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桃華伝 ~新伝・桃太郎~(全三十話)  作者: 鳳 翔平
第四章 猿・知恵の章
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第十七話 旅立ち

第四章 猿・知恵の章


第十七話 旅立ち


東の空が白み始める頃。


廃寺を包んでいた夜の闇は静かに薄れ、境内には鳥たちのさえずりが響いていた。


兄弟鬼の亡骸は、朝日に照らされると黒い霧となって風に溶けていく。


桃華はその姿を静かに見送った。


「鬼も……還るのですね。」


蜜秋は小さく頷く。


「黄泉へね。」


しばらく沈黙が流れる。


やがて金時が大きく伸びをした。


「さて。」


腹をさすりながら笑う。


「旅籠へ戻って飯にしよう。膳がそのままじゃ。」


桃華は思わず目を丸くした。


「一晩経ってますよ? お腹を壊します。」


金時は豪快に笑う。

「人の身なら腹も壊そうものじゃが、我らは人にあらず。一晩程度なら何ともあるまい。」


そう言って親指を立てる。


「何より、もったいない。」


蜜秋が思わず吹き出した。


「そんな理由で戻るの?」


「飯を粗末にする方が罰当たりじゃ。」


桃華は苦笑しながらため息をつく。


「……では、急ぎましょう。」


三人は山を下り、宿場町へ戻っていった。


旅籠へ戻ると、主人は一行の姿を見るなり駆け寄ってきた。


「ご無事でしたか!」


「ああ。」


金時が笑って頷く。


「鬼は退治してきた。」


主人は深々と頭を下げた。


「ありがとうございます。本当に……ありがとうございます。」


その日の宿場町は、久しぶりに安堵の笑顔で満ちていた。


昨夜の料理は温め直され、三人はようやく食卓を囲む。


金時は豪快に飯をかき込みながら笑った。


「やはり飯はうまいのう。」


蜜秋は呆れたように肩をすくめる。


「一晩経っても、本当に平気なんだ。」


「申したであろう。」


金時は胸を張る。


「我らは人とは少々できが違う。」


桃華は思わず笑みをこぼした。


戦いの緊張が、ようやく解けていく。


一行はその日一日を宿場町で休養にあてた。


桃華は刀の手入れをし、


金時は宿の薪割りを手伝い、


蜜秋は町の子どもたちに囲まれ、小猿たちと木登りを競っていた。


鬼の噂は瞬く間に町中へ広がり、人々は三人へ何度も礼を述べた。


その夜は誰も戦いの話をしなかった。


久しぶりに穏やかな夜だった。


   ◇


夜。


旅籠の屋根の上。


蜜秋は月を眺めていた。


瓦の音を立てぬよう、桃華が隣へ腰を下ろす。


「眠れないのですか。」


蜜秋は夜空から目を離さない。


「あんた、世界の果てを見たことがあるかい?」


桃華は首を振る。


「ありません。」


蜜秋は静かに笑った。


「そうだろうね...僕も見たことはない。」


少しの沈黙。


「でもね...。

 斉天大聖様は、仏となられて地上を離れる前に、一度だけ世界の果てまで飛んだそうだ。」


桃華は耳を傾ける。


「昔、斉天大聖様は筋斗雲でどこまでも飛び、お釈迦様の手のひらを飛び出したと思っていた。

 でも、本当は指の根元から一歩も出られていなかった。」


蜜秋は夜空を見上げる。


「あれほどの御方でも届かなかった世界の果てへ、最後には本当に辿り着いたんだ。


桃華は小さく息を呑む。


「世界の果てとは……空の果てさ。」


蜜秋は空へ指を向ける。


「そこから見た世界は、青く丸かったそうだ。

 空は思っているよりずっと薄く、紙みたいに細い青い帯が、黒い宇宙との境を包んでいた。

 世界は丸く、静かに浮かんでいた。」


しばらく二人は黙って月を見上げる。


「天界とは違うのですか。」


「全然違う。」


蜜秋は笑う。


「天界は世界の上にあるんじゃない。」


「別の理にある世界だ。」


そして立ち上がる。


「いつか世界の果てから、この世界を見てみるといい。

 きっと、自分がどれだけ小さくて、この世界がどれだけ美しいか分かる。」


   ◇


翌朝。


朝露に濡れた街道へ、三人は並んで立つ。


宿の主人と町の人々が見送りに集まっていた。


「どうか道中、お気をつけて。」


桃華は深く頭を下げる。


「ありがとうございました。」


金時も片手を上げる。


「世話になった。」


蜜秋も軽く笑って手を振った。


「また近くまで来たら寄るよ。」


三人は街道を歩き始める。


山道へ差しかかった頃だった。


道端の大岩に、一人の老人が腰を下ろしていた。


白い髭を蓄え、一本の杖を手にしている。


旅人とも仙人ともつかぬ、不思議な老人だった。


桃華は、その姿を見た瞬間、小さく目を見開く。


「……また、お会いしましたね。」


老人は穏やかに笑みを浮かべる。


「うむ。どうやら、無事に知を供につけられたようじゃのう。」


金時も老人へ目を向ける。


「相変わらず、いつ現れたのか分からぬ御仁じゃ。」


老人は笑うだけで答えない。


桃華は一歩前へ進み、静かに頭を下げた。


「以前は、お礼も申し上げられませんでした。

 あなたは一体、何者なのですか。」


老人は杖をつきながら立ち上がる。


「ただの旅人じゃ。」


そう言って空を見上げる。


「旅とは面白いもの。

 歩む者が道を選んでいるようでいて、実は道に選ばれておることもある。」


桃華はその言葉を静かに聞いていた。


老人は三人へ視線を向ける。


「この先、汝らを導く者が待っておる。

 その出会いが、旅の行く末を大きく変えるじゃろう。」


桃華が何かを尋ねようと口を開く。


「それは──」


その時だった。


一陣の風が吹き抜ける。


木々の葉が大きく揺れ、桃華は思わず目を細めた。


再び前を見る。


老人の姿は、もうどこにもなかった。


「……また消えおった。」


金時が苦笑する。


「風より気配が薄いとはのう。」


蜜秋だけが老人の消えた場所を見つめていた。


「あの爺さん、一度見たことがある。」


桃華が振り返る。


「どこでですか。」


「西王母の庭。」


蜜秋は静かに答える。


「仙桃を実らせる巨木の下に、あの爺さんは立っていた......。

 誰なのかは知らない。

 でも、あの庭には、美猴王様も西王母様もおられた。

 なのに、誰一人としてあの爺さんを追い払おうとはしなかった。

 それどころか、まるで昔からそこにいるのが当たり前みたいだった。」


しばらく誰も口を開かなかった。


ただ、風だけが静かに吹き抜けていく。


桃華は老人が立っていた場所を見つめ、小さく息を吐く。


「……参りましょう。」


三人は再び歩き始める。


三つの影は朝日に照らされ、ゆっくりと街道の彼方へ伸びていく。


彼らを待つ新たな出会いを知らぬまま――。

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