第二十七話 暁の化身
第六章 鬼の章
第二十七話 暁の化身
轟ッ――!
洞窟の奥で、二つの炎が激突した。
右臣の放った業火が壁を舐めるように広がり、凰の姿を呑み込む。
岩肌が赤く染まり、熱気に空気そのものが歪んだ。
「凰!」
金時の声が響く。
だが――。
「くくっ……。」
炎の中から笑い声が聞こえた。
右臣が眉をひそめる。
「何がおかしい。」
「いやなに。」
業火の中から、凰がゆっくりと歩いてくる。
その巫女装束には焦げ跡一つない。
凰は扇を広げたまま、自らを包む炎を興味深そうに眺めた。
「ようやく分かっただけじゃ。」
「何を。」
凰は右臣へ扇を向ける。
「うぬは先ほど、自らを何と申した?」
「業火の化身。」
「そうじゃ。」
凰は口元を緩める。
「ただの炎ではない。業火なのじゃろう?」
右臣の目がわずかに見開かれた。
凰は炎の中を悠然と歩く。
「業火とは、罪ある者が地獄に落ち、その身を焼かれる炎。」
一歩。
また一歩。
業火が凰へ襲い掛かる。
しかし、凰を焼くことはない。
「なれば――」
ぱちん。
凰は扇を閉じた。
「うぬの炎が業火なれば、妾を焼くことなど出来ようもない。」
「なに……。」
凰の背後に炎が集まっていく。
それはやがて巨大な翼となった。
「妾は鳳凰。神格を得た霊鳥ぞ。」
凰の瞳が赤く輝く。
「地獄へ落ちる咎など、持ち合わせてはおらぬわ!」
炎の翼が大きく広がった。
轟ッ!
凰の炎が右臣の業火を押し返す。
「ぐっ!」
右臣は炎の刀を地面へ突き立て、踏みとどまった。
「なるほど……。」
自らの炎を見つめる。
「我が業火が弱いのではない。」
顔を上げた。
「貴様が、我が炎の理から外れているということか。」
「ようやく気付いたか。」
凰は再び扇を広げる。
「うぬは強い。」
不敵に笑った。
「じゃが――相手が悪かったのう。」
右臣もまた、口元に笑みを浮かべた。
「面白い。」
再び炎の刀を構える。
「ならば業火に頼らず、我が刃で斬るまで。」
「ほう。」
凰の周囲に無数の火の粉が舞う。
「その意気や良し。」
二人は同時に地面を蹴った。
◇
一方――。
金時の周囲は、完全な闇に覆われていた。
「ちっ。」
大斧を構え、辺りを見回す。
何も見えない。
自らの手すら見えぬ暗闇。
「面倒な奴じゃのう。」
声が響いた。
「闇を恐れるか。」
「誰がじゃ。」
金時は大斧を振るう。
しかし、手応えはない。
「貴様は何を信じて戦う。」
左臣の声が、四方八方から聞こえてくる。
「何?」
「桃の化身に仕え、鬼を討つ。」
闇の中で、何かが動いた。
金時が振り返る。
遅い。
黒い刃が肩を掠めた。
「ぐっ!」
金時は大斧を横薙ぎに振るう。
だが、左臣の姿はすでにない。
「貴様は、自らが正しいと思っているのか。」
「…………。」
「我らが悪で、貴様らが正義。
ゆえに我らを討つというのか。」
金時は答えなかった。
闇の中で、大斧を肩へ担ぎ直す。
「どうした。」
左臣の声が響く。
「答えられぬか。」
「いや。」
金時は頭を掻いた。
「難しいことを聞く奴じゃと思ってな。」
「……何?」
金時は笑った。
「正義だの悪だの、難しいことはわしには分からん。」
闇の中。
左臣の気配が止まった。
「であるから――」
金時は大斧の柄を握り締める。
「信じる主に仕え、主のために力を振るう。」
「…………。」
「わしは桃華殿を信じた。」
金時は暗闇を見つめる。
「おぬしは朱天を信じた。」
そして、ニッと笑った。
「そうではないのか?」
長い沈黙。
やがて――。
「……ふっ。」
闇の中から、小さな笑い声が聞こえた。
「何がおかしい。」
「いや。」
左臣の姿が、ゆっくりと闇から現れる。
「道理だの正義だのを説かれるより、よほど分かりやすい。」
二本の黒刃を構えた。
「いかにも。」
左臣は静かに頷く。
「我は朱天様を信じた。」
「ならば話は早い。」
金時が大斧を構える。
「互いに信じた主のため、力を尽くすだけじゃ。」
「そうだな。」
左臣の身体が再び闇へ沈む。
「気に入ったぞ、坂田金時。」
「わしもじゃ、左臣。」
パチッ。
金時の金色の髪から火花が散った。
「参る。」
「来い!」
轟ッ!
洞窟を雷光が埋め尽くした。
◇
白馬の蹄が岩を打つ。
カッ、カッ、カッ――。
桃華を背に乗せた小白龍が、洞窟の奥へと駆けていた。
その横を蜜秋が走る。
背後から、雷鳴と轟音が微かに聞こえてくる。
桃華は一度だけ振り返った。
「金時……凰様……。」
「大丈夫だよ。」
蜜秋が前を向いたまま言った。
「あの二人なら。」
「……はい。」
桃華も前を向く。
やがて、巨大な扉が見えてきた。
桃華の腰にある聖剣が微かに震える。
「この先です。」
小白龍が足を止めた。
桃華はその背から降りる。
「ここまで、ありがとうございました。」
小白龍は静かに頭を下げる。
『気をつけろ。』
「はい。」
桃華は扉へ手を掛けた。
蜜秋が如意棒を握る。
二人で力を込める。
ゴゴゴゴゴ……。
重い扉が開いていく。
その向こう、広大な空間。
鬼神族の旗が並ぶ最深部。
そして――。
玉座に、一人の男が座っていた。
漆黒の甲冑、腰には狂剣。
朱天。
「来たか。」
静かな声が響く。
桃華は聖剣を抜いた。
「朱天。」
朱天は桃華ではなく、その隣に立つ蜜秋を見ていた。
「なるほど。」
「なに?」
蜜秋が眉を上げる。
朱天は薄く笑う。
「まさか、お前が来るとはな。」
「ボクを知ってるの?」
「知らぬはずがあるまい。」
朱天は立ち上がった。
「長い年月をかけ、森羅万象の精気を蓄え続けた花果山の仙石より生まれた石の化身――」
蜜秋の表情から笑みが消える。
「石猿、孫悟空よ。」
桃華が蜜秋を見る。
「石の……化身。」
「天界に反旗を翻し、斉天大聖を名乗り、神々と戦い――」
朱天はゆっくりと二人へ歩み寄る。
「やがて天竺への旅を経て、仏の位にまで上り詰めた。」
朱天の笑みが深くなる。
「闘戦勝仏。」
蜜秋は黙って朱天を見つめていた。
「お前こそ証明ではないか。」
「何の?」
「我ら化身とて、神仏と同じ高みへ至ることができる。」
朱天は自らの胸へ手を当てる。
「私の考えが間違っていないことの証明だ。」
蜜秋はしばらく黙っていた。
そして――。
「うん。」
あっさり頷いた。
朱天の目が細くなる。
「分かるよ。」
「そうであろう。」
「ボクも昔、同じようなことしたから。」
朱天が笑う。
「ならば――」
「だからさ。」
蜜秋は如意棒を肩へ担いだ。
「やめときなって。」
朱天の笑みが消えた。
「……何?」
「天界が気に入らない。」
指を一本立てる。
「自分を認めない神様たちが気に入らない。」
二本目。
「だったら自分が神様より偉くなってやる。」
三本目。
「邪魔する奴はぶっ飛ばす。」
蜜秋は肩をすくめた。
「やった、やった。僕も。」
「…………。」
「で、山の下に五百年。」
「…………。」
「あれは暇だったなぁ。」
桃華が思わず蜜秋を見る。
「五百年……。」
「うん。」
蜜秋は苦笑した。
「だから経験者として言ってるの。」
朱天を見る。
「やめときな。」
朱天は蜜秋を睨む。
「では聞こう。」
「何?」
「神仏と同じ高みへ至った者から見える景色は、どのようなものだ。」
蜜秋は少し考えた。
そして答える。
「……窮屈だったよ。」
「何?」
「闘戦勝仏。」
蜜秋は自分を指差す。
「立派な名前だよね。」
そして笑った。
「でも僕には、ちょっと窮屈だった。」
「だから、その位を捨てたというのか。」
「捨ててないよ。」
蜜秋は首を振る。
「ただ、そんな肩書きがなくたって、僕は僕だって分かっただけ。」
如意棒を肩へ乗せる。
「斉天大聖でも。」
「闘戦勝仏でも。」
少し得意げに笑う。
「謎の美少女・蜜秋でも。」
朱天が黙る。
「僕が石から生まれたことは変わらない。」
蜜秋は朱天を見つめた。
「それでいいじゃん。」
「…………。」
桃華は二人のやり取りを黙って聞いていた。
そして――。
「朱天。」
聖剣を下ろした。
「一つ、聞かせてください。」
朱天が桃華を見る。
「何かな。」
「なぜ……天界を裏切ったのです。」
「裏切った?」
朱天は、その言葉を確かめるように繰り返した。
やがて小さく笑う。
「違うな。」
「では――」
「私は裏切ったのではない。」
朱天の眼差しが鋭くなる。
「――悟ったのだ。」
「悟った……?」
「そうだ。」
朱天は桃華を真っ直ぐ見つめた。
「それに、裏切ったのは我ではない。」
一拍。
「天界の方よ。」
桃華の表情が強張る。
「どういう意味です。」
朱天は歩き始める。
「昼。」
洞窟の天井を見上げる。
「天の玉座を守るのは太陽神。」
そして視線を落とす。
「夜。」
「天の玉座を守るのは月神。」
「…………。」
「ならば、その狭間は?」
朱天は自分の胸へ手を当てた。
「昼が終わり、夜が訪れるまで。
夜が終わり、朝が訪れるまで。
天の玉座を守ってきたのは――私だ。」
桃華は黙って聞いている。
「昼を守る者は神。
夜を守る者も神。」
朱天は自嘲するように笑った。
「ならば問おう、桃華。
昼でも夜でもない、その境界を守り続けてきた私は何だ?」
「…………。」
「化身だ。」
朱天は吐き捨てるように言った。
「ただ、それだけだ。」
桃華は何も言えなかった。
「我ら化身は、神々より劣っているのか。」
朱天の声が洞窟へ響く。
「暁より生まれた私。
桃より生まれたお前。
鋼より生まれたキクニ。」
桃華の手に力が入った。
「そして、石より生まれた孫悟空。」
朱天は蜜秋を指差す。
「そこにいる石猿は神仏と並ぶところまで至った!
ならば我らと神々を隔てるものは何だ!」
誰も答えない。
朱天の声だけが響く。
「私は知りたかった。
なぜ我らは神になれぬのか。
なぜ神に仕えることだけを求められるのか。
だから――」
「朱天。」
桃華が遮った。
朱天が止まる。
「出立の間際、素戔嗚様から言われました。」
「……素戔嗚が?」
「はい。」
桃華は聖剣を鞘へ納めた。
その行動に、朱天がわずかに目を見開く。
「あなたに会ったら、まず話を聞いてやってくれ、と。」
「…………。」
「あなたが起こしたこの騒動。」
桃華は静かに続ける。
「かつて自分が天界を追放された時の自分と、どこか重なるのだそうです。」
朱天は何も答えない。
「そして、伝言を預かっています。」
桃華は朱天を真っ直ぐ見つめた。
「――天界を追放された身なれども、三つ柱の一柱として、話くらい聞いてやる。」
沈黙。
長い、長い沈黙。
やがて――。
「……ふっ。」
朱天が笑った。
それまでの嘲るような笑みではない。
ほんの少しだけ、懐かしそうな笑みだった。
「あの男らしい。」
桃華の表情が明るくなる。
「でしたら――」
「だが。」
朱天の笑みが消えた。
「もう手遅れなのだ。」
「……え?」
朱天は桃華を見つめる。
「桃華。」
「なぜ私が、この島を選んだのだと思う?」
「鬼たちを集めるため……ではないのですか?」
「それだけなら、場所などどこでもよい。」
朱天は玉座へ戻る。
そして――。
その横へ退いた。
「――!」
桃華の目が見開かれる。
玉座の背後。
巨大な岩が鎮座していた。
古びた注連縄。
岩肌には幾重もの亀裂。
そして、その隙間から滲み出す黒い靄。
桃華は、その姿を知っていた。
「……要石。」
蜜秋の表情が変わる。
「これが?」
「どうして地上に……。」
朱天は笑う。
「天界にのみ要石があると、誰が言った?」
桃華が息を呑む。
「まさか……。」
「天界と黄泉を隔てる楔があるのならば――」
朱天は足元を指差す。
「地上と黄泉を隔てる楔もまた、存在する。」
ゴゴゴゴゴ……。
大地が揺れた。
要石の亀裂が広がる。
黒い靄が溢れ出す。
蜜秋が如意棒を構えた。
「朱天……まさか。」
「天界はすでに黄泉へと繋がった。」
朱天は両腕を広げる。
「そして地上も――」
要石から、黒い瘴気が噴き出した。
「間もなく黄泉へと繋がる。」
桃華の顔から血の気が引く。
「そんなことをすれば……!」
「太陽は沈む。」
朱天の身体から淡い朱色の光が漏れ始める。
「月も消える。」
朱色の光が闇を照らす。
「天も地も、黄泉の闇に覆われる。」
蜜秋が朱天を睨む。
「それが目的?」
「ああ。」
「なぜ……。」
桃華の声が震える。
朱天は答えた。
「神は、人々の信仰によって生まれる。」
桃華が目を見開く。
「ならば――」
朱天は笑った。
「太陽も月も失われた世界で、人々は何を求める?」
「…………!」
桃華はようやく理解した。
「まさか……。」
「光だ。」
朱天の身体が、暁色の輝きに包まれる。
「永遠の闇に閉ざされた世界で、人々は光を求める。
そして――」
朱天は両腕を広げた。
「その世界で唯一、光をもたらす者を崇める。」
「そのために……。」
桃華は震える声で言った。
「そのために世界を黄泉へ沈めるというのですか。」
朱天は答えない。
「人々に、あなたを求めさせるために。」
桃華は朱天を見つめる。
「信仰を……集めるために。」
朱天の身体から放たれる朱色の光が、さらに強くなる。
闇の中。
ただ一つ輝く――暁。
「昼も夜もない。」
「ただ永遠の闇だけが続く世界。」
朱天は天を仰いだ。
「その世界で私は唯一――」
要石に大きな亀裂が走った。
轟ッ――!
黄泉の闇が噴き上がる。
朱天はその中心で、高らかに告げた。
「世界を照らす――暁の一輝となろう。」
桃華は聖剣の柄を握った。
蜜秋も如意棒を構える。
もはや言葉だけでは止められない。
朱天もまた、狂剣へ手を掛ける。
暁の光と黄泉の闇。
相反する二つの色が、洞窟の中で渦を巻く。
桃華はゆっくりと聖剣を抜いた。
「……ならば。」
その切っ先を朱天へ向ける。
「止めます。」
朱天が笑う。
「やってみるがいい。」
狂剣が鞘から抜き放たれた。
「桃の化身――桃華。」
蜜秋が桃華の隣へ並ぶ。
「僕もいるけど?」
朱天は二人を見据える。
暁。
桃。
そして石。
三人の化身が、ついに相対した。
崩れゆく要石を背に――。
最後の戦いが、始まろうとしていた。




