第36話 見ていた時間
翌朝、透は一人で学校へ向かった。
隣の家の玄関はまだ閉じていた。
いつもの時間より十分早く出たから当然だった。
昨日、公園でひかりに言われた。
一人で帰りたい。
だから今日は待たなかった。
それが正しいのか、ただ逃げているだけなのかは分からない。
住宅街には朝の薄い光が差し始めていた。夜の冷え込みが残った空気は指先を少し痛くするほど冷たく、庭木には細かな露が付いている。どこかの家から味噌汁と焼いたパンの匂いが同時に流れてきて、生活の始まる気配だけがいつも通りだった。
透は何度かポケットのスマートフォンへ触れた。
連絡はない。
送ってもいない。
昨夜からトーク画面を何度開いたか分からない。
《昨日はごめん》
違う。
昨日だけではない。
《今までごめん》
何を謝っているのか分からない。
《話したい》
昨日話した。
その結果があれだった。
全部消した。
学校へ着く。
昇降口で靴を履き替えている時、
「野崎」
後ろから呼ばれた。
振り返る。
大庭佳澄が立っていた。
一瞬、学校の教師に見えた。
スーツの色が地味だからかもしれない。
でも目が合えば違うと分かる。
「今、少しいい?」
透は頷いた。
応接室へ入る。
以前より朝の光が強かった。
窓から低い陽射しが入り、テーブルの表面に細かな傷を浮かび上がらせている。暖房を入れたばかりなのか部屋はまだ冷たく、紙と古いソファの匂いの中に、誰かが飲んだコーヒーの香りだけが残っていた。
大庭は座る前に言った。
「坂東祐生君のことで、確認したい」
透の背中が少し伸びる。
「はい」
「亡くなった時間帯が前より絞れた」
透は大庭を見る。
「何時ですか」
「まだ幅はある。十七時三十五分から十八時五分頃」
数字を聞いた瞬間、頭の中に駅前の景色が出てきた。
商業施設。
コンビニ。
ひかり。
十七時十九分には、もう待ち合わせ場所にいた。
三十分。
来ない坂東。
四十分。
電話。
四十八分頃。
自分と目が合った。
その前から。
ずっと。
「何かある?」
大庭が聞く。
透はすぐ答えられなかった。
「その時間」
自分の声が低くなる。
「ひかりは駅前にいました」
大庭の表情は変わらない。
「どうして分かる?」
そこだった。
透は指を組んだ。
「見てたから」
「いつから?」
「学校を出てから」
大庭は黙る。
透は続けるしかなかった。
「後をつけました」
「それは聞いてる」
前に自分で話した。
それでも口にするたび嫌な感じがする。
「駅まで。電車も別の車両で。降りてからも」
大庭のペンが動く。
「待ち合わせ場所に着いたのは?」
「十七時二十分前くらい」
「そこから?」
「ひかりはずっといました」
「目を離した時間は」
透は考える。
コンビニの前。
車。
人。
ひかりが人混みに一瞬隠れた時。
「数秒ならあります。でも、その場からいなくなるくらいの時間はないです」
大庭は書き続ける。
「十七時三十五分から十八時五分」
透は口にした。
もう一度、時間を確かめる。
大庭が顔を上げる。
「気づいた?」
透は頷いた。
喉の奥が少し熱くなる。
「ひかりじゃない」
言った。
初めて、頭ではなく口で。
「少なくとも坂東を殺したのは」
大庭はすぐには肯定しなかった。
「あなたの証言だけで決めるわけにはいかない」
「分かってます」
「野崎君自身の移動も確認する」
「はい」
「駅や周辺のカメラ、交通記録も」
「はい」
透は机を見る。
ひかりを疑っていた。
坂東に何かするかもしれないと思った。
だから追った。
やってはいけなかった。
それは変わらない。
なのにその行動が今、ひかりがやっていないと示す材料になる。
あまりにも都合が悪くて、少し笑いそうになった。
笑えるはずがないのに。
「大庭さん」
「何?」
「俺、馬鹿ですね」
大庭のペンが止まる。
「それは事件について?」
「全部」
大庭は少しだけ息を吐いた。
「判断は保留にしとく」
透は顔を上げる。
「でも」
大庭は続けた。
「自分が間違ってたと分かった時に、見なかったことにしないのは大事」
透は何も返さなかった。
ひかりに言わなければ。
今度は。
確認してからではない。
警察が全部裏を取ってからでもない。
自分が今分かったことを。
本人へ。
昼休みになっても、ひかりとは話さなかった。
同じ教室にいる。
それだけ。
ひかりは朱音と話していた。
時々笑う。
でも以前より少し声が小さい気がする。
自分がそう聞きたいだけかもしれない。
透はスマートフォンを取り出した。
文字を打つ。
《話したい》
止まる。
昨日と同じでは足りない。
消す。
もう一度。
《話したい。今度は、全部》
送信。
既読はすぐにつかなかった。
五分。
十分。
透はパンの袋を開けた。
食べる気はない。
それでも一口噛む。
味がほとんどしない。
十五分ほどしてスマートフォンが震えた。
ひかり。
《私も》
それだけ。
透は画面を見た。
《今日?》
送る。
今度はすぐ既読。
《今日》
透は息を吐いた。
ほんの少しだけ。
放課後。
二人は昨日の公園ではなく、家の近くの河川敷へ向かった。
どちらが決めたわけでもない。
学校を出て、
「どこで話す?」
と透が聞き、
ひかりが、
「歩きながらでいい」
と言った。
そのまま帰り道を少し外れた。
川沿いは風が強い。
夕方の空は雲が薄く広がり、西だけが淡い橙色に残っていた。川面から湿った冷気が上がり、草の青臭さと遠くの煙の匂いが混ざっている。土手を自転車が一台通り過ぎ、その後は二人の靴が砂利を踏む音だけになった。
「大庭さんに呼ばれた」
透が先に言った。
ひかりが横を見る。
「今日?」
「朝」
「何で」
「坂東の死亡時間が絞れた」
ひかりの表情が変わる。
透は続ける。
「十七時三十五分から十八時五分くらい」
ひかりは歩いたまま考えている。
数歩。
そこで足が止まった。
「私」
透も止まる。
「うん」
「待ってた」
「うん」
「透が見てた」
言葉に棘はなかった。
その方が痛い。
「うん」
「ずっと?」
「その時間は」
ひかりは川を見る。
風で髪が頬へかかる。
直さない。
「じゃあ」
声が少し小さくなる。
「透は、もう私が坂東君を殺したとは思ってない?」
透は迷わなかった。
「思ってない」
ひかりがこちらを見る。
「警察は?」
「俺の話だけじゃ駄目だから確認するって」
「そっか」
「でも俺は」
透は言った。
「違った」
何が、とは言わなくても伝わる。
「俺が疑ってたこと」
ひかりは何も言わない。
「間違ってた」
風が吹く。
川面に細かな波が立つ。
透は続ける。
「ごめん」
ひかりはすぐに、
「いいよ」
とは言わなかった。
それでよかった。
「尾行されたことは、まだ許してない」
「うん」
「殺人犯だと思われてたことも」
「うん」
「でも」
ひかりは自分の袖を握った。
「私も同じだから」
透は目を伏せる。
「それは今日話す」
ひかりが言う。
「全部」
「うん」
また歩き出す。
少しだけ距離が近くなった。
肩は触れない。
でも昨日よりは近い。
透は前を向いたまま言った。
「今度は、途中で明日にしない」
ひかりの口元がわずかに動いた。
「絶対」
「うん」
夕方の河川敷を、二人はゆっくり歩いた。




