第38話 四人目
連絡が来たのは、その日の夜だった。
ひかりは自室にいた。
机の上には開いたままの教科書。
勉強はほとんど進んでいない。
窓の外には隣の透の部屋の灯りが見える。
カーテンを閉めようとした時、スマートフォンが震えた。
大庭。
『今、話せる?』
「はい」
『丹羽朱音さんが、あなたに来てほしいと言ってる』
ひかりの手が止まる。
「どこですか」
『警察署』
「行きます」
答えた後、
「透は?」
と聞いた。
一瞬だけ間。
『丹羽さんは二人に話したいって』
ひかりは隣の窓を見る。
カーテン越しの灯り。
「分かりました」
電話を切る。
すぐ透へ送る。
《大庭さんから連絡きた?》
ほとんど同時に、
《今きた》
と返る。
《一緒に行く?》
ひかりは少しだけ迷った。
前なら、事件だから。
情報共有だから。
そんな理由を考えただろう。
今はただ、
《うん》
と返した。
警察署へ向かう途中、二人はあまり話さなかった。
夜の街は冷えていた。
歩道を歩く人は少なく、コンビニや飲食店の明かりだけが道路へ四角く落ちている。風が吹くたび街路樹の葉が乾いた音を立て、どこかの店から揚げ油と醤油の匂いが流れてきた。
「朱音」
ひかりが言う。
「うん」
「何話すと思う?」
透は少し考え、
「分からない」
と答えた。
ひかりは小さく笑う。
「それでいい」
透も少し笑った。
それ以上は考えなかった。
答えを作ってから会うのはやめる。
面談室の前には、朱音の母親がいた。
何度か見たことがある。
ひかりを見ると立ち上がり、
「ごめんね」
と頭を下げた。
「何で謝るんですか」
聞いても、母親は唇を結ぶだけだった。
大庭が扉を開ける。
「二人とも、入って」
中へ。
朱音が座っていた。
制服ではない。
薄い灰色のパーカー。
顔色が悪い。
テーブルの前にペットボトルの水が置かれているが、ほとんど減っていなかった。
ひかりを見る。
次に透。
「来たんだ」
いつもの朱音なら、
呼んだからでしょ
と自分で続けたかもしれない。
今日はそれだけだった。
ひかりと透が向かいへ座る。
大庭は少し離れた場所。
「朱音」
ひかりが呼ぶ。
朱音は目を伏せた。
「ごめん」
最初に言った。
「何が」
ひかりの声は思ったより静かだった。
朱音の指がペットボトルのラベルを擦る。
「嘘ついた」
公園。
あの日そこにいなかった。
ひかりの頭にすぐ戻る。
「どの嘘?」
聞いた。
朱音が顔を上げる。
目の縁が少し赤い。
「奈緒が落ちた日」
ひかりの背中が固まる。
透の隣で椅子がわずかに鳴った。
「私、いた」
朱音が言う。
部屋の蛍光灯が小さく鳴っている。
誰も動かない。
「旧駐車場に?」
ひかりが聞く。
朱音は頷いた。
一度。
「いた」
大庭は口を挟まない。
朱音が自分で続けるのを待っている。
「LIE BOX」
朱音の声が掠れた。
「私もやってた」
ひかりの喉が狭くなる。
「四人目?」
朱音は目を閉じた。
「そう」
一瞬。
その一言で、今までのものが全部朱音へ集まった。
四人目。
女の声。
嘘。
奈緒が死んだ場所にいた。
三人の被害者と同じ秘密。
昔のスマートフォン。
忘れて。
今の事件と二年前は別かもしれない。
朱音なら、三人の過去を知っている。
朱音なら。
そこまで考えた自分に、ひかりは気づく。
大庭の言葉。
決めつけない。
でも心臓は速くなる。
「奥村君も」
ひかりが聞く。
声が少し震える。
「梶原さんも、坂東君も」
朱音がこちらを見る。
「うん」
「四人でやってた?」
「うん」
「じゃあ」
その先。
言いたくない。
でも聞かなければならない。
「三人を殺したの?」
朱音の顔が止まった。
透がひかりを見る。
大庭は動かない。
数秒。
朱音は首を横に振った。
「殺してない」
ひかりは息を吐けなかった。
「本当に?」
「本当」
「でも」
「私、人を殺してない」
朱音は膝の上の手を強く握った。
爪が皮膚へ食い込んでいる。
「奈緒が落ちた時も」
声が崩れる。
「救急車、呼ぼうとした」
ひかりの体が固まった。
透も顔を上げる。
救急車。
ICレコーダー。
最後に聞こえた、
『きゅう……』
そして女の声。
『もうやめよう』
朱音は両手で顔を覆った。
「私だった」
指の間から声が漏れる。
「レコーダーの声。たぶん私」
ひかりは何も言えない。
「もうやめようって言ったのも」
朱音が続ける。
「救急車って言ったのも」
大庭が静かに聞く。
「その夜、何があったか最初から話せる?」
朱音は顔を覆ったまま頷いた。
しばらくして手を下ろす。
「奈緒は」
一度息を吸う。
「私たちがLIE BOXやってるって気づいてた」
「最初から四人とも?」
透が聞いた。
朱音は首を横へ振る。
「私以外の三人は、たぶん先に」
ひかりが顔を上げる。
正式に固めていた筋と繋がる。
奈緒は第四の人物がいるとは考えていた。
でも誰かは分からなかった。
「私は、表に出ることほとんどしてなかった」
朱音が言う。
「投稿文もあんまり書いてない。送られてきた話を選んだり、これは載せない方がいいって言ったり」
唇が歪む。
「今言うと、まるで自分だけマシだったみたいだけど」
誰も否定しない。
「同じだよ。やってたんだから」
朱音は自分で言った。
「奈緒が三人を問い詰めるって聞いて、私も行った」
「どうして?」
ひかりが聞く。
「止めたかった」
朱音が答える。
「奈緒を?」
「両方」
その言葉が重く落ちる。
「もうアカウントを消して終わりにしたかった。奈緒にも先生へ言うの少し待ってって言うつもりだった」
「それで旧駐車場?」
「奥村が呼んだ」
朱音は水へ手を伸ばした。
蓋を開ける。
手が震え、少し時間がかかった。
一口。
「最初は話してた」
声が少し戻る。
「奈緒が、先生に全部言うって。証拠も集めるって」
橋爪。
奈緒。
正しいと思ったら引かない。
「奥村が怒った」
朱音の視線がテーブルへ落ちる。
「ふざけてただけだって。送ってくる奴がいるから載せただけだって。誰だって見て笑ってたって」
戸塚の家族。
他の生徒の秘密。
半分本当なら、全部本当に見える。
「奈緒が、だからってやっていいわけじゃないって言った」
朱音の声が薄くなる。
「奥村が近づいた。奈緒も引かなかった」
ペットボトルが小さく鳴る。
朱音の指が潰している。
「奥村が腕を掴んだ」
ひかりは息を浅くした。
「奈緒が振り払った。奥村がもう一回掴んで」
朱音が目を閉じる。
「押した」
誰も動かない。
「殺すつもりじゃなかったと思う」
言い訳のように聞こえる。
朱音自身もそう思ったのか、
「でも押したのは奥村」
と言い直した。
「奈緒が後ろへ下がって、足が」
声が止まる。
旧立体駐車場。
古い手すり。
段差。
ひかりはそこを想像しないようにした。
「落ちた」
朱音が言った。
小さい声だった。
部屋の中ではっきり聞こえた。
「その後」
大庭が促す。
朱音の目から涙が一つ落ちた。
拭かない。
「私、救急車って言った」
固定された音声。
『きゅう……』
「呼ぼうとした」
「呼ばなかった?」
ひかりが聞く。
朱音は首を横へ振る。
「坂東に止められた」
透の眉が動く。
「なんて」
「待てって。今呼んだら、四人でここにいたことが全部分かるって」
朱音の声が少しずつ速くなる。
二年前の場所へ戻っているようだった。
「梶原は何もできなくて。ずっと奈緒の落ちた方見てた。奥村は、俺が押したんじゃない、勝手に下がったんだって言って」
「坂東は?」
大庭が聞く。
朱音は唇を噛む。
「スマホ出してた」
「何をした?」
「連絡とか、履歴とか。消せるもの消そうって」
透の表情が固くなる。
「LIE BOXも?」
「うん」
「奈緒とのやり取りも?」
「消した」
「全員?」
「できる範囲で」
朱音は目元を手で擦った。
「坂東が言った。奈緒は一人で来て、一人で落ちたことにするって」
ひかりの胸の奥が重く沈む。
自殺。
二年前の結論。
「私、嫌だって言った」
朱音が言う。
「でも」
その続きは、言わなくても分かる。
結局。
「黙った」
朱音が自分で言った。
「救急車も呼ばなかった」
手が震える。
「帰った」
ひかりは目を伏せた。
無実ではない。
朱音は人を殺してはいない。
でも奈緒を助けるために最後まで動いたわけでもない。
一言で被害者にも加害者にもできない。
「翌日」
朱音が続ける。
「奈緒が死んだって聞いて」
声が震える。
「みんなで、何も知らないって言った」
梶原は凍った。
奥村は押した。
坂東は隠した。
朱音は救急車を呼ぼうとした。
でも最後には黙った。
四人の罪は同じではない。
でも誰も、何もなかったとは言えない。
「だから三人が死んだ時」
ひかりが言う。
「朱音、何が起きてるか分かった?」
朱音は首を振る。
「最初は分からなかった」
「奥村君が死んでも?」
「怖かった。でも、二年前と関係あるなんて考えたくなかった」
「梶原さんは?」
「そこで」
朱音の声が小さくなる。
「もしかしてって」
「それでも黙った」
「うん」
「坂東君も死んだ」
「うん」
朱音はもう言い訳しなかった。
ひかりは拳を握る。
責めたい。
どうして早く言わなかったの。
奈緒をどうして助けなかったの。
どうして今まで。
全部正しい。
でも目の前で泣いている朱音を見ていると、言葉が喉の奥で絡まった。
「私」
朱音がひかりを見る。
「奈緒のこと忘れた日、一日もない」
ひかりは黙る。
「忘れてって言ったの、自分が忘れたかったから」
公園。
あの頃のことは忘れて。
「忘れられないくせに」
朱音が笑った。
泣きながら。
「最低だよね」
ひかりは、
そうだね、
とも、
そんなことない、
とも言えなかった。
代わりに聞いた。
「奈緒、最後に何か言った?」
朱音の表情が止まる。
「落ちる前?」
「うん」
朱音は考える。
「私たちに言ったことじゃないけど」
「何」
「お兄ちゃんにまで迷惑かけたくないって」
透が顔を上げる。
ひかりも。
「お兄ちゃん?」
「奈緒、兄いたの?」
ひかりは知らなかった。
朱音が頷く。
「名字違うって言ってた」
「どうして」
「親が離婚して。お兄ちゃんはお父さん側、奈緒はお母さん側」
大庭の目が鋭くなる。
「名前は?」
朱音は少し考えた。
「伊吹」
透の呼吸が止まった。
ひかりも。
大庭は二人の反応を見る。
「知ってる名前?」
透の頭に、校舎裏のベンチが戻る。
――頑固だったんじゃない。
昔、誰かから聞いた。
そして、
落ちた場所。
ひかりも同じ人物を思い浮かべたのか、透を見る。
名前を言いかける。
透は首をほんの少し横へ振った。
今ここで二人だけで答えを作らない。
大庭へ向き直る。
「同じ学校に」
透が言った。
「青砥伊吹っていう三年生がいます」
大庭の表情は変わらなかった。
「分かった」
それだけ。
ひかりが息を呑む。
大庭ははっきり言った。
「二人とも、ここから先は何もしないで」
透もひかりも頷いた。
「連絡しない。会いに行かない。調べない」
「はい」
今度も声が重なった。
朱音が二人を見る。
「青砥?」
ひかりは答えなかった。
まだ分からない。
名字が違う兄。
名前が伊吹。
同じ学校に青砥伊吹がいる。
それだけ。
それだけなのに。
今までばらばらだったものの隙間に、一つの名前が静かに入り込んだ。
透は拳を開く。
隣では、ひかりも同じように手を膝の上へ置いていた。
二人とも動かなかった。
初めてだった。
答えが目の前にあるように見えるのに、自分たちだけで確かめに行かなかった。




