第1話 幼馴染だから
「また一緒に帰るの?」
昇降口を出たところでそう言われ、野崎透は靴紐を結び直していた手を止めた。
声の主は同じクラスの男子だった。名前を呼ぶほどでもない距離の友人で、片手には自販機で買った炭酸飲料を持っている。
「またって何だよ」
透が立ち上がると、その友人は校門の方へ顎を向けた。
中原ひかりがいる。
少し先で女子二人と話しながら、こちらを待っているようにも見えないし、本当に待っていないようにも見える微妙な場所に立っていた。肩まで伸びた髪が風に押され、頬へかかったそれを指で払っている。
九月も終わりに近いのに、昼間の熱が校舎の壁やアスファルトに残っていた。グラウンドから乾いた土の匂いが風に乗り、昇降口の屋根が作る影だけがひんやりしている。
「中原、待ってんじゃん」
「待ってないだろ」
「毎日それ言うよな、お前」
透は返事をせず、鞄を肩へ掛けた。
その向こうで、ひかりが友人二人と別れた。
一人になった途端こちらを見る。
目が合う。
ほんの一秒ほどだったと思う。
ひかりは当然のように歩いてきた。
「遅い」
「待ってないんじゃなかったのか」
「誰がそんなこと言ったの」
「今、あいつが」
透が後ろを指すと、友人は面倒事を察したように背を向けた。
「最低」
「俺じゃないだろ」
「否定した?」
「何を」
「私が待ってるってこと」
少しだけ考えた。
「した」
ひかりが立ち止まった。
「なんで」
「待ってるように見えなかったから」
「じゃあ何で私はここにいると思ったの」
「帰るから」
「透も帰るでしょ」
「帰る」
「じゃあ一緒じゃん」
話がどこへ向かっているのか分からなくなり、透は校門へ歩き出した。
後ろから靴音が追いつく。
こういうやり取りを何年しているのか、もう数える意味もなかった。
家は隣同士。
小学校へ入るより前から互いの家を行き来していて、朝に顔を合わせれば一緒に学校へ行くし、帰る時間が同じなら一緒に帰る。約束することの方が少ない。
だから周りが勝手に何か言う。
付き合ってるの。
まだ付き合ってないの。
いっそ付き合えばいいのに。
どれも、聞き飽きた。
「野崎、中原」
今度は後ろから女子の声だった。
二人が同時に振り返る。
「ほんとに付き合ってないんだっけ?」
透は反射的に、
「ない」
と言った。
ほとんど同時に、ひかりも、
「違うよ」
と笑った。
声が重なった。
女子は「息ぴったりじゃん」と笑いながら去っていく。
透は前へ向き直った。
数歩進んでも隣から声がしない。
気になって横を見ると、ひかりは前だけを向いていた。
「何」
「別に」
「怒った?」
「なんで」
「静かだから」
「私だって静かな時あるよ」
「珍しいけど」
ひかりが透の腕を軽く叩いた。
痛くはない。
けれどその場所だけ妙に長く感触が残った。
透は制服の袖を意味もなく引っ張った。
さっき「ない」と言った自分の声が耳に残っている。
違う答えがあったわけではない。
付き合っていない。それは事実だ。
なのに声にしてしまうと、何かをわざわざ遠ざけたような感じがした。
隣を見る。
ひかりも同じことを考えていたら面白い。
そんなわけはない。
「今日コンビニ寄る?」
ひかりが聞いた。
「何買うの」
「アイス」
「もう秋だけど」
「暑いからいいの」
「昨日も食べてたろ」
ひかりがこちらを見る。
「なんで知ってるの」
「昨日、家の前で食べてただろ」
「ああ」
ひかりは一瞬だけ黙り、それから妙に納得した顔になった。
「見てたんだ」
「見えるだろ。隣なんだから」
「そういう意味じゃないけど」
「じゃあどういう意味」
「もういい」
また分からなくなった。
透は昔からこういうところがある。
数字や順番なら、並べれば答えが出る。
壊れた機械なら、どこで電気が途切れているのか確かめればいい。
人間の言葉だけは時々、聞いたものと意味が一致しない。
その筆頭が中原ひかりだった。
校門を出る。
西日が低くなり、道路の白線が眩しいほど光っていた。駅へ向かう車の音に混じって、どこかの家から夕食を作る油の匂いが漂ってくる。空はまだ青いのに、建物の影だけがずいぶん長い。
「そういえば文化祭、うちのクラス何やるんだっけ」
ひかりが言った。
「まだ決まってない」
「昨日話してたじゃん」
「案が出ただけ」
「お化け屋敷?」
「準備面倒だろ」
「透、そういうの作るの得意じゃん」
「壊れた機械直すのと、お化け屋敷は違う」
「でも変な音出るやつとか作れるでしょ」
「変な音って何」
ひかりが笑う。
その笑い方を透は昔から知っている。
目の少し下が先に緩み、それから声が出る。
写真ではたぶん分からない。
隣にいる時間が長い人間だけが知っているような、どうでもいい違いだった。
「中原」
前から声がした。
ひかりの笑い声が止まる。
一人の男子生徒が立っていた。
奥村亮介。
同じ高校の二年生だがクラスは違う。
透も名前と顔は知っている。中学も同じだった。明るく人付き合いが広いタイプで、廊下ですれ違えば誰かしらと話している印象がある。
ただ、今日は一人だった。
奥村はひかりを見る。
「今ちょっといい?」
ひかりが首を傾げる。
「私?」
「うん」
奥村の視線が一度だけ透へ動いた。
ほんのわずかな間だった。
「二人で?」
透が聞くつもりはなかった。
口から出ていた。
ひかりがこちらを見る。
奥村も見る。
「いや、その……ちょっと昔の話だから」
「じゃあ私、後で帰るよ」
ひかりが言った。
「透、先帰ってて」
「別に待つけど」
「コンビニでアイス溶けるでしょ」
「まだ買ってない」
ひかりが小さく笑った。
奥村は笑わなかった。
それに気づいてから、透はもう一度彼の顔を見た。
夕日が正面から当たり、片側の頬だけが明るい。
それでも目元には影が残っていた。
奥村は周囲を一度確認してから、ひかりへ少しだけ顔を寄せた。
声を落とす。
透にも聞こえた。
「宮前奈緒のことで、少し話せる?」
ひかりの表情から、さっきまで残っていた笑いが消えた。




