える。
キクニは鍛冶槌を両手で握り、地面へ突き立てた。
「桃華。」
「行け。」
桃華は動けなかった。
涙がこぼれそうになる。
キクニは昔の少年のように、少しだけ困った顔で笑った。
「泣くな。」
「泣き虫は、俺だけで十分だ。」
その言葉で、桃華は唇を噛みしめた。
第一話の日。
桃源の森で笑った記憶が胸をよぎる。
泣き虫だった少年は、今、天界最後の壁になろうとしていた。
「……必ず。」
桃華は聖剣を胸に抱く。
「必ず、戻るから。」
「戻るな。」
キクニは首を振った。
「未来へ行け。」
次の瞬間。
キクニが鍛冶槌を振り下ろした。
轟音。
大地に鋼の文様が走る。
王城を中心に、巨大な光の柱が立ち上がった。
それは透明な鋼のように輝き、炎も瘴気も鬼神族の爪も弾き返す。
不壊の結界。
外からは決して破れぬ、鋼の檻。
桃華は結界の外へ押し出されていた。
「キクニ!」
透明な壁の向こうで、キクニが立ち上がる。
その隣に、神々が並ぶ。
鬼神族たちもまた、武器を構え直した。
一人の鬼神族が低く呟く。
「鋼の化身……。」
キクニは鍛冶槌を肩に担いだ。
「来い。」
その顔に、恐れはなかった。
結界の外で、桃華は叫ぶ。
けれど声は届かない。
キクニは最後に、口だけで言った。
――生きろ。
桃華は背を向けた。
振り返れば、もう走れない。
だから走った。
燃える天界を背に。
託された聖剣を胸に。
天界の端。
人界へと続く光の門が、今にも消えようとしていた。
桃華はそこへ飛び込む。
光が弾ける。
身体が落ちる。
空が遠ざかる。
天界が、炎の中に沈んでいく。
その日、天は落ちた。
そして地上へ、ひとつの物語が流れ着こうとしていた。




