第2話 知らないままでいいこと
奥村と話すことになった場所は、駅前のファミリーレストランだった。
ひかりが選んだ。
人気のない場所へ行く理由もないし、二年ぶりにまともに話す相手と二人きりになるなら人の多い方がいい。
店内へ入ると冷房がまだ強く効いていた。外を歩いて汗ばんでいた腕がすぐに冷え、ドリンクバー付近から甘いシロップとコーヒーの匂いが混ざって流れてくる。窓の外では夕日が建物の間へ沈みかけ、テーブルの縁だけが橙色に照らされていた。
奥村は窓側。
ひかりは向かいへ座った。
店員が水を置き、注文を聞いて去るまで、奥村は奈緒の名前をもう一度出さなかった。
ひかりも急かさなかった。
人が話したくないことを無理に言わせても、たぶん本当のことは出てこない。
そういうことを昔から何となく知っている。
代わりに水を一口飲んだ。
グラスの表面についた水滴が指へ付く。
「急にごめん」
ようやく奥村が言った。
「いいけど。奈緒のことでって、何?」
「中原ってさ」
奥村は一度そこで切った。
ストローの袋を指先で折り曲げる。
「宮前と仲良かった?」
「仲良かったっていうか……普通に話すくらい」
「相談とかされた?」
ひかりの指が止まった。
「なんで?」
「されたかどうかだけ教えて」
「それが奈緒の話?」
奥村は目を上げなかった。
「宮前って、死ぬ前に何か言ってなかった?」
店内の音が一度遠くなった気がした。
隣の席で子どもが笑っている。皿の触れ合う音。コーヒーマシンが低く唸る音。
全部あるのに、奥村の言葉だけがそこから浮いていた。
奈緒が死んだ。
二年前。
誰もその言葉を口にしたがらなくなった頃には、ひかりも口に出さなくなっていた。
忘れたわけではない。
忘れていないことを毎日確認する必要がなくなっただけだ。
「どうして今それ聞くの」
ひかりが言った。
奥村はしばらく黙っていた。
「最近、二年前のことを調べてる奴がいる」
「誰?」
「分からない」
「分からないのに、どうして調べてるって分かるの」
奥村が初めて顔を上げた。
「俺のところに来たから」
「誰が?」
「だから分からないんだって」
ひかりは眉を寄せた。
「それじゃ何も分からないよ」
「直接来たって意味じゃない」
奥村は声を落とす。
「二年前のこと知ってるみたいな連絡が来たんだよ」
「どんな?」
「それは……」
また止まる。
ひかりは待った。
数秒。
奥村は結局言わなかった。
「宮前が死ぬ前、俺たちに言ったんだ」
「何を?」
「中原には話してあるって」
ひかりは言葉を返せなかった。
奈緒から話を聞いたことはある。
でも「全部」ではない。
少なくとも自分ではそう思っている。
放課後の廊下で呼び止められた。
匿名のアカウントのことで少し困っている。
自分の知らないところで、誰かが人の話を集めている。
そんな話だった。
それ以上は、
また今度。
そうなった。
その「今度」が来なかった。
「奈緒がそう言ったの?」
「うん」
「私には、そんなに詳しく話してないよ」
「本当に?」
ひかりの胸の奥で小さなものが引っ掛かった。
質問の仕方が嫌だった。
確かめたいというより、疑っているように聞こえた。
「本当」
奥村はひかりの顔を見ていた。
いつもの彼をよく知っているわけではない。
それでも学校で見る奥村なら、こんなふうに相手の目を何秒も見続けるタイプではなかった気がする。
「何か預かってない?」
「何かって?」
「ノートとか、USBとか。スマホのデータとか」
「ないよ」
即答した。
これは本当だった。
奈緒から物を預かったことはない。
奥村の肩がほんの少し下がった。
安心したようにも見えた。
それが逆に妙だった。
「奥村君」
「何」
「奈緒に何があったの」
奥村の喉が動いた。
「自殺だろ」
「それは知ってる」
「なら、それで終わりじゃん」
声が少し強くなった。
ひかりは何も言わずに彼を見た。
奥村も気づいたらしい。
視線を外す。
「ごめん」
「誰かに何か言われてるなら、警察に相談したら?」
「そんな大げさな話じゃない」
「怖いんでしょ」
奥村の指がストローの袋を潰した。
その音だけがやけに近かった。
「別に」
「じゃあ、どうして私に聞いたの」
返事はなかった。
料理が運ばれてきた。
注文したばかりなのに、ずいぶん時間が経った気がした。
ひかりの前にはパスタ。
奥村の前には何もない。
そういえば彼はドリンクバーしか頼んでいなかった。
食べるつもりで来たのではないらしい。
ひかりはフォークへ手を伸ばせなかった。
「この話さ」
奥村が言った。
「誰にも言わないで」
「誰にも?」
「うん」
「先生とかも?」
「特に」
「警察は?」
奥村は答えなかった。
ひかりは息を吐いた。
奈緒もそうだった。
誰にも言わないで。
少し相談したい。
でも大げさにはしたくない。
あの日も確か、そんな感じだった。
ひかりはテーブルの下で手を握った。
「分かった」
奥村がようやく顔を上げる。
「ほんと?」
「でも何かあったら、その約束は守らないから」
「中原って昔からそういうとこあるよな」
「何それ」
「いや」
奥村は少しだけ笑った。
やっと学校で見る顔に戻った。
その瞬間だけ、ひかりも肩から力を抜いた。
会計を別々に済ませ、店を出る。
外はもう薄暗かった。
昼間の熱が引き、駅前を抜ける風には冷たさが混じっている。飲食店の換気扇から焼いた肉の匂いが流れ、信号待ちの車のライトが濡れてもいない道路へ細長く伸びていた。
「じゃあ」
奥村が言った。
「うん」
ひかりは数歩進んだ。
後ろから、
「中原」
呼び止められる。
振り返る。
奥村は店の前に立ったままだった。
「もし何か持ってるなら」
「持ってないって」
「分かってる」
奥村は自分で言ったことを後悔したように口元を歪めた。
「もし、後から何か見つけても、一人で見ない方がいい」
「どういう意味?」
けれど奥村はそれ以上答えなかった。
「じゃあな」
片手を上げ、駅の方へ歩いていく。
ひかりはその背中をしばらく見ていた。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
透からだった。
《終わった?》
たった四文字。
ひかりは画面を見たまま、少しだけ口元を緩めた。
《終わった》
送る。
すぐ既読がついた。
《アイス買うなら待つけど》
ひかりは笑いそうになった。
奥村の言葉がまだ頭の中に残っているのに、透のメッセージだけはいつもと同じだった。
それがありがたい。
同時に、少し怖かった。
《先帰ってて。今日はいい》
送信した。
今度は、既読がつくまで少し時間がかかった。




