第十四話 花果山の因縁
第四章 猿・知恵の章
第十四話 花果山の因縁
旅籠へ戻ると、金時のために用意された部屋には、すでに膳が並べられていた。
川魚の塩焼き。
山菜の煮物。
香の物。
そして、何本もの徳利。
「おお、待っておったぞ」
金時は大きな身体を畳の上へ下ろすと、嬉しそうに膳を引き寄せた。
「さあ、遠慮せず食うがよい」
「まるで自分が用意したように言うね」
旅装束の少女はそう言いながらも、金時の向かいへ腰を下ろした。
肩に担いでいた棍を壁へ立て掛け、笠を畳の上へ置く。
紺色の鉢巻の下から、茶色い髪がさらりとこぼれた。
桃華も二人の間へ座る。
「そういえば、まだ名前を聞いていませんでした」
「ああ、そうだったね」
少女は差し出された猪口を受け取り、軽く掲げた。
「孫、蜜秋」
「孫が姓で、蜜秋が名さ。ミーチェウと呼んでくれればいい」
「みーちぇう……」
桃華は慣れない響きを確かめるように繰り返した。
「異国の名なのですね」
「海の向こうじゃ、珍しくもないよ」
「わしは坂田金時じゃ」
金時が胸を張る。
「それはもう聞いたよ。有名人なんだろ?」
「いやあ、それほどでもある」
「否定しないんですね」
桃華が呆れたように言うと、蜜秋は声を上げて笑った。
「いいね。あんたたち、見ていて飽きなさそうだ」
金時は徳利を手に取り、蜜秋の猪口へ酒を注ぐ。
「まずは一献じゃ」
「いただこうか」
蜜秋は酒の香りを確かめてから、ひと息に飲み干した。
「うん。悪くない」
「悪くない、ではない。旨い酒じゃ」
「そこまで言うなら、もう一杯もらおうかな」
「よいぞ、よいぞ!」
金時は嬉しそうに徳利を傾けた。
桃華は二人の様子を眺めていたが、やがて蜜秋の傍らに置かれた笠へ目を向けた。
先ほど、そこから何匹もの小猿が現れた。
少女の髪から生まれた、少女自身の分身。
「蜜秋」
「何だい?」
「一つ、尋ねてもよろしいでしょうか」
「酒の肴になる話なら歓迎だよ」
桃華はまっすぐ蜜秋を見つめた。
「私は、身外身の術を使う猿妖を一人しか知りません」
蜜秋が猪口を口元へ運びかけたまま、動きを止めた。
金時も徳利を傾ける手を止める。
「その者は、かつて天界を騒がせた大妖」
桃華は慎重に言葉を選ぶ。
「斉天大聖、孫悟空」
部屋の中が静まり返った。
廊下の向こうから、宿泊客たちの話し声がかすかに聞こえてくる。
蜜秋はしばらく桃華を見つめていた。
やがて、堪えきれなくなったように吹き出した。
「いやいやいや」
猪口を置き、片手を振る。
「身外身なんて初歩の初歩だよ」
「初歩……なのですか?」
「水簾洞の猿なら、大抵の者は使える」
蜜秋は酒をもう一口飲み、愉快そうに笑った。
「特に悪ガキには人気の術さ。自分の分身を作って、果樹園から実を盗んだり、大人の猿へ悪戯したりね」
「分身で悪戯を……」
「追いかけられたら、分身を別の方角へ走らせる。大人たちがそっちへ行った隙に、本体は反対側へ逃げるってわけ」
「ずいぶんと詳しいのう」
金時が魚の身をほぐしながら言った。
「蜜秋もよくやったのか?」
「さあね」
蜜秋は悪戯っぽく笑い、猪口へ口を付けた。
肯定も否定もしない。
桃華は先ほどの光景を思い返していた。
髪の毛から生まれた小猿たち。
身外身は、術者自身を分ける術。
現れたものが猿であるなら、本体もまた――。
「では、やはり蜜秋は猿妖なのですね」
「へえ」
蜜秋は少し感心したように眉を上げた。
「そこまで分かっていたんだ」
「身外身は分身の術です。生まれたものが猿なら、本体も猿ではないかと思いました」
「正解」
蜜秋は人差し指を桃華へ向ける。
「ただ剣を振るうだけの娘じゃないらしい」
「桃華殿はなかなか聡いぞ」
なぜか金時が得意そうに言った。
「金時さんが誇ることではありません」
「仲間が褒められたのじゃ。わしが喜んでもよかろう」
蜜秋は二人を交互に眺めた。
「仲間、ね」
その瞳がわずかに細くなる。
「そういうあんたたちも、ただの人間じゃないだろ?」
金時の手が止まった。
桃華も蜜秋を見つめ返す。
「分かるのですか?」
「まあね」
蜜秋は金時へ視線を向けた。
「そっちの大男からは、かなり濃い妖気がする」
「妖気?」
金時が自分の胸を見下ろす。
「けれど、それだけじゃない」
蜜秋は鼻先へ指を当て、何かを嗅ぎ分けるように首を傾げた。
「神気も混じっているね。それも雷の気配だ」
「ほう」
金時は感心したように笑う。
「そこまで分かるか」
「父は神、母は妖といったところかな」
「父は雷神。母は山怪じゃ」
「なるほど。それなら納得だ」
蜜秋は今度は桃華へ目を移した。
「あんたからは、神気とは少し違う力を感じる」
桃華の身体を包む気配を確かめるように、その目が静かに動く。
「人とも神とも違う。精霊に近い力……いや、何かの化身かな」
桃華は息を呑んだ。
金時の素性だけでなく、自分の本質まで言い当てられた。
「私は、桃の化身です」
「桃?」
蜜秋の目が一瞬だけ輝いた。
「それで、あの香りか」
「分かっていたのですか?」
「会った時からね。あんたからは、ずっと桃の匂いがしてる」
蜜秋はどこか懐かしむように鼻を鳴らした。
「水簾洞にも桃の木はたくさんある。猿にとっては、何かと縁の深い実さ」
桃華は腰の《桃光》へ手を添えた。
「私は天界より地上へ参りました」
そして、これまでに起きたことを語り始めた。
黄泉との境を塞いでいた要石。
要石を破壊した朱天。
黄泉から溢れ出した鬼神族。
天界を守るために残った太陽神コアとキクニ。
聖剣《桃光》を託され、自分が地上へ降りたこと。
蜜秋は一度も口を挟まず、静かに聞いていた。
先ほどまでの飄々とした笑みは消えている。
「要石が壊れたことで、黄泉の瘴気は地上にも流れ出しています」
桃華は続けた。
「その影響で、もともと地上にいた鬼たちまで力を増し、以前よりも活発になっているようです」
「大江山の酒呑童子も、それで力を増しておった」
金時が酒を飲みながら付け加えた。
「神の酒を飲ませても、倒れぬほどにな」
「なるほどね」
蜜秋は猪口を畳へ置いた。
「最近、あいつらが急に動き出した理由はそれか」
「あいつら?」
「今日の一本角さ」
蜜秋は壁へ立て掛けた棍へ目を向ける。
「あいつらは、独角鬼王と呼ばれている」
「独角鬼王……」
桃華はその名を繰り返した。
「鬼王ということは、あの二匹が鬼たちの頭領なのですか?」
「昔はね」
蜜秋は片膝を立て、その上へ腕を置いた。
「花果山には、猿だけでなく多くの妖怪が住み着いていた。独角鬼王は、その中でも鬼どもを束ねる頭領だった」
「二匹とも、同じ名なのか?」
「ああ。独角鬼王は一匹の名じゃない。二匹一組でそう名乗る鬼王さ」
金時は腕を組む。
「二匹で一人前ということか」
「一匹でも人間相手なら十分に厄介だけどね」
蜜秋は肩をすくめる。
「あいつらは力で奪うより、人の欲や弱みにつけ込むことを好む。甘い言葉でたぶらかし、気づいた時には何もかも失わせる」
「なぜそのような鬼が、日本に?」
「逃げてきたのさ」
蜜秋の声が低くなる。
「大昔、花果山の美猴王が天界へ反旗を翻した時、独角鬼王たちも配下として戦った」
「美猴王……斉天大聖のことですね」
「まだ、斉天大聖を名乗る前の話さ」
蜜秋は苦笑した。
「美猴王が天界で馬番をさせられていたと知った独角鬼王は、あの方を持ち上げた」
蜜秋は、かつての鬼たちの口調を真似るように声音を変える。
「あなたほどのお方が、なぜ馬など育てているのです。
あなたは天に斉しいお方。斉天大聖を名乗り、天に君臨なさるべきだ――ってね」
「それで斉天大聖を名乗ったのか」
金時が呆れたように目を丸くする。
「ずいぶん乗せられやすい猿じゃのう」
蜜秋の口元がわずかに引きつった。
「……若かったんだよ」
「蜜秋がなぜ庇う?」
「別に庇ってない」
蜜秋は金時の徳利を奪い取ると、自分の猪口へ酒を注いだ。
「あの頃の斉天大聖様も、独角鬼王も、知恵が足りなかった。それだけの話さ」
金時が声を上げて笑う。
「斉天大聖も、若い頃は無鉄砲じゃったということか!」
「そのせいで天界は大騒ぎ。挙げ句、五行山に五百年だ。笑えない昔話だよ」
そこまで言って、蜜秋は自分の口を閉じた。
桃華が不思議そうに見つめる。
「ずいぶん詳しいのですね」
「水簾洞では有名な昔話なのさ」
蜜秋は何食わぬ顔で酒を飲む。
「悪ガキを叱る時にも使われる。
斉天大聖様のように調子へ乗ると、山の下へ埋められるぞ――ってね」
「それは効きそうですね」
「全然。悪ガキは自分だけは捕まらないと思ってるから」
蜜秋は苦笑した。
その表情は、昔の自分を思い出しているようにも見えた。
「その後、独角鬼王たちは天軍に捕らえられた」
桃華が尋ねる。
「では、どうして地上に?」
「さあね。天から逃げたのか、黄泉へ落とされたのか。何百年もの間、行方は分からなかった」
蜜秋は額の鉢巻へ指を添える。
「ただ、最近になって、かつて斉天大聖様の配下だった鬼たちが、あちこちで人間を襲い始めた」
「独角鬼王以外にもいるのですか?」
「ああ。一匹一匹は、今の斉天大聖様にとっては取るに足らない小物ばかりさ」
蜜秋は窓の外へ目を向けた。
夕日が障子を茜色に染めている。
「けれど、わずかな間とはいえ、自分の配下だった者たちが人に仇なすのを、あのお方は放っておけなかった」
「斉天大聖本人が、討ちに来ないのですか?」
「今は闘戦勝仏だ」
蜜秋の声には、どこか誇らしさがあった。
「仏には仏の役目がある。昔みたいに、気に入らないからって勝手に地上へ降りて暴れ回るわけにはいかないのさ」
「それで蜜秋が来たのですね」
「私だけじゃない」
蜜秋は小さく頷いた。
「水簾洞の猿たちが、世界中へ散った。昔の配下たちを見つけ出し、天へ戻るよう伝えるためにね」
「戻らなければ?」
金時が尋ねる。
蜜秋の目から笑みが消えた。
「斉天大聖様から、預かっている言葉がある」
「何と?」
「大人しく天へ戻り、裁きを受けるならよし」
蜜秋は静かに棍を見つめる。
「さもなくば――塵にしてくれよう、だとさ」
その声は穏やかだった。
だが、言葉の奥に秘められた凄みを感じ取り、桃華は黙って蜜秋を見つめた。
やがて蜜秋は顔を上げる。
「要石が壊れたせいで、あいつらまで力を得たっていうなら」
桃華へ視線を向けた。
「私にも他人事じゃないね」
「では……」
「まだ、あんたの旅に付き合うとは言ってないよ」
蜜秋は片手を上げ、桃華の言葉を遮った。
「まずは独角鬼王を片付ける⋯⋯話はそれからさ」
金時が不満そうに眉を寄せる。
「ここまで聞いて、まだ仲間にならぬのか」
「私は用心深いんだよ」
「ならば、酒をもう一杯飲め。飲めば腹も決まる」
「それは酒飲みの理屈だろ」
蜜秋が呆れたように言った、その時だった。
開け放たれていた窓から、小さな影が飛び込んできた。
「キッ!」
一匹の小猿が、蜜秋の膝の上へ着地する。
続いて二匹、三匹。
小猿たちは興奮したように身振り手振りを交え、蜜秋へ何かを伝え始めた。
蜜秋は黙って耳を傾ける。
「そうか」
その瞳が鋭くなる。
「見つけたんですね」
「ああ」
蜜秋は立ち上がり、壁へ立て掛けていた棍を手に取った。
「町外れの廃寺だ。独角鬼王たちは、そこへ逃げ込んだ」
金時も大斧を担ぎ上げる。
「ならば、さっそく出向くとするか」
「もう日が暮れます」
桃華が窓の外へ目を向ける。
「夜の方が都合がいい」
蜜秋は笠を被り直し、口元へ笑みを浮かべた。
「鬼は闇に隠れたつもりで、油断するからね」
桃華も《桃光》を腰へ差し直す。
三人は部屋を出ようとした。
その背中へ、旅籠の主人が慌てて声を掛ける。
「き、金時様! 夕餉はどうなさいますか!」
金時は立ち止まり、膳の上に残された料理を名残惜しそうに振り返った。
「……下げずに、そのまま置いておいてくれ。帰ったら食う」
蜜秋が吹き出す。
「鬼退治より先に、飯の心配かい」
「腹が減っては戦はできんのじゃ」
金時は胸を張った。
桃華と蜜秋は顔を見合わせ、同時に笑った。
夜の帳が、宿場町へ降り始めていた。




