第39話 宮前奈緒の兄
翌朝、青砥伊吹は学校へ来なかった。
そのことを知った時、透は何も言わなかった。
欠席する理由なんていくらでもある。
体調不良。
家の事情。
偶然。
以前なら、その一つだけで黒いファイルへ書き込んでいたかもしれない。
今はしなかった。
昼休み、ひかりと透は並んで購買の列にいた。
「先輩、休みらしいね」
ひかりが小さな声で言う。
「うん」
「気になる?」
「気になる」
「でも調べない?」
透は少し考えた。
「調べない」
ひかりが横を見る。
「成長したね」
「その言い方腹立つ」
「褒めてる」
「聞こえない」
前に並んでいた生徒がパンを買い終え、列が一歩進む。
その時、二人のスマートフォンがほとんど同時に震えた。
大庭からだった。
《放課後、二人とも来て》
短い。
それだけで、ひかりの指が止まった。
警察署の面談室。
大庭は二人が座るのを待ってから、一枚の紙を伏せたまま机へ置いた。
夕方の光はもう弱く、窓の外では街灯が点き始めている。室内にはコピーしたばかりの紙とコーヒーの匂いが残り、暖房の風が足元だけを少し乾かしていた。
「確認が取れた」
大庭が言う。
ひかりの背中が伸びる。
「青砥伊吹君と宮前奈緒さんは、きょうだい」
透は息を吸った。
分かっていたような気がしていた。
でも、誰かの推測と警察が確認した事実は違う。
「父親側の姓が青砥。奈緒さんは母親側の宮前」
朱音が言っていたことと一致する。
「じゃあ」
ひかりが言う。
「青砥先輩が奈緒のお兄さん」
「そう」
大庭は頷いた。
透の中で、何度か聞いた声が戻る。
――頑固だったんじゃない。
――昔、噂で聞いた。
噂ではなかった。
少なくとも、奈緒を知らない人間の言葉ではなかった。
「三人との接触は?」
透が聞く。
大庭が少し目を細める。
「そこまで考えた?」
「奈緒の家族なら、三人に会う理由がある」
「ある」
大庭は伏せていた紙を表へ返した。
細かな内容は黒く伏せられている。
「奥村君の端末に、亡くなる少し前、あるメッセージが届いてた」
大庭が読む。
「『宮前奈緒の家族です。二年前のことで確認したいことがあります』」
ひかりの指が膝の上で固くなる。
「梶原さんにも、似た内容の連絡があった」
「坂東君も?」
透が聞く。
「坂東君には、もっとはっきり」
大庭が紙へ目を落とす。
「『宮前奈緒の兄です。あの日のことで話したい』」
部屋の音が遠くなる。
「全部、青砥先輩?」
ひかりが聞く。
「そこを今詰めてる」
大庭はすぐ線を引いた。
「メッセージだけで本人とは断定しない。ただ、青砥君が使った可能性のある端末やアカウントとの照合を進めてる」
「本人は?」
「今、所在を確認中」
透が顔を上げる。
「学校休んでます」
「知ってる」
大庭の返事は早かった。
「自宅にも捜査員が行ってる」
それ以上、透は聞かなかった。
何かできることはない。
ここから先は警察の仕事だ。
その考えが、以前より自然に頭へ入った。
「奈緒の部屋」
大庭が続ける。
「少し前に、お母さんが引っ越しの準備で本格的に整理を始めてる」
ひかりの視線が上がる。
「二年間、ほとんど触れられなかったものがあったそう」
透は黙って聞く。
「その中にノートや紙が何冊かあった。お母さんは青砥君に渡してる」
「いつ?」
「最初の事件より少し前」
透とひかりは目を合わせた。
始まり。
奥村が言っていた。
最近、二年前を調べている奴がいる。
「そこに三人の名前が?」
透が聞く。
「奥村、梶原、坂東。その三人について書いた断片があった」
大庭が答える。
「四人目は?」
ひかりが聞く。
「名前はない」
二人とも黙った。
やはり。
伊吹は朱音を知らなかった。
少なくとも、そのノートからは。
「青砥先輩は」
ひかりがゆっくり言う。
「今まで奈緒の死に何かあるって知らなかった?」
大庭は少し考えた。
「断定はできない。ただ、家族の話では奈緒さんの死について、自殺という説明を受け入れきれないままでも、具体的に疑う材料は持っていなかったように見える」
透は机を見る。
二年。
妹が死んだ。
理由が分からない。
そして最近ようやく、三人の名前を知った。
その後、三人が死んだ。
線は強い。
強すぎる。
だからこそ、自分たちで答えを決めてはいけない。
透はそう思った。
その時、大庭のスマートフォンが震えた。
画面を見る。
顔が変わる。
「どうしました?」
ひかりが聞く。
大庭はすぐに立った。
「丹羽さん」
ひかりの体が固まる。
「朱音?」
「家にいない」
「え?」
大庭は電話をかけながら部屋を出る。
ひかりも立ち上がった。
透が手首を掴みかける。
触れる直前で止めた。
ひかりも気づく。
二人は大庭が戻るのを待った。
数分。
長かった。
廊下を人が走る音。
扉の向こうで短い声。
ひかりは何度もスマートフォンを見る。
朱音から連絡はない。
大庭が戻ってきた。
「丹羽さん、今日の昼、自分の古い端末からメッセージを送ってる」
「誰に?」
ひかりが聞く。
大庭は答える。
「奈緒さんの家族へ」
朱音の古いスマートフォンには、二年前の連絡先が残っていた。
奈緒が亡くなった後、クラスのグループへ一度だけ共有された家族用の連絡先。
《奈緒の持ち物や、家族へ伝えたいことがある人はこちらへ》
朱音は削除していなかった。
使ったこともなかった。
今日までは。
大庭が画面の写しを二人に見せた。
《二年前のことを全部話したいです》
送信時刻は十三時十二分。
返信は夕方。
《宮前奈緒の兄です》
その一行。
そして、
《あの場所で話そう》
「あの場所」
ひかりの唇が動く。
透も分かった。
旧立体駐車場。
奈緒が落ちた場所。
「朱音はそこへ?」
「お母さんが机に残っていたメモを見つけた」
大庭の声が速くなる。
「場所が書いてある」
ひかりは鞄を掴んだ。
「行きます」
「駄目」
大庭がすぐ止める。
「でも朱音が」
「警察が行く」
「私も」
「中原さん」
「朱音は私にずっと隠してた。でも最後に話した」
声が上ずる。
自分でも分かる。
それでも止められない。
「今度は、勝手に一人で行かせたくない」
大庭が何か言う前に、透が口を開いた。
「俺たちだけでは行きません」
ひかりが見る。
透は大庭を見たまま続ける。
「警察と一緒に行く。勝手に動かない。前にも出ない」
大庭は透を見る。
次にひかり。
数秒。
「私の指示に絶対従う?」
二人とも頷いた。
「勝手に離れない?」
「はい」
「何が見えても走り出さない?」
ひかりは少し遅れて、
「はい」
と答えた。
大庭は息を吐く。
「現場の外まで」
それが限界だった。
二人はそれ以上求めなかった。
車の窓から流れる街は、いつもより速かった。
赤信号。
商店。
住宅。
暗い川。
透とひかりは後部座席に並んでいた。
話さない。
旧立体駐車場が近づく。
ひかりの膝の上で握った手が少し震えている。
透は見た。
手を伸ばしかける。
やめる。
代わりに、
「ひかり」
と呼んだ。
「何」
「勝手に行くなよ」
「透も」
「行かない」
「本当に?」
「本当」
一秒だけ目が合う。
それで十分だった。
車が止まる。
外へ出ると、夜の空気が肺へ入った。
古いコンクリートの匂い。
湿った埃。
遠くの道路を走る車の音。
閉鎖された立体駐車場は、二年前からほとんど使われていない。
入口には規制線が張られていた。
捜査員が先に入っていく。
大庭が二人を振り返る。
「ここから動かない」
「はい」
ひかりが答える。
上の階から、何かが落ちる音がした。
金属。
小さく響く。
ひかりの肩が跳ねる。
透も顔を上げた。
そして。
暗い建物の奥から、朱音の声が聞こえた。
「ひかり!」
一度だけ。
その声で、大庭が走った。
二人も動きかける。
止まる。
約束。
透がひかりの袖を掴んだ。
今度はちゃんと触れた。
「待つ」
透が言う。
ひかりは歯を噛みしめた。
「うん」
待つ。
二人は初めて、その選択をした。




