第3話 明日でいい
家へ帰ると、母親が夕食を温め直してくれた。
ひかりは「食べてきた」と嘘をつくほど器用ではなかったので、ファミレスでほとんど手を付けなかったパスタのことは言わず、普通に食卓へ座った。
味噌汁から湯気が上がる。
焼き魚の皮が少し焦げていて、醤油と大根おろしの匂いが鼻へ届いた。窓は少し開いており、網戸越しに夜の湿った空気が入ってくる。遠くでバイクの音がして、それが消えると家の中は急に静かになった。
母親がテレビを見ながら何か話している。
ひかりは相槌を打った。
内容はほとんど頭に入らなかった。
奥村。
奈緒。
二年前のことを調べている誰か。
自分には話してあると奈緒が言った。
どれも一つずつなら大したことではない気がする。
並べると形が変わる。
箸の先で米粒を一つ取る。
奈緒が最後に自分へ声を掛けてきた日のことを思い出した。
放課後だった。
教室の窓から入る光が強く、机の傷まで白く浮いていた。
奈緒は廊下の壁に背を付け、スマートフォンを両手で持っていた。
「中原さん、今日ちょっと時間ある?」
その頃は名字で呼ばれていた。
「今日?」
ひかりは鞄の中を確認しながら答えた。
塾があった。
遅刻しても怒鳴られるわけではない。
ただ、その日は小テストもあった。
「長くなる?」
「分かんない」
奈緒は笑った。
困った時の笑い方だったのだと、今なら分かる。
その時は分からなかった。
「明日でもいい?」
ひかりが聞くと、
奈緒は少し考えて、
「うん。じゃあ明日」
と言った。
明日は来なかった。
正確には来た。
ただ奈緒がいなかった。
ひかりは味噌汁を飲んだ。
ぬるくなっていた。
「ひかり、聞いてる?」
「聞いてるよ」
「じゃあ何の話してた?」
「……ごめん」
母親が呆れた顔をした。
「疲れてるなら先にお風呂入ってきなさい」
「うん」
食器を流しへ運び、階段を上がる。
自室へ入ってカーテンを閉めようとした時、隣の家の窓に灯りが見えた。
透の部屋。
距離は数メートルしかない。
小学生の頃、窓から紙飛行機を投げ合ったことがある。
途中から面倒になってメッセージアプリに変わった。
ひかりはカーテンへ伸ばした手を止めた。
奥村との約束。
誰にも言わない。
透にも。
スマートフォンを手に取る。
トーク画面には、さっきのやり取りが残っている。
《アイス買うなら待つけど》
その上には学校で撮った文化祭案の写真。
さらに上には、
《明日数学小テスト》
《知ってる》
《忘れてそうだから》
《お前が忘れるだろ》
そんなものばかり。
重大な話なんて、ほとんどしたことがない。
必要がなかった。
隣にいれば、そのうち分かる。
ひかりは長い間そう思っていた。
画面の入力欄へ、
《今日、奥村君から奈緒の話された》
と打った。
送信ボタンへ親指を置く。
奥村の「誰にも言わないで」が浮かぶ。
一度消した。
《透って奈緒のことで何か知ってる?》
今度はそこまで打った。
また消す。
自分でも何を聞きたいのか分からなかった。
窓の向こうで人影が動いた。
透がカーテンを少し開けた。
目が合った。
ほんの数秒。
透がスマートフォンを持ち上げる。
すぐにひかりの手の中が震えた。
《何》
ひかりは吹き出した。
《何が》
《ずっとこっち見てる》
《自意識過剰》
《窓の正面に立ってたけど》
《カーテン閉めようとしてただけ》
数秒。
《奥村の話、長かった?》
指が止まった。
透は昔から妙なところを覚えている。
誰と話した。
何時頃だった。
昨日何を買った。
本人には記憶している意識すらないのだろう。
ひかりは、
《別に》
とだけ返した。
送った直後に少し嫌な感じが残った。
嘘ではない。
長かったかどうかを聞かれただけ。
それでも、何かをわざと狭く答えた。
透から次のメッセージが来る。
《何の話だった?》
ひかりは画面を見つめた。
奥村との約束を破りたくない。
それだけ。
透を信用していないわけではない。
むしろ逆だった。
透なら話してしまっても大丈夫な気がするからこそ、それをやったら奥村との約束が軽くなる。
《昔の中学の話》
送信。
今度は既読がついても返信が来なかった。
カーテンの向こうを見る。
透の部屋の灯りはそのままだった。
ひかりはようやくカーテンを閉めた。
その夜、ベッドへ入ってからもなかなか眠れなかった。
エアコンは切っている。
窓の外から虫の声が聞こえ、少し開けた窓から夜気が頬へ触れる。昼間の熱を残したシーツはまだぬるく、寝返りを打つたびに布が肌へまとわりついた。
奈緒の顔を思い出す。
「明日でもいい?」
自分がそう言った。
奈緒は、
「うん」
と言った。
あの時もう少し話していれば。
その考えは二年前に何度もした。
意味がないと分かってから、しなくなった。
だから今になって戻ってくるとは思わなかった。
枕元のスマートフォンが光る。
奥村からだった。
ひかりは体を起こした。
《さっきの話だけど》
その下に入力中の表示が出る。
消える。
また出る。
しばらくして届いた。
《やっぱり、忘れて》
ひかりは画面を見た。
何を、と打ちかける。
送らない。
代わりに、
《大丈夫?》
と送った。
既読はつかなかった。
暗い部屋の中で、スマートフォンの白い光だけが指先を照らしている。
ひかりはもう一度、隣の家の方を見た。
壁がある。
窓もカーテンも閉じている。
透は数メートル先にいる。
こんなに近いのに、今夜だけは妙に遠かった。




