第7話 知らない名前じゃなかった
翌朝、雨は上がっていた。
道路の端にはまだ水が溜まり、登校する自転車が通るたび細いしぶきが上がる。雲の切れ間から差す光は白く、濡れたアスファルトと土の匂いが混じって、いつもの住宅街が少しだけ違う場所に見えた。
透は家を出る前に、昨夜のメッセージをもう一度確認した。
《私じゃなくて坂東に聞いて》
《坂東祐生?》
《そう》
《もう私に連絡しないで》
それ以上はない。
梶原芽衣がなぜ坂東へ話を振ったのか。
奈緒の名前を出しただけで、なぜあそこまで拒絶したのか。
分からない。
分からないものは一度横へ置く。
そうするつもりだった。
玄関を出ると、ひかりが門の前にいた。
「遅い」
「二分」
「待ってる側の二分は長いの」
「待ってないって前に言ってたろ」
「言ってない」
「言ってた」
「記憶違い」
「便利だな」
ひかりが傘を閉じながら笑う。
見慣れた顔。
見慣れた声。
その向こうに昨日までなかったものを探している自分に気づき、透は一度視線を外した。
「何」
ひかりが聞く。
「別に」
「今、なんか見てた」
「髪」
「髪?」
「はねてる」
ひかりが慌てて後頭部へ手を伸ばした。
「どこ」
「もう直った」
「絶対嘘」
「本当」
「透の本当、信用ならない時あるから」
軽い言い方だった。
それなのに、その言葉だけ胸の内側へ残った。
学校へ向かう途中、透は坂東祐生のことを聞こうか迷った。
ひかりも同じ中学だった。
知っているかもしれない。
けれどその質問をすれば、奈緒の録音を調べていることも説明しなければならなくなる。
今の段階で話しても、根拠が薄すぎる。
奥村。
梶原。
坂東。
ただ名前が並んだだけだ。
ひかりに余計な不安を与える必要はない。
そう考えた。
それが本当に理由の全部なのかは、自分でも分からなかった。
昼休み。
透は図書室の奥にある閲覧席へ座っていた。
クラスでは文化祭の出し物について話し合っていたが、係でもない透は早々に抜けた。
スマートフォンの画面には検索結果。
坂東祐生。
同姓同名は何人かいる。
昨夜見つけた卒業アルバムの顔と照らし合わせる。
一人、近隣の県立工業高校の制服を着た写真があった。
同じ顔。
たぶん本人。
公開されている情報は少ない。
所属している部活。
文化祭の告知。
友人との写真。
どれも普通だった。
奈緒の名前はない。
奥村も梶原も出てこない。
透は画面を閉じた。
「こんなところで何してんの」
声に顔を上げる。
ひかりが立っていた。
手には購買のパンと紙パックのミルクティー。
「探した?」
「別に」
「じゃあなんでここにいる」
「静かだから」
「それ、私に言う?」
ひかりが向かいへ座る。
袋を開ける音が静かな図書室では妙に大きかった。
「それ何」
透のスマートフォンへ視線が落ちる。
「調べもの」
「文化祭?」
「違う」
「勉強?」
「違う」
「じゃあ何」
「なんでそんな気になるんだよ」
言ってから少し強かったと思った。
ひかりの手が止まる。
パンの袋を指で押さえたまま、透を見る。
「聞いただけ」
「ごめん」
「別にいいけど」
その後の沈黙が、図書室の静けさとは別のものになった。
窓の外では雲が切れ始め、濡れた校庭に薄い陽が落ちていた。古い本とワックスの匂いの中へ、ひかりが開けたパンの甘い匂いだけが混じる。
「透」
「何」
「奈緒のこと、調べてる?」
透の指がスマートフォンの縁で止まった。
顔を上げる。
ひかりは笑っていなかった。
「どうして」
「昨日から変だから」
「変って」
「それ聞く?」
「分かんないから」
ひかりはミルクティーのストローを差しながら、目を落とした。
「奥村君が死んでから、ずっと何か考えてる」
透は答えなかった。
ひかりの中で、何かが繋がり始めている。
そんな気がした。
「ねえ」
ひかりがもう一度言う。
「二年前のこと、調べてる?」
透は一度だけ息を吸った。
「少し」
ひかりの手が止まった。
「少しって?」
「まだ何も分かってない」
「何を知ろうとしてるの」
「それもまだ」
嘘ではない。
ただ、ほとんど何も答えていないのと同じだった。
ひかりはしばらく透を見ていた。
その視線に耐えられなくなり、透は窓へ目を向ける。
「坂東祐生って覚えてる?」
結局、聞いた。
ひかりが眉を寄せる。
「坂東?」
「中学の時、奈緒と同じクラスだった」
「ああ……いたね」
「どんな奴だった」
「そんなに話したことない。なんで?」
透は返事をしなかった。
ひかりの顔から少しずつ表情が消えていく。
その変化を見ながら、透は自分が何かを間違えている気がした。
けれど何を間違えているのかまでは分からなかった。
放課後。
ひかりは一人で校門を出た。
透は図書委員の仕事があると言った。
本当かどうかを疑った自分に、少し腹が立つ。
今までならそんなことを考えなかった。
透が図書室にいる。
透が誰かを調べている。
透が奈緒の名前を出す。
それだけなら何もおかしくない。
奥村が死ぬ前に言っていた。
二年前のことを調べている奴がいる。
その言葉が勝手に透の背中へ重なってしまう。
違う。
たぶん違う。
でも、じゃあ何を調べているのか。
本人に聞いた。
答えてくれなかった。
ひかりは歩きながら、スマートフォンを取り出した。
奥村とのトーク画面。
《やっぱり、忘れて》
そこから下は増えていない。
画面を閉じる。
少しだけ風が冷たかった。
家へ向かう途中、信号が赤になる。
立ち止まる。
道路の向こうに夕日が残っている。
車が一台、二台と目の前を通る。
青になるのを待ちながら、ひかりは思った。
奥村が言っていた人。
二年前を調べている人。
もしそれが透だったら。
信号が青になった。
それでもひかりは一歩目が遅れた。




