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第二十六話 老猿

第六章 鬼の章


第二十六話 老猿


鬼ヶ島、大洞窟最深部。


薄暗い広間に、一匹の鬼が駆け込んできた。


「申し上げます!」


朱天は玉座に腰掛けたまま、静かに目を開く。


「敵の一部が我らの守りを突破! 洞窟内へ侵入いたしました!」


「……あやつら、洞窟の中へ入ったか。」


朱天の左右に控えていた二人の男が顔を上げる。


右臣⋯⋯業火の化身。


左臣⋯⋯昏闇の化身。


右臣が静かに口を開いた。


「外にはまだ多くの兵がおります。一人、二人はここまで辿り着くやもしれませぬ。」


左臣も一歩前へ出る。


「朱天様。」


二人の言わんとしていることを察したのか、朱天は小さく頷いた。


「うむ。任せる。」


二人は同時に膝をつく。


「御意。」


右臣の身体から、ゆらりと炎が立ち上る。


左臣の足元からは、灯りを呑み込むような闇が広がった。


「一人たりとも――」


二人は立ち上がる。


「ここには近づけさせませぬ。」


朱天は去っていく二人の背中を黙って見送った。

やがて、その姿が闇の向こうへ消える。


「…………」


再び静寂に包まれた広間で、朱天は一人、目を閉じた。


「さて……。」


その口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「どこまで来られるかな。桃の化身よ。」


     ◇


洞窟の中。


白馬の蹄が岩肌を打つ音が響いていた。


桃華を背に乗せた小白龍が先頭を駆け、その後ろを金時、蜜秋、凰が続いている。


外の喧騒はすでに遠い。


聞こえるのは、四人の足音と白馬の蹄の音だけ。


その中で――。


蜜秋が、ちらちらと桃華を見ていた。


一度。


二度。


三度。


桃華が振り返る。


「……どうしました?」


「いや……。」


蜜秋は珍しく歯切れが悪い。


しばらく黙っていたが、やがて意を決したように尋ねた。


「……怒ってる?」


「はい?」


「正体を隠してたこと。」


桃華はきょとんとする。


「斉天大聖様だったことですか?」


「うん。」


蜜秋は頭を掻いた。


「騙すつもりだったわけじゃないんだけどさ。」


「斉天大聖とか、闘戦勝仏とか名乗ると、どうしても面倒なことになるから。」


金時が後ろから口を挟む。


「十分面倒な奴じゃと思うが。」


「金時は黙ってて。」


「はいはい。」


桃華は少し考えてから答えた。


「別にいいんじゃないでしょうか。」


「……え?」

蜜秋が目を丸くする。


「蜜秋は蜜秋なのでしょう?」


「それは……そうだけど。」


「でしたら、私にはそれで十分です。」


蜜秋は何も言わなかった。


少しして、照れ臭そうに前を向く。


「……そっか。」


凰が横から鼻を鳴らした。


「しかし、謎の美少女とはよく言ったものじゃ。」


「なにさ。」


「美少女が聞いて呆れる。」


凰は扇をぱちりと閉じた。


「とんだ老猿ではないか。ババアの間違いであろう。」


「誰がババアだ!」


洞窟に蜜秋の声が響いた。


金時が腹を抱えて笑う。


「はっはっはっ! 確かにのう!」


「金時!」


「いやいや。斉天大聖ともなれば、いったい幾つなんじゃ?」


「覚えてない!」


「ほれ見ろ。」


「凰だって似たようなもんでしょ!」


「わらわは鳳凰、霊鳥じゃ。妖かしの歳などという尺度で計るでない。」


「ずるい!」


桃華が思わず笑う。


小白龍まで鼻を鳴らした。


『相変わらずだな、悟空。』


「白龍まで!」


しばらく洞窟に笑い声が響いた。


やがて蜜秋は小さく息を吐く。


「……でもさ。」


少しだけ声色が変わった。


「ボク、納得いかないことが一つあるんだよね。」


桃華が振り返る。


「何ですか?」


蜜秋は頬を膨らませた。


「だいいちさ、どの物語でも僕は男ってことになってるんだけど?」


「……はい?」


「しかも三蔵様は女ってことになってたりするしさ。」


金時が眉を寄せる。


「では、本当は逆なのか?」


「そうだよ!」


蜜秋は如意棒を振り回す。


「僕が女! 三蔵様が男!」


そして盛大にため息をついた。


「どこの誰が間違えたのか……。」


桃華は少し考える。


「長い年月を経て、語り継がれるうちに変わってしまったのでしょうか。」


「変わりすぎだって。」


蜜秋は如意棒を肩に担ぎ直した。


「まあ、そんなわけでさ。

 今の僕は斉天大聖でも、闘戦勝仏でもない。」


少し考え、笑う。


「旅人の蜜秋。それでいいんだよ。」


桃華は白馬の背から微笑んだ。


「はい。私も、その方が蜜秋らしいと思います。」


「でしょ?」


蜜秋が得意げに胸を張る。


凰が鼻を鳴らした。


「老猿のくせに。」


「まだ言うか!」


その時だった。


小白龍が突然、足を止めた。


蹄が岩を打つ。


桃華が手綱を握る。


「小白龍?」


『……何かいる。』


その声から、先ほどまでの穏やかさが消えていた。


金時も大斧を構える。


「わしにも分かる。」


凰が扇を閉じる。


「二つじゃな。」


蜜秋の表情も変わった。


四人の視線が洞窟の奥へ向く。


暗闇。


何も見えない。


だが――。


ぼっ。


小さな炎が灯った。


一つ。


二つ。


三つ。


洞窟の壁に沿って、炎が次々と灯っていく。


その炎に照らされ、二人の男が姿を現した。


一人は、赤黒い甲冑を纏った大男。


その身体からは、陽炎のように炎が立ち昇っている。


もう一人は、漆黒の衣を纏った細身の男。


その足元だけが、周囲の灯りを吸い込むように黒く沈んでいた。


桃華は聖剣へ手を掛ける。


「鬼……?」


蜜秋が目を細めた。


「違う。」


「え?」


如意棒を構える。


「あいつら、鬼じゃないよ。」


凰も頷いた。


「そのようじゃな。」


赤黒い甲冑の男が一歩前へ出た。


「我が名は右臣。」


その足元から炎が走る。


「業火の化身。」


続いて、黒衣の男が口を開く。


「左臣。」


周囲の炎が一瞬、大きく揺らめいた。


「昏闇の化身。」


桃華が目を見開く。


「化身……。」


右臣は静かに頷いた。


「いかにも。」


左臣の視線が、桃華へ向けられる。


「桃の化身、桃華。」


「朱天様のもとへ向かわせるわけにはいかぬ。」


二人が同時に武器を構えた。


右臣の手に炎が集まり、巨大な刀を形作る。


左臣の両手からは、闇そのものを凝縮したような二本の刃が伸びた。


「ここより先へ進みたくば――」


「我らを倒してから行くがよい。」


金時が大斧を肩へ担ぎ直した。


「なるほどのう。」


一歩前へ出る。


「朱天の側近というわけか。」


右臣は答えない。


金時はニヤリと笑った。


「なら話は早い。」


大斧を構える。


「そこをどいてもらおうか。」


「断る。」


右臣の炎が一気に燃え上がった。


轟ッ!


凄まじい熱風が洞窟を駆け抜ける。


桃華を乗せた小白龍が後ずさる。


『この炎……尋常ではないぞ。』


桃華も思わず腕で顔を覆う。


「熱い……!」


しかし――。


「ほう。」


凰だけは平然としていた。


扇で口元を隠し、右臣を興味深そうに眺める。


「業火の化身とな。」


右臣が凰を見る。


「鳳凰か。」


「いかにも。」


凰は嬉しそうに笑った。


「これは面白い。」


扇を広げる。


ぼっ。


凰の周囲に炎が浮かび上がった。


赤。


橙。


黄金。


幾重もの炎が凰を包み込む。


「炎をもって鳳凰の前に立つとは。」


その瞳が赤く輝く。


「ヌシ、なかなか見どころがあるではないか。」


右臣は表情一つ変えない。


「鳳凰の炎とて、業火の前では等しく焼かれる。」


「ほう?」


凰の口元が吊り上がる。


「言うたな。」


二人の炎が洞窟を赤く染める。


一方――。


左臣の姿が揺らいだ。


金時が眉をひそめる。


「ん?」


次の瞬間。


消えた。


「金時、後ろ!」


蜜秋が叫ぶ。


金時が振り返る。


ガキンッ!


大斧と黒い刃が激突した。


「ぬおっ!」


左臣が、金時の背後に立っていた。


金時は力任せに刃を押し返す。


「いつの間に!」


左臣は答えない。


その身体が再び闇へ溶ける。


右。


左。


背後。


声だけが響いた。


「昏闇とは、光の届かぬ闇。」


金時が周囲を見回す。


「面倒な奴じゃのう。」


「人は光に頼りすぎる。」


左臣の声が四方から響く。


「光なくして何も見ることのできぬ者が、我を捉えることなど出来ぬ。」


「そうかい。」


金時は大斧を地面へ突き立てた。


「なら――」


金色の髪が、ふわりと逆立つ。


パチッ。


小さな火花が走った。


左臣の声が止まる。


金時は不敵に笑った。


「闇ごと照らせばよかろう。」


バチバチバチッ!


全身から雷光が迸る。


洞窟が一瞬、真昼のように明るくなった。


闇の中。


左臣の姿が浮かび上がる。


「そこじゃ!」


金時が大斧を振り抜いた。


左臣が後方へ跳ぶ。


轟ッ!


大斧が岩壁を砕いた。


左臣は着地すると、初めてわずかに表情を動かした。


「……雷か。」


金時は大斧を肩へ担ぐ。


「悪いのう。」


黄金の髪が雷光を帯びる。


「わしは暗いところが苦手でな。」


蜜秋が呆れたように言う。


「絶対いま考えたでしょ、それ。」


「細かいことを気にするでない!」


その時。


凰が桃華へ叫んだ。


「桃華!」


桃華が振り返る。


凰は右臣から視線を逸らさない。


「ここはわらわたちに任せよ。」


「ですが!」


「ヌシの相手はこやつらではなかろう。」


凰の炎と右臣の業火が激突する。


轟音。


洞窟全体が震えた。


「朱天のもとへ行け!」


金時も大斧で左臣の黒刃を受け止めながら叫ぶ。


「そういうことじゃ!」


「金時!」


「主が前だけを見て戦えるよう、その背は俺が守る。」


金時は笑った。


「親父殿ならきっと、そう言うじゃろ」


桃華は息を呑んだ。


鬼無の里で、素戔嗚へ語った言葉。


金時は大斧を振り抜き、左臣を押し返す。


「ここから先は、桃華殿の為の戦じゃ。」


桃華は聖剣を握り締めた。


「……分かりました。」


小白龍の首を撫でる。


「行きましょう。」


『ああ。』


白馬が前を向く。


蜜秋も如意棒を肩へ担いだ。


「僕も行くよ。」


右臣が動いた。


「行かせぬ!」


炎の刀を振り上げる。


その前へ凰が飛び込んだ。


扇が炎を受け止める。


「ヌシの相手は――」


凰の背から巨大な炎の翼が広がった。


「わらわじゃ!」


反対側。


左臣が闇へ沈む。


「逃がさぬ。」


金時が大斧を地面へ叩きつけた。


轟ッ!


雷光が地面を走り、闇を切り裂く。


「おっと。」


金時が立ちはだかる。


「どこへ行くつもりじゃ?」


二人の化身が足止めされた。


「今じゃ!」


桃華が手綱を握る。


「小白龍!」


『任せろ!』


白馬が地面を蹴った。


桃華を乗せた小白龍が、右臣と左臣の間を一気に駆け抜ける。


「待ってよ!」


蜜秋もその後を追う。


如意棒を片手に、軽々と岩場を蹴って走る。


桃華は一度だけ振り返った。


炎の中に立つ凰。


雷光を纏う金時。


二人ともこちらを見てはいない。


それぞれの敵だけを見据えている。


桃華は前を向いた。


もう振り返らない。


    ◇


二人と一頭が去った洞窟。


右臣は炎の刀を構え直した。


凰が扇を広げる。


「さて。」


楽しそうに笑う。


「業火とやらがどれほどのものか、見せてもらおうかの。」


右臣の炎が燃え上がる。


「望むところ。」


その隣。


昏闇が洞窟を覆っていく。


金時は大斧を肩へ担ぎ、首を鳴らした。


「わしも負けてはおれんな。」


左臣が闇の中から囁く。


「貴様の雷が消えた時――」


無数の黒い刃が闇の中に浮かび上がった。


「その命も終わる。」


金時は笑った。


「やってみい。」


雷光が弾ける。


「消せるもんならな!」


炎と雷。


業火と昏闇。


二つの戦いが、同時に始まった。


     ◇


そして――。


洞窟のさらに奥。


白馬の蹄の音が響く。


桃華は前だけを見ていた。


その隣を蜜秋が走る。


やがて。


巨大な扉が、二人の前に姿を現した。


桃華の腰にある聖剣が震える。


蜜秋も笑みを消した。


扉の向こうから感じる気配。


間違えるはずがない。


「……朱天。」


桃華が、その名を呟いた。


扉の向こう。


暁の化身、朱天が待っている。


桃の化身、桃華。


二人の化身が――


まもなく相まみえようとしていた。

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