第40話 本人に聞く
朱音は無事だった。
その言葉を大庭から聞いた瞬間、ひかりは壁へ手をついた。
膝から力が抜けたことに、自分でも少し遅れて気づく。
透も隣で長く息を吐いた。
旧立体駐車場の入口には警察車両が並び、赤色灯が古いコンクリートの柱を一定の間隔で染めていた。夜気は冷たく、湿った埃と錆びた金属、それに長い間動かされていない機械油のような匂いが建物の奥から流れてくる。
「丹羽さんは一つ上の階」
大庭が言った。
「怪我はない」
「青砥先輩は?」
透が聞く。
「一緒にいる。捜査員が確保できる位置には入ってる」
確保。
まだ逮捕とは言わない。
透はそれ以上聞かなかった。
その時だった。
上の階から声が響いた。
「野崎と中原も来てるんだろ」
聞き慣れた声。
教室や廊下で聞けば、ただの先輩の声だった。
青砥伊吹。
大庭が無線へ短く何か伝える。
数秒後、返答。
大庭は二人を見る。
「私から離れない」
「はい」
今度は二人とも迷わなかった。
階段を上がる。
靴底がコンクリートを叩くたび硬い音が返る。
壁には古い雨染み。照明は何本か切れ、白い光と暗がりが交互に続いている。上へ行くほど外の風が入り込み、冷えた空気が制服の隙間から首元へ差し込んだ。
ひかりは手を握った。
自分の手だけでは足りない気がした。
でも透には触れない。
今は前を見る。
踊り場を曲がる。
開けたフロア。
朱音がいた。
女性警察官の横。
灰色のパーカー。
顔色は悪い。
でも立っている。
ひかりを見つけると、朱音の唇がわずかに動いた。
「ひかり」
「大丈夫?」
朱音が頷く。
「ごめん」
「後で」
ひかりはそれ以上言わせなかった。
少し離れた場所に伊吹が立っていた。
黒い上着。
両手は下ろしている。
周囲には複数の捜査員。
逃げようとすれば、すぐ止められる距離。
それなのに伊吹は学校で見る時とほとんど変わらない。
穏やかな顔。
それが一番、現実からずれて見えた。
「奈緒のお兄さんなんですね」
ひかりが聞いた。
伊吹は頷く。
「うん」
「どうして言わなかったんですか」
「聞かれなかったから」
ひかりの眉がわずかに動いた。
嘘ではない。
だから余計に嫌だった。
言わなかったことを、嘘ではない場所へ置く。
自分たちも何度もやった。
「奈緒の部屋を」
伊吹が言う。
「母さんが片付け始めた」
誰も遮らない。
「二年経っても、ほとんどそのままだったんだ。服も。本も。机の引き出しも」
伊吹は遠くを見る。
その視線の先には壁しかない。
「引っ越すことになって、やっと」
少し笑った。
「俺には無理だと思ったんだろうな。母さん、自分で箱へ入れてた」
奈緒が残したもの。
ノート。
紙。
書きかけのメモ。
使い終えた文房具。
捨てていいのか分からないもの。
「一箱だけ渡された」
伊吹の声が低くなる。
「兄ちゃんが持っててって」
透は黙って聞く。
「その中に名前があった」
伊吹がゆっくり並べる。
「奥村亮介」
一つ。
「梶原芽衣」
二つ。
「坂東祐生」
三つ。
朱音が僅かに肩を震わせた。
「朱音の名前は?」
ひかりが聞く。
「なかった」
伊吹は朱音を見る。
「四人目がいるかもしれない、みたいな書き方だけ」
「じゃあ」
透が言う。
「その三人の名前を見て、殺そうと思ったんですか」
伊吹はしばらく透を見た。
「違う」
答えは静かだった。
「最初は、本当に違った」
風が駐車場の奥を抜けた。
どこかで薄い金属板が揺れ、カン、と一度だけ鳴る。
「誰でもよかった」
伊吹が言う。
「三人のうち誰でもいいから、奈緒が死ぬ前に何があったのか教えてほしかった」
透の指先が少し動く。
「警察にも学校にも、自殺だって言われた。母さんも、それ以上調べる気力なんて残ってなかった」
伊吹の目が細くなる。
「俺も何も持ってなかった。疑う理由さえなかった」
そこで初めて奈緒の文字を見た。
三人の名前。
LIE BOX。
先生へ相談。
そして、自分で確かめるという書き残し。
「奥村に連絡した」
伊吹は言った。
「一番最初に名前が多く出てたから」
奥村は最初、会うことを嫌がった。
それでも、
《宮前奈緒の家族です》
と送ると、返事が来た。
伊吹は人の多い場所を選んだ。
殺すためではない。
本当に話を聞くだけのつもりだった。
「俺、何回も自分に言ったんだ」
伊吹が話す。
「決めつけるなって」
透の視線が上がる。
伊吹は気づかない。
あるいは気づいているのかもしれない。
「奈緒のノートだけじゃ分からない。だから本人に聞くって」
最初は、伊吹も同じことをしようとしていた。
奥村の口から聞く。
奈緒に何をしたのか。
何を知っているのか。
「でも奥村は、最初は知らないって言った」
伊吹の声が少し硬くなる。
「宮前? 誰だっけ、みたいな顔した」
朱音が目を伏せる。
「それから、こっちがノートの話をすると少しずつ変わった」
知らない。
覚えていない。
昔の話だ。
ふざけていただけ。
みんな見ていた。
自分だけじゃない。
言葉が一つずつ後ろへ下がっていった。
「最後に」
伊吹の喉が動く。
「『宮前が勝手に落ちたんだろ』って」
誰も動かなかった。
「勝手に」
もう一度。
伊吹の声が低く沈む。
「奈緒が勝手に落ちたって」
朱音が唇を噛む。
「その後、奥村が言った」
伊吹の拳がゆっくり握られる。
「『俺だけが悪いわけじゃない』」
風の音が遠くなる。
伊吹はその時の奥村を見ているようだった。
「そこから先は」
一度言葉を止める。
「最初から決めてたことじゃない」
大庭が静かに聞く。
「奥村君を殺した?」
伊吹は目を閉じた。
「はい」
短い。
「揉み合いになった?」
「最初は」
伊吹は答える。
「言い合いだった」
何度も聞いた。
奈緒を押したのか。
奥村は否定した。
奈緒が勝手に下がった。
自分は止めようとした。
朱音たちもいた。
俺だけじゃない。
その言葉を聞くうちに、伊吹の中で何かが細くなっていった。
「気づいたら」
伊吹は言う。
「戻れないことをしてた」
ひかりは伊吹を見る。
第一の殺人。
最初から用意された復讐ではない。
だから軽いわけでも、許されるわけでもない。
ただ、そこにはまだ偶発の余地があった。
「その時」
透が聞く。
「怖くなかったんですか」
伊吹の目が透へ向く。
「怖かったよ」
即答だった。
「吐いた」
その答えが妙に生々しかった。
「帰って、手を洗って。それでも何度洗っても何も変わらなくて」
伊吹は自分の手を見る。
「警察に行こうとも思った」
「行かなかった」
透が言う。
「うん」
「どうして」
伊吹は少し笑った。
「一人だけだったから」
意味がすぐには分からなかった。
「奥村だけ死んで、梶原と坂東が普通に生きてる」
伊吹の口元から笑いが消える。
「それが、急におかしく思えた」
そこで。
一件目を正当化するための次が始まった。
透には分かった。
「奥村を殺したのが間違いだったって認めたくなかった?」
伊吹の目が止まる。
「違う」
返事が少し遅い。
「奈緒のためだ」
「だったら」
透は続ける。
「一人目を殺した後に、二人目を殺す理由が増えるのはおかしい」
伊吹の眉が寄る。
まだ言わない。
透はそこで止めた。
続きを聞く。
梶原芽衣。
伊吹は自分から連絡した。
奥村の時とは違った。
メッセージを打つ時、すでに一度人を殺している。
その事実を抱えたまま会った。
「殺すつもりだった?」
大庭が聞く。
伊吹はしばらく答えなかった。
「分からなかった」
「会う前から?」
「話を聞いて」
伊吹の目が落ちる。
「許せるなら、帰そうと思ってた」
ひかりはその言葉を聞き逃さなかった。
許す。
つまりもう伊吹自身が判定する側へ立っていた。
「梶原さんは何て?」
ひかりが聞く。
「泣いた」
伊吹が言う。
「会ってすぐじゃない。でも奈緒の名前出したら、途中から」
梶原は話した。
自分は奈緒を押していない。
奥村が押した。
落ちた瞬間、動けなかった。
朱音が救急車を呼ぼうとした。
坂東が止めた。
自分は何もできなかった。
「ごめんなさいって言った」
伊吹の声に、僅かな揺れが混ざる。
「何回も」
朱音が顔を上げる。
「芽衣は」
声が掠れる。
「ずっと後悔してた」
伊吹が朱音を見る。
「知ってる」
その返事に、朱音の顔が固まった。
「知ってた?」
「話せば分かる」
「じゃあ何で」
朱音が一歩動きかける。
警察官が僅かに前へ出る。
朱音は止まった。
「芽衣は奥村と違う」
「でも黙った」
伊吹が返す。
「違う!」
朱音の声が駐車場へ響く。
「動けなかった。怖かった。だからって許されるわけじゃない。でも、奥村とは違う!」
伊吹は何も言わない。
ひかりが聞く。
「先輩も、違うって分かったんじゃないですか」
伊吹の目がこちらへ向く。
「何が」
「だから迷った」
沈黙。
梶原を殺す前。
伊吹は即座には手を下さなかった。
話を聞いた。
泣く梶原を見た。
何度も謝る声を聞いた。
奥村と同じではないと知った。
それでも。
「二年間黙ってた」
伊吹が言う。
「それが答えだと思った」
ひかりの胸の奥が冷える。
「答えにしたかったんじゃなくて?」
伊吹の眉がわずかに動く。
「奥村君を殺した後だったから」
伊吹は返さない。
「ここで梶原さんだけ帰したら」
ひかりが続ける。
「奥村君を殺したことまで間違いになる気がした?」
「違う」
今度の返事は早かった。
「奈緒は死んだ」
「だから全員同じ?」
「助けなかった」
「朱音は救急車を呼ぼうとした」
「呼ばなかった」
「梶原さんは止めてない」
「黙った」
伊吹の答えはすべて二つに分かれていた。
した。
しなかった。
助けた。
助けなかった。
話した。
黙った。
途中にあるものを削っている。
「梶原さんを殺した時」
透が聞く。
「奥村の時みたいに、気づいたら、だったんですか」
伊吹は答えない。
長い。
それだけで違いが見える。
「違うんですね」
透が言う。
伊吹が目を伏せた。
「途中でやめられた」
小さな声。
朱音が目を閉じる。
「でもやめなかった」
「はい」
二件目。
衝動ではない。
最初から完全に決めていたわけでもない。
その間。
一番、選べた場所。
そこで伊吹は選んだ。
坂東祐生について聞かれた時、伊吹は長く黙らなかった。
「最初から殺すつもりでした」
大庭が確認する。
「会う前から?」
「はい」
声は平らだった。
一件目とも。
二件目とも違う。
「どうして坂東君だけ」
ひかりが聞く。
伊吹は朱音を見る。
「こいつからさっき聞いたことと、ほとんど同じだった」
奈緒が落ちた後。
朱音は救急車と言った。
梶原は動けなかった。
奥村は自分が押したことを否定した。
坂東だけが動いた。
「スマホを出して」
伊吹が言う。
「何を消せるか考えた」
LIE BOX。
連絡。
履歴。
奈緒とつながるもの。
「奈緒が一人で来て、一人で落ちたことにしようって」
朱音が俯く。
「坂東が言った」
「うん」
「でも」
朱音が拳を握る。
「私たちも従った」
伊吹は少しだけ朱音を見る。
「だから同じだって言ってる」
「違う」
透が言った。
伊吹が透へ顔を向ける。
「何が」
「朱音も悪い」
透は言葉を濁さなかった。
「梶原も。奥村も。坂東も」
朱音が僅かに目を伏せる。
「でも、それで同じにはならない」
「結果は奈緒が死んだ」
「結果だけなら」
透は伊吹を見る。
「先輩の三件も全部同じ殺人です」
伊吹の口が閉じる。
「でも先輩は違うって説明した」
奥村。
衝動。
梶原。
迷った。
坂東。
計画した。
「自分の殺人には違いがあるって分かってる」
透が言う。
「なのに奈緒の時の四人だけ、全部同じにした」
伊吹の表情が初めて大きく揺れた。
「違う」
「何が」
「俺は」
言葉が続かない。
透は追い詰めるように早口にならなかった。
ただ待った。
それが以前の透との違いだった。
答えを先に作らない。
本人が話すのを待つ。
伊吹がやがて言う。
「坂東は一番許せなかった」
「じゃあ同じじゃない」
ひかりが静かに言った。
伊吹が見る。
「今、自分で言った」
ひかりは一歩も動かない。
「一番があるなら、同じじゃない」
伊吹の顔から何かが抜けた。
ほんの少し。
「奈緒は死んだ」
またその言葉。
今度は弱かった。
「うん」
ひかりが答える。
「それは変わらない」
「誰も助けなかった」
「それも」
「二年間、誰も話さなかった」
「うん」
ひかりの声が少し震える。
「だから許さなくていい」
伊吹が目を上げる。
「許さなくていいけど、殺していいとは別です」
伊吹の唇が僅かに動く。
「妹が死んだんだよ」
「分かりません」
ひかりは言った。
「私には兄弟をあんな形で亡くした気持ちは分からない」
伊吹の眉が動く。
安い共感をしなかったことが、逆に届いたように見えた。
「でも」
ひかりは続ける。
「奈緒が三人を殺してって言ったかは、先輩にも分からないですよね」
伊吹は黙る。
「本人に聞けないから」
その言葉で、透も息を止める。
ひかりは伊吹を見る。
「分からないまま、自分で答えを決めたんですよね」
伊吹の視線が落ちる。
「奈緒のためだって」
風が吹く。
コンクリートの床を冷たい空気が走る。
「君たちだって」
伊吹が低い声で言った。
「お互い疑ってたんだろ」
ひかりの指が動く。
「野崎は君を調べてた。君も野崎を調べた」
伊吹は透を見る。
「違うの?」
「違いません」
透が答えた。
ひかりが透を見る。
「俺は、ひかりが三人を殺したかもしれないって思った」
伊吹の目が細くなる。
「ほら」
「でも」
透は続ける。
「間違ってるかもしれないって思えた」
「それだけ?」
「それだけが大きいんです」
透の声は静かだった。
「だから証拠を警察に渡した。ひかり本人にも聞いた。自分が間違ってるって分かったら、直した」
一度ひかりを見る。
「遅かったけど」
「遅かったね」
ひかりが小さく返す。
透の口元がほんの少し動く。
すぐ伊吹へ戻る。
「先輩は、奥村を殺した時に戻れた」
伊吹の顔が固まる。
「警察へ行けた」
「……そうだね」
初めて否定しなかった。
「梶原さんの時も戻れた」
沈黙。
「迷ったんだから」
透は続ける。
「でも戻らなかった」
伊吹の拳が緩む。
「その代わり、全員同じだってことにした」
「違う」
声が弱い。
「違わないと思います」
透は目を逸らさない。
「奥村を殺したことを正しいままにするには、梶原も坂東も同じくらい悪くないと困ったんじゃないですか」
伊吹は何も言わない。
長い沈黙。
その間に、遠くを車が走った。
タイヤの音が建物の外を通り、すぐ消える。
「奥村を殺した夜」
伊吹がようやく言った。
声が掠れている。
「朝まで寝られなかった」
透もひかりも何も言わない。
「もし俺が間違ってたらって」
伊吹は自分の手を見る。
「考えた」
そこで止まる。
「でも」
喉が動く。
「間違いだったら、奈緒のためじゃなくなる」
ひかりの胸が締まる。
「ただ俺が人を殺しただけになる」
伊吹は笑った。
ひどく薄い笑いだった。
「だから」
言葉が切れる。
それでも続ける。
「梶原も同じだと思うことにした」
朱音が顔を伏せる。
「坂東は?」
大庭が聞いた。
伊吹は少しだけ目を閉じた。
「坂東まで行った時には」
息を吐く。
「もう考えなくてよかった」
それが一番怖かった。
三人目。
復讐が完成したのではない。
殺人に理由を付ける作業が完成していた。
大庭が一歩前へ出る。
「青砥伊吹君」
伊吹が顔を上げる。
「奥村亮介君、梶原芽衣さん、坂東祐生君。この三人を殺害した?」
今度は長くなかった。
「はい」
「あなたが?」
「俺が殺しました」
金属音。
手錠が閉じる。
伊吹は抵抗しなかった。
連れて行かれる直前、朱音を見る。
「一つだけ」
朱音の肩が動く。
「奈緒が落ちた時」
伊吹は言う。
「救急車、本当に呼ぼうとした?」
朱音の顔が歪む。
「した」
すぐに答えた。
「呼ぼうとした」
「そう」
伊吹は目を伏せた。
何を思ったのかは、誰にも分からない。
そのまま歩き出す。
今度は誰も勝手に続きを決めなかった。
朱音は母親と一緒に帰ることになった。
ひかりの前で立ち止まる。
「ひかり」
「うん」
「私も全部話す」
「うん」
「警察にも。奈緒のお母さんにも」
声が震える。
「逃げない」
ひかりは頷いた。
許すとは言わなかった。
許さないとも言わなかった。
奈緒を助けなかった事実は消えない。
救急車を呼ぼうとしたことも消えない。
両方を残すしかない。
「また学校で」
ひかりが言う。
朱音の目が少し大きくなる。
すぐ、
「うん」
と返した。
奈緒の死についても捜査がやり直される。
奥村が押したこと。
梶原がその場にいたこと。
坂東が隠蔽を主導したこと。
朱音が救急車を呼ぼうとして、結局黙ったこと。
橋爪が相談記録を書き換えたこと。
二年前に一つへまとめられた「自殺」という言葉は、もうそのままでは残らない。
奈緒は戻らない。
時間も戻らない。
それでも間違った名前を、正しい名前へ変えることはできる。
警察署を出た時、日付が変わる少し前だった。
家族には連絡が入っている。
大庭が家の近くまで送ってくれた。
最後の角で車を降りる。
「今日は真っすぐ帰ること」
大庭が言う。
「はい」
ひかりが答える。
「野崎君も」
「分かってます」
「寄り道しない」
「家、そこです」
透が指す。
大庭は少し笑った。
「知ってる」
車が走り去る。
二人だけになる。
夜の住宅街は静かだった。
風も弱い。
庭の土は昼の雨を少し残し、冷えた空気の中に湿った匂いが漂っている。家々の明かりはほとんど消え、街灯の白い光だけが二人の影を足元へ落としていた。
ゆっくり歩く。
隣。
いつもの距離。
でも何を話せばいいか分からない。
「終わったね」
ひかりが言う。
「事件は」
透が答える。
ひかりが横を見る。
「そう言うと思った」
「奈緒のことはこれからだから」
「うん」
また歩く。
「朱音のこと」
ひかりが言う。
「どう思う?」
透は少し考えた。
「分からない」
「私も」
「でも、やったことはなくならない」
「うん」
「救急車呼ぼうとしたこともなくならない」
ひかりが透を見る。
「両方?」
「両方」
ひかりは小さく頷いた。
少し前の透なら、一つに決めたがったかもしれない。
悪い。
悪くない。
犯人。
無実。
今はその間にあるものを、そのまま置ける。
「先輩も」
ひかりが言う。
「最初から殺人犯だったわけじゃなかったね」
透は前を見る。
「うん」
「奥村君を殺したところで」
「戻れた」
「梶原さんの時も」
「戻れた」
「坂東君の時は?」
透は少し黙った。
「戻らない方を、自分で普通にしたんだと思う」
ひかりはそれ以上何も言わなかった。
家が見える。
右が透。
左がひかり。
何百回も歩いた最後の数十メートル。
いつもなら、
また明日。
それだけ。
ひかりが自宅の門へ向かう。
「ひかり」
透が呼んだ。
振り返る。
「何」
透は立ち止まっていた。
「聞きたいことある」
「事件?」
「違う」
ひかりの胸が一度強く鳴る。
「何」
透は視線を逸らしかけた。
戻す。
「前なら」
言う。
「多分、調べてた」
「何を?」
「ひかりが俺のことどう思ってるか」
ひかりの口元がわずかに動く。
「怖いんだけど」
「自分でも思う」
「何調べるの」
「昔の会話とか。誰に何言ってたとか。俺の時だけ態度違うとか」
「気持ち悪い」
「そこまで言う?」
ひかりは少し笑った。
透も。
すぐに笑いが止まる。
「でも」
透が言う。
「もう調べるのはやめた」
街灯の光が、透の横顔へ薄く当たっている。
「だから本人に聞く」
ひかりは門扉へ置いた手を止めた。
透が一度息を吸う。
「――俺のこと、好き?」
頭の中で何かが止まった。
事件。
奈緒。
朱音。
伊吹。
何日も胸の中を占めていたものの隙間から、ずっと別の場所に押し込めていたものが急に出てくる。
「今?」
「今」
「今日?」
「今日」
「三人殺した人が捕まった直後?」
透の顔が少し困る。
「タイミング悪い?」
「悪いと思う」
「じゃあ明日」
ひかりの目が細くなる。
透も自分で気づいた。
「あ」
「明日は嫌」
「ごめん」
二人とも少し笑った。
奈緒のことを思い出す。
明日。
その言葉を、二人はもう逃げるためには使わない。
ひかりは門から手を離した。
透の前へ一歩戻る。
「好き」
透の表情が止まる。
「ずっと」
言ってしまえば、もう隠す方が難しかった。
「幼馴染としてじゃなくて」
透が何も言わない。
ひかりは眉を寄せる。
「聞いといて黙るのやめて」
「ちょっと待って」
「なんで」
「想定してたのに、実際言われると無理」
「何それ」
透が片手で口元を隠す。
耳が赤い。
ひかりはそれを見て、今まで張っていたものが少しずつほどけていくのを感じた。
「私は?」
今度はひかりが聞く。
透が手を下ろす。
「好き」
短かった。
でも、それで十分だった。
「いつから?」
「それ聞く?」
「聞く」
透は少し考える。
「中学入る前くらい」
「曖昧」
「何年何月何日って記録してない」
ひかりが笑う。
「珍しい」
透も笑った。
「そういうの調べるの、やめたから」
ひかりは少し黙る。
それから、
「昔、私が『透は別枠』って言ったの覚えてる?」
と聞いた。
透の顔が止まる。
「覚えてる」
「聞いてたの?」
「聞こえた」
「最悪」
「何で」
「あれ、好きじゃないって意味じゃないから」
「そうなの?」
「逆」
透が黙る。
ひかりは顔が熱くなるのを感じた。
「普通の好きと一緒にしたくなかっただけ」
「それ」
透が言う。
「今まで言えよ」
「透だって」
「何」
「高校も一緒だったらいいねって言った時、『幼馴染だしな』って返したじゃん」
透の視線が逃げる。
「それは」
「何」
「一緒にいたいって意味だった」
今度はひかりが黙った。
数秒。
「それこそ言ってよ」
「言えるか」
「私には言えって?」
「今は言った」
「遅い」
「お互い様」
その言葉で、二人とも笑った。
全部知っていると思っていた。
でも一番簡単なことを、ずっと知らなかった。
聞かなかったから。
「じゃあ」
ひかりが言う。
「明日からどうする?」
「一緒に学校行く」
「今まで通り」
「文化祭一緒に回る」
「二人で?」
「嫌?」
「嫌じゃない」
透はそこで黙る。
ひかりは待つ。
十秒くらい。
「それだけ?」
「何が」
「付き合うとかは聞かないの?」
透の顔が固まる。
「今聞こうと思ってた」
「嘘」
「本当」
「透の本当、信用ならない時あるから」
最初の頃、自分が言った言葉。
透も覚えていたらしい。
笑う。
「じゃあ本人に聞いて」
ひかりが言った。
透が少しだけ真面目な顔になる。
「俺と付き合ってください」
ひかりは頷いた。
「はい」
今度は迷わない。
距離が近くなる。
それでも手を繋ぐまでに、数秒かかった。
透が手を上げる。
途中で止める。
「何」
ひかりが聞く。
「これ、聞いた方がいい?」
「何を」
「手」
ひかりは吹き出した。
「そこまで確認する?」
「勝手にやって怒られたから」
「学習の方向がおかしい」
ひかりは自分から透の手を取った。
冷たい。
知っている手。
何度も見てきた指。
それでも握るのは初めてだった。
透の指が少し動き、ゆっくり握り返す。
「また明日」
ひかりが言う。
「うん」
門へ向かう。
一度振り返る。
「透」
「何」
「明日は待ってて」
透が少し笑う。
「二分までなら」
「待ってる側の二分は長いんだよ」
「知ってる」
門を閉める。
透が隣の家へ帰っていく。
ずっと隣にいた。
近すぎるから、聞かなくても分かると思っていた。
でも違った。
好きなことも。
疑っていたことも。
傷ついたことも。
本人に聞かなければ分からない。
疑わないことが、信じることではない。
疑った時に、それでも本人へ聞きに行けること。
間違ったら、答えを直せること。
きっとその方が難しい。
部屋へ戻ったひかりはカーテンを閉める前に隣を見る。
少し遅れて、透の部屋の灯りがついた。
スマートフォンが震える。
《明日何時》
ひかりは笑う。
《いつも通り》
少し考え、
《彼氏なんだから遅刻しないで》
送信。
既読。
返事がなかなか来ない。
一分ほどして、
《それ毎回言うつもり?》
と届く。
ひかりは、
《彼氏って?》
と返した。
今度はさらに時間がかかった。
やがて、
《慣れるまでやめて》
ひかりは声を出して笑った。
窓の向こうには隣の部屋の灯りがある。
奈緒の時間は戻らない。
三人の命も戻らない。
朱音がしたことも、橋爪が消したものも、伊吹が選んだこともなくならない。
それでも。
間違った答えをそのまま残さないことはできる。
そして明日、分からないことができたら。
今度は先に聞けばいい。
本人に。




