第二話 封印崩壊(再)改稿版
第一章 天界
第二話 封印崩壊
百年に一度の封印の儀。
その日、天界の西方にそびえる黒き岩山には、多くの神々と化身たちが集っていた。
岩山の中央。
大地へ深く根を下ろすように、巨大な岩がそびえている。
《要石》。
天界と黄泉の国を隔てる、世界の楔。
遥かな昔より、この要石によって黄泉への道は封じられてきた。
そして百年に一度。
弱まりゆく封印へ新たな力を与えるため、《鋼》の化身が鍛えた聖剣を用いて封印の儀が執り行われる。
要石の前に、一人の男が立っていた。
《鋼》の化身――キクニ。
その両手には、一振りの聖剣。
百日百夜。
炉の火を絶やすことなく、槌を振るい続けて完成させた、キクニにとって初めての聖剣。
その名は――《桃光》。
鋼の化身が鍛えた刃に、桃の化身である桃華の力が宿されている。
朝日を受けた刀身を、淡い桃色の光が静かに巡っていた。
少し離れた場所から、桃華がその姿を見守っている。
十七年前。
父を亡くし、まだ何一つ成し遂げていないと言っていた少年。
そのキクニが今、父の跡を継ぎ、大勢の神々や化身たちが見守る中で聖剣を握っている。
桃華は思わず微笑んだ。
「頑張って、キクニ。」
その声が聞こえたのか、キクニは一度だけ桃華を見て、小さく頷いた。
そして再び要石へ向き直る。
大きく息を吸った。
「――始めます。」
《桃光》を掲げる。
桃色の光が強くなる。
キクニが一歩、要石へ踏み出した。
その時だった。
ゴゴゴゴゴ……。
低い音が響いた。
「……?」
キクニの足が止まる。
地面が揺れている。
最初は僅かだった。
しかし――。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!
揺れは瞬く間に大きくなっていく。
「何事だ!」
「まだ儀は始まっておらぬぞ!」
集まっていた者たちがざわめく。
桃華も周囲を見回した。
「キクニ!」
「ああ!」
キクニは要石を見上げる。
聖剣は、まだ触れてすらいない。
それなのに。
ミシッ。
要石に一本の亀裂が走った。
キクニの顔色が変わる。
「……そんな。」
ミシッ。
ミシミシミシ――。
亀裂が広がっていく。
「離れろ!」
キクニが叫んだ。
次の瞬間――。
轟ッ!!
巨大な要石が、内側から爆ぜるように砕け散った。
「きゃっ!」
桃華が腕で顔を覆う。
巨大な岩片が周囲へ飛び散り、大地へ次々と突き刺さる。
そして。
要石があった場所から――。
黒い瘴気が噴き上がった。
空へ向かって。
まるで巨大な柱のように。
天界の青空を、黄泉の闇が黒く染めていく。
「封印が……!」
誰かが叫んだ。
「黄泉の封印が破られた!」
地面に巨大な亀裂が走る。
その奥には、光さえ届かぬ深い闇。
そして――。
その闇の中で。
無数の赤い光が灯った。
一つ。
二つ。
十。
百。
桃華は息を呑む。
「……目?」
次の瞬間。
「オオオオオオオオオオ――ッ!!」
咆哮が響いた。
一匹の鬼が亀裂から飛び出す。
続いて二匹。
三匹。
十匹。
止まらない。
角を持つ者。
巨躯を誇る者。
金棒を担ぐ者。
牙を剥き、炎を纏う者。
黄泉より無数の鬼神族が、次々と天界へ雪崩れ込んできた。
「鬼神族だ!」
「迎え撃て!」
神々と化身たちが一斉に武器を構える。
「グオオオオッ!」
鬼が巨大な金棒を振り下ろした。
轟音。
大地が砕ける。
別の鬼が炎を吐き出す。
「伏せろ!」
炎が頭上を通り過ぎ、背後の木々を焼き払った。
瞬く間に、封印の儀の場は戦場へと変わった。
「桃華!」
キクニが駆け寄る。
「大丈夫か!」
「私は大丈夫!」
桃華は周囲を見る。
あまりにも数が多い。
要石の亀裂から、今も次々と鬼神族が湧き出している。
「どうして……。」
百年に一度の封印の儀。
その日に合わせるかのように、要石が崩壊した。
偶然とは思えない。
だが、今は考えている暇などなかった。
「キクニ!」
桃華の背後から鬼が飛び掛かる。
「危ない!」
キクニが《桃光》を振るった。
一閃。
桃色の光が鬼の身体を斬り裂く。
「グアアアアッ!」
鬼の身体が黒い霧となり、消えていった。
キクニは目を見開いた。
初めて実戦で振るった聖剣。
その威力は、彼自身が想像していた以上だった。
だが――。
「来るぞ!」
次の鬼。
さらに、その後ろからも。
桃華とキクニは背中合わせになる。
周囲では神々と化身たちが必死に鬼を食い止めていた。
剣が交わる。
槍が突き出される。
炎が上がる。
雷鳴が響く。
だが、黄泉から現れる鬼神族は減らない。
それどころか――。
「まずい!」
一人の化身が空を見上げた。
戦いを抜けた鬼たちが、天界の各地へ散り始めていた。
「ここだけではない!」
「奴ら、天界中へ!」
桃華の表情が強張る。
その時。
遠くから鐘の音が響いた。
カン――。
カン――。
カン――。
何度も。
激しく。
天界に危急を知らせる鐘。
「この鐘……。」
キクニが振り返る。
一人の神兵が駆けてきた。
「申し上げます!」
息を切らしながら叫ぶ。
「鬼神族の一団が天宮へ侵入!」
「何だと!」
「太陽神様の御身が危険です!」
周囲に緊張が走る。
「天宮を守れ!」
誰かが叫んだ。
「動ける者は天宮へ!」
神々と化身たちの一部が、一斉に走り出す。
桃華も天宮の方角を見る。
遠く、空へ黒煙が上がっていた。
「コア様……。」
「行くぞ、桃華!」
「ええ!」
二人は走り出した。
◇
天宮は、すでに戦場と化していた。
白亜の柱は崩れ。
美しかった庭園には炎が上がり。
回廊の至るところで、神兵と鬼神族が刃を交えている。
「オオオオッ!」
一匹の鬼が槍を振り回す。
キクニが前へ出た。
《桃光》を一閃。
鬼が黒い霧となって消える。
「先へ!」
「ええ!」
二人は天宮の奥へ走る。
桃華は胸騒ぎを覚えていた。
おかしい。
天宮には多くの神兵がいる。
それだけではない。
危急の鐘を聞きつけ、天界中から神々や化身たちが集まり始めている。
それなのに。
なぜ、ここまで侵入を許したのか。
そして――。
「……朱天。」
桃華は呟いた。
このような時、誰よりも早く玉座へ駆けつけるはずの者。
暁の化身、朱天の姿が、どこにもない。
「キクニ。」
「ああ。」
どうやら同じことを考えていたらしい。
だが、二人ともそれ以上は口にしなかった。
今はただ、太陽神の無事を確かめることが先だった。
玉座の間へ続く扉が見えた。
「コア様!」
桃華が扉を押し開ける。
「――!」
二人は、その場で立ち尽くした。
静かだった。
外ではあれほど激しい戦いが続いているというのに。
玉座の間だけが、異様なほど静まり返っている。
そして。
玉座の前に――。
一人の女性が倒れていた。
黄金の衣。
床へ広がる血。
「コア様!」
桃華が駆け寄る。
太陽神コア。
その胸には深い傷が刻まれていた。
「コア様! しっかりしてください!」
桃華が身体を抱き起こす。
「……桃華……。」
僅かに瞼が開いた。
「よかった……!」
生きている。
だが、その呼吸は浅い。
キクニが周囲を警戒する。
「誰がこんなことを……。」
その時、桃華の目に、あるものが映った。
玉座の傍ら。
床に、一振りの剣が落ちている。
見覚えがあった。
何度も見たことがある。
「……嘘。」
桃華が立ち上がる。
ゆっくりと、その剣へ近付いた。
「これ……。」
朱天が、常に腰へ帯びていた剣。
桃華は震える声で呟いた。
「朱天の……。」
キクニの表情が変わる。
「まさか。」
「……朱天が……。」
コアの声。
桃華が振り返る。
「コア様?」
「封印を……破った……。」
桃華は言葉を失った。
キクニも動かない。
「そんな……。」
桃華の脳裏に、一人の男の姿が浮かぶ。
寡黙で。
生真面目で。
自らに与えられた役目を、誰よりも忠実に果たしていた
暁の化身。
その朱天が。
「どうして……。」
コアは苦しげに息を吐いた。
「朱天は……。」
そこで一度、言葉が途切れる。
桃華はコアの手を握った。
「もう喋らないでください。」
だが、コアは小さく首を振った。
「聞いて……桃華……。」
「……はい。」
「あの子は……。」
コアは自らの胸の傷へ視線を落とした。
深い傷。
しかし、その刃は、僅かに急所を外れていた。
「私を……殺せなかった……。」
「え……?」
桃華が目を見開く。
「太陽が……堕ちれば……。」
コアの呼吸が乱れる。
「世界は……闇に沈む……。
それを……あの子は……知っている……。」
桃華は何も言えなかった。
封印を破壊した。
黄泉から鬼神族を解き放った。
太陽神へ刃を向けた。
それでも――。
最後の一線だけは越えなかった。
「誰よりも……。」
コアの口元に、僅かな笑みが浮かんだ。
「この世界を……愛していた……。」
「コア様……。」
瞼がゆっくりと閉じていく。
「コア様!」
桃華が呼びかける。
返事はない。
しかし。
胸は僅かに上下している。
生きている。
桃華は安堵すると同時に、胸の奥に別の感情が湧き上がるのを感じていた。
なぜ。
どうして。
朱天は寡黙で、生真面目な男だった。
与えられた役目を黙々と果たし、
誰に褒められることがなくとも、不平一つ口にしない。
桃華の知る朱天は、そういう男だった。
そんな彼が、なぜ。
要石を破壊し。
黄泉への道を開き。
太陽神へ剣を向けたのか。
桃華は床に落ちた朱天の剣を見つめる。
「……なぜなの、朱天。」




