第4話 昨日まで生きていた人
朝、ひかりはスマートフォンのアラームより先に目を覚ました。
何か音がした気がした。
けれど部屋は静かで、カーテンの隙間から細い光が床へ落ちているだけだった。昨夜少し開けたままにした窓から、乾いた朝の空気と遠くを走る車の音が入ってくる。
枕元のスマートフォンを手に取る。
六時二十三分。
通知が三件。
クラスのグループ。
母親からの買い物についてのメッセージ。
もう一つ。
昨夜、自分から送った、
《大丈夫?》
その下に既読はついていなかった。
奥村亮介。
ひかりはしばらく画面を見てから、もう一度送ろうとしてやめた。
昨夜の、
《やっぱり、忘れて》
という言葉がまだ残っている。
忘れてと言われたものほど、頭から離れない。
「忘れて」と言った相手の方が、忘れたいのかもしれない。
そんなことを考えながらベッドを出た。
階下から味噌汁の匂いが上がってくる。
いつもの朝だった。
それなのに制服へ袖を通しても、髪を結び直しても、何か一つだけ置き忘れている気がした。
玄関を出る。
隣の家から透もちょうど出てきた。
「おはよ」
「おはよう」
透はひかりの顔を一度見てから、靴の踵を直した。
「寝不足?」
「分かる?」
「目」
「失礼」
「昨日遅かった?」
「普通」
答えてから、自分で少しだけ引っ掛かった。
また狭い答え方をした。
透はそれ以上聞かなかった。
二人で歩き出す。
朝の住宅街はまだ日陰が多く、植木へ残った露が白く光っていた。どこかの家で焼いているパンの匂いが薄く流れ、新聞配達のバイクが角を曲がっていく。空は高く晴れていて、昨日より少しだけ秋に近づいたような色をしていた。
「数学の小テスト」
透が言った。
「覚えてる」
「ほんと?」
「昨日メッセージ来たから」
「送ってない」
ひかりが足を止める。
透も止まった。
「送ったよ」
「送ってない」
スマートフォンを出して確認する。
《明日数学小テスト》
昨日のやり取りにちゃんとある。
ひかりが画面を見せると、透は小さく眉を上げた。
「ああ、一昨日」
「昨日でしょ」
「日付変わる前だから昨日か」
「そこ重要?」
「別に」
透が歩き出す。
ひかりは少し笑った。
こういうどうでもいい会話をしている間だけ、昨夜の奥村が頭の外へ出ていく。
学校へ着くまでは、そうだった。
昇降口が妙に静かだった。
声がないわけではない。
むしろ人は多い。
けれど普段なら聞き流している小さな声が、今日はひとつの場所へ集まっている。
「らしいよ」
「朝見つかったって」
「同じ学校?」
「二年の……」
ひかりの足が少し遅くなった。
前を歩いていた透も気づいたらしく、振り返る。
その時だった。
クラスの女子がこちらへ走ってきた。
「中原」
声が少し裏返っている。
「奥村君と昨日話してたよね?」
心臓が一度だけ強く鳴った。
次が来ないような変な間があった。
「うん」
自分の声が思ったより普通に出た。
女子は口を開き、閉じた。
「奥村君……死んだって」
ひかりは何を聞いたのか分からなかった。
言葉は聞こえた。
意味だけが追いつかない。
「え?」
「今朝、河川敷の近くで見つかったって。まだ詳しく分かんないけど」
誰かが後ろから、
「警察来てる」
と言った。
靴箱の扉が閉まる音がした。
金属の音がやけに大きく響いた。
ひかりは右手に上履きを持ったまま、そこから動けなかった。
昨夜の画面が浮かぶ。
《やっぱり、忘れて》
《大丈夫?》
既読はつかなかった。
それが、もうつくことはない。
「ひかり」
透の声だった。
返事をしようとしたが、喉の奥に薄い紙のようなものが貼り付いている。
一度唾を飲む。
「昨日……会った」
自分でも分かっていることを言った。
透は何も返さない。
ひかりの顔を見ている。
その視線から逃げるように、ひかりは上履きを履いた。
右足。
左足。
ただそれだけの動作に妙に時間がかかった。
午前の授業はほとんど進まなかった。
担任が、
「憶測で話を広げないように」
と何度か言った。
その言葉が出るたび、クラスでは誰かがスマートフォンを机の下へ隠した。
奥村の死亡について学校が説明したのは、ごくわずかなことだけだった。
今朝、校外で亡くなっているのが見つかった。
警察が調べている。
詳しいことはまだ分からない。
それだけ。
ひかりのノートには、数学の式が二行だけ書かれている。
三行目から先は白い。
教師の声を聞いていたはずなのに、気づくと昨夜のファミレスへ戻っている。
奥村が潰していたストローの袋。
ドリンクバーしか頼まなかったこと。
「一人で見ない方がいい」
あの言葉。
何を知っていたのだろう。
どうして自分に聞いたのだろう。
そして何を忘れてほしかったのか。
「中原」
教師に呼ばれ、顔を上げた。
教室中の視線が集まっている。
「職員室へ」
一瞬、何のことかと思った。
けれど担任の横に立っている女性を見て分かった。
スーツ。
肩につかないくらいの髪。
学校の教師ではない。
女性はひかりと目が合うと、軽く頭を下げた。
応接室は窓が少ししか開いておらず、古いソファと紙の匂いがした。
昼前の陽射しがレースカーテン越しに入っているのに、部屋の中だけ温度が低い。
女性は向かいへ座った。
「大庭佳澄です。警察の者です」
身分証を見せる。
ひかりは反射的に姿勢を正した。
「そんなに固くならなくていいよ」
言い方は柔らかかったが、目は笑っていなかった。
怖いというより、見落とさない目だと思った。
机の上には小さなノートが一冊。
「昨日、奥村亮介さんと会ってるね」
「はい」
「何時くらい?」
ひかりは時計を思い出す。
ファミレスへ入った時間。
出た時間。
透へ《終わった》と送った時刻。
「五時半くらいから……六時半前までだと思います」
大庭は書いた。
「どこで?」
「駅前のファミレスです」
「どうして会ったの?」
そこで指が止まった。
ひかりは奥村の顔を思い出した。
誰にも言わないで。
ほんの一瞬、昨夜と同じ答えを選びそうになった。
昔の中学の話。
それで通せるだろうか。
でも目の前にいるのは透ではない。
奥村は死んだ。
「二年前に亡くなった同級生のことで」
大庭の視線が少し変わった。
「名前は?」
「宮前奈緒」
大庭はその名前を書いた。
「どんな話をした?」
ひかりの膝の上で指が重なる。
奥村との約束。
守る相手はもういない。
それでも約束だけが残っているのが不思議だった。
「最近……二年前のことを調べてる人がいるって」
「誰が?」
「奥村君も知らないって言ってました」
「ほかには?」
「奈緒から何か預かってないかって聞かれました」
大庭のペンが止まる。
「預かってる?」
「いえ」
「本当に?」
昨日も同じ聞き方をされた。
ひかりは少しだけ背中を伸ばした。
「何も預かってません」
大庭は数秒ひかりを見て、それから頷いた。
「最後に会った時、奥村さんの様子は?」
「怖がってたと思います」
「何を?」
「それが分からなくて」
本当だった。
分からないことばかりだった。
「別れた後に連絡は?」
ひかりはスマートフォンを出した。
大庭へ昨夜の画面を見せる。
《やっぱり、忘れて》
《大丈夫?》
大庭は勝手に触れず、
「少し見せてもらっていい?」
と確認してから端末を受け取った。
しばらく画面を見る。
「この前に何か消した?」
「私ですか?」
「どちらでも」
「私は消してません。奥村君が消したかは分からないです」
大庭がスマートフォンを返した。
「ありがとう」
それで終わりかと思った。
立とうとすると、
「中原さん」
呼び止められる。
「野崎透君とは親しい?」
胸の中で何かが軽く引っ掛かった。
「幼馴染です」
「昨日も一緒にいた?」
「奥村君に声を掛けられるところまでは」
「奥村さんとの話を、野崎君には?」
ひかりは黙った。
大庭は急かさなかった。
「全部は話してません」
「どうして?」
「奥村君に、誰にも言わないでって頼まれたから」
「今も?」
ひかりは答えられなかった。
大庭はノートを閉じる。
「秘密を守ることと、必要なことを話さないことは、時々すごく似て見えるから」
説教のような口調ではなかった。
ただ置いただけの言葉だった。
「今日はありがとう。また聞くかもしれない」
ひかりは頭を下げ、応接室を出た。
廊下は昼休みに近く、教室から椅子を引く音が聞こえていた。
少し先の窓際に透がいた。
壁へ寄りかかっている。
待っていたらしい。
ひかりを見ると、すぐに体を起こした。
「大丈夫?」
同じ言葉だった。
昨夜、自分が奥村へ送ったのと。
ひかりは一瞬返事が遅れた。
「うん」
透は何か言いかける。
その時、階段を上がってきた男子生徒が二人の横を通った。
三年生。
一人が、
「宮前って、二年前に自殺した子だろ」
と友人へ言った。
もう一人が答える前に、その後ろを歩いていた青砥伊吹がほんのわずかに足を緩めた。
ほんの一拍。
すぐに通り過ぎたので、透もひかりも気に留めなかった。
「帰り」
透が言った。
「一緒に帰る?」
ひかりは頷いた。
奥村が死んだ日にも。
こんな時にも。
その言葉を少し嬉しいと思った自分が嫌だった。




