第5話 残っていたもの
その日の帰り道、二人はいつもよりゆっくり歩いた。
どちらが速度を落としているのか分からない。
駅へ向かう学生の列から外れ、住宅街へ入る頃には西日が家々の壁を赤く染めていた。昼間より風が強く、どこかで剪定された葉の青臭い匂いが漂っている。電線の影が道路を斜めに横切り、その上を二人の靴が交互に踏んでいった。
「警察、何聞いた?」
透がようやく言った。
「昨日のこと」
「奥村と何話したか?」
「うん」
ひかりはそこで口を閉じた。
透は横を見ない。
前を向いたまま、
「昨日、昔の中学の話って言ってたよな」
「言った」
「宮前のこと?」
ひかりの足がほんの少し遅れた。
「警察に聞いた?」
「先生が名前出してた」
嘘ではなさそうだった。
透は続ける。
「奥村、なんで今さら宮前の話を?」
ひかりは答えを知っている。
二年前を調べている誰かがいる。
奈緒が自分に話したと言っていた。
何か預かっていないか。
そこまで言えばいい。
もう奥村は死んでいる。
大庭にも話した。
なら透にも話していいはずだった。
それでも、
「私にもよく分かんない」
という言葉が先に出た。
透の靴音が一度止まる。
ひかりも止まった。
夕日が透の顔の半分だけを照らしている。
「分かんない?」
「奥村君、変だったから」
「変って?」
聞かれるたび、答えが狭くなる。
昨日の自分と同じだった。
約束を守りたいのか。
透に知られたくないのか。
自分でも線が分からなくなってきた。
「怖がってるみたいだった」
「何を?」
「分かんない」
透は少しだけ眉を寄せた。
それ以上聞かなかった。
まただ。
ひかりは鞄の紐を握り直す。
聞いてほしいわけではない。
でも諦められると、少しだけ置いていかれたような気がする。
「透」
「何」
「何でもない」
自分で言っておいて、馬鹿みたいだった。
透は一度こちらを見て、また歩き出した。
夜。
透は机の前に座っていた。
教科書は開いたまま。
数学の問題集も出してある。
けれど十五分ほど同じページから動いていない。
奥村。
宮前奈緒。
ひかり。
三つの名前が頭の中で近づいたり離れたりする。
ひかりが何かを隠していることは分かる。
何を隠しているのかは分からない。
透は机の引き出しを開けた。
中には細いドライバー。
半田ごての替え。
使わなくなったイヤホン。
小さな基板。
USBケーブル。
昔から壊れた物を捨てるのが苦手だった。
直るかもしれないと思う。
直らなければ、それはそれでなぜ壊れたのか知りたくなる。
引き出しの奥に、小さな透明ケースがある。
透は手を止めた。
何年も開けていない。
正確には二年。
ケースの中には古いICレコーダーが入っていた。
黒いプラスチックの筐体。
右上に小さな傷。
宮前奈緒の物だ。
透は椅子へ深く座り直した。
奈緒がこれを持ってきたのは、死ぬ少し前だった。
「野崎って、こういうの直せる?」
放課後の技術室。
奈緒はそれほど親しい相手ではなかった。
同じ学年。
クラスは違う。
ただ透が壊れたイヤホンやゲーム機を直していることを知っていたらしい。
電源が落ちる。
録音すると途中で止まる。
そんな症状だった。
透は一度分解し、接触の悪い部分を直した。
中の録音を聞く理由はなかった。
動作確認用に新しく数秒録音し、それが再生できることだけ確認して返した。
奈緒は、
「助かった」
と言って持って帰った。
その後、死んだ。
しばらくして奈緒の母親が家へ来た。
母親同士も顔見知りだった。
遺品整理の途中、
「これ、透君が直してくれた物みたいで」
とレコーダーを持ってきた。
奈緒が使っていたものを全部処分する気にはなれない。
けれど自分では中を見るのもつらい。
そんな話をしていた。
透は受け取った。
ただ、それきり触らなかった。
死んだ人の声が残っているかもしれない物を、勝手に再生していいのか分からなかったからだ。
そして二年。
奥村が死ぬまで忘れていた。
いや。
忘れていたというより、見ない場所へ置いていた。
透はレコーダーを手に取った。
軽い。
こんなに軽かっただろうか。
電源ボタンを押す。
反応しない。
電池を替える。
液晶が一瞬だけ薄く光り、消えた。
透は息を吐いた。
「また壊れてるじゃん」
誰に言うでもなく呟く。
その声だけが部屋へ落ちる。
窓の外は暗い。
隣のひかりの部屋には灯りがついていた。
カーテンは閉まっている。
透は少し考え、机の上へ工具を並べた。
奥村がひかりに聞いた。
奈緒のこと。
ひかりは何かを隠している。
そして奈緒が使っていた機械が今、自分の手元にある。
偶然に見える。
そう思った瞬間、透は手を止めた。
偶然だからこそ、勝手に意味を付けるのは危ない。
そんなことは分かっている。
でも、開けずにはいられなかった。
小さなネジを外す。
一本。
二本。
ケースを浮かせると、古い電子部品の乾いた匂いがした。
基板の一部が白く曇っている。
以前直した場所とは違う。
水分が入った跡。
透はライトを近づける。
データメモリそのものが無事かどうかは分からない。
もし壊れていたら、それで終わり。
もし残っていたら。
何が。
そこまで考えて、透は一度ドライバーを置いた。
スマートフォンを取る。
ひかりとの画面を開く。
《宮前から何か預かってた?》
打つ。
しばらく見る。
消した。
代わりに、
《明日数学の追試らしい》
と送る。
すぐ返事。
《私関係ない》
《点数危なかったろ》
《危なくない》
《72》
《覚えてるの気持ち悪い》
透は少し笑った。
それから机の上のICレコーダーを見る。
笑いはすぐ消えた。
もし何か残っていたとしても。
ひかりに言うのは、確認してからでいい。
その判断が正しいと思った。
少なくとも、その時は。




